3.高見の塔(3)
高見さんが叫び声を発して高見台から転がり出てきた。ひどく焦った顔をしている。
「嵐が来る! みんな、衝撃に備えて!」
高見さんは壁のスピーカーに向かって大声で繰り返す。その声が合図になって、塔のあちこちで警報ベルが鳴り響く。住人たちの顔つきが変わり、彼らは手際よく店のシャッターを下ろし、通路に置かれたテーブルや椅子を床に固定し始めた。
「嵐?」
「この塔は、年に数回、巨大な嵐に見舞われるんだ」私たちを壁の反対側に誘導しながら高見さんが説明する。「おかしい。本来なら、まだ嵐が来る時期ではないのだが……大丈夫、この塔は頑丈だ。ただ、揺れにだけは気をつけて!」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ゴウ、という轟音と共に、塔が大きく傾いだ。
「きゃあ!」
私は床に投げ出された。住人たちは手すりや柱にしがみついている。慣れていない私には絨毯の端を掴むことしかできない。塔は巨大な振り子のように右へ、左へ大きく揺れ始め、私の身体は、磨き上げられた床の上を、転がり始めた。
「メグ!」
アッシュと高見さんの悲鳴が遠くなる。まるでビー玉のように螺旋通路を転がり落ち、吸い込まれるように、塔の中心にある吹き抜けへと放り出された。
どれだけ落ちただろうか。背中の強い痛みで私は意識を取り戻した。湿ったカビの匂いが鼻を刺激する。天井の遥か上から、ガラスの破片がキラキラと舞い落ちてくる。床には泥や枯れ葉が溜まり、焚き火の跡がいくつも残っていた。
「……なんだ、この娘は」
低い声がして、私は囲まれていることに気づいた。毛皮をまとい、顔に泥を塗った、屈強な男たち。彼らの目には、飢えたような光が宿っていた。
「塔からの贈り物、かな」
一人がにやりと笑うと、私の腕を掴んだ。抵抗する間もなく、私は彼らに引きずられるようにして塔の外へ連れ出された。
「……放して!」
叫んでも、深い森が声を吸い込んでいくだけだった。
連れて行かれたのは、岩壁に囲まれた広場だった。粗末なテントと焚き火があり、男たちのアジトのようだった。
「おい、上等な獲物が手に入ったぞ!」
私を連れてきた男が叫ぶと、テントの中から一際大きな男が出てきた。リーダーらしい。彼は私を見下ろし、ねっとりとした視線で舐め回す。
「なるほど、こいつはいい。シリアルナンバーを持っていやがるな?」
彼は私の前にしゃがみ込むと、汚れた指先を伸ばしてきた。
「よこせ。その番号をよこせば、命だけは助けてやる」
「いや……!」
私は必死で後ずさった。
「嫌だ! 誰か、助けて!」
リーダーが舌なめずりをして、私に手を伸ばした。恐怖で心臓が破裂しそうだった。
私は無意識に、腰のポシェットを握りしめた。砂の瓶が、カッと熱くなった。火傷しそうなほどの熱と共に、目の前の景色が二重になり、知らない光景が、激流のように流れ込んできた。
これは……アッシュ?
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「メグ!」
アッシュは、吹き抜けの縁に身を乗り出して叫んだ。遥か下の暗闇は、彼女の声を飲み込むだけで、何の答えも返ってこない。
「嘘……そんな……」
青ざめた顔のアッシュは、震える手で高見さんの腕を掴んだ。
「どうしよう、高見さん! メグが……メグが落ちちゃった!」
「落ち着いて、アッシュ」高見さんはアッシュをなだめるが、彼自身も恐怖で声が震えていた。「もし、最下層まで落ちたのなら……」
「なら? ならって、何なの!?」
「あそこは……ただの底じゃないんだ」高見さんは暗い吹き抜けの底を見つめた。「塔の住人は誰も近づかない。光が届かない無法地帯だ。かつて、塔から追い出されて森に住むようになった者たちが、たむろしていると聞く。彼らは塔を……僕ら塔の住人を、憎んでいるんだ」
「だから何だっていうの!?」アッシュはエレベーターへと駆け出そうとするのを、高見さんは必死で押しとどめた。
「待つんだ、アッシュ! 無茶だ!」
「無茶? じゃあ、このまま見殺しにしろとでも言うの!」
「そうじゃない!」高見さんは苦しげに顔を歪めた。「もし、本当に最下層まで落ちてしまったのなら……もう、連中に見つかっているはずだ。今頃は、深い森の中へ……僕らが行っても、もう手遅れかもしれない」
「手遅れって……」アッシュは信じられないというように、高見さんを睨みつけた。「じゃあ、私が行く」
アッシュの瞳に決意の光が宿っていた。
「メグは私のたった一人の友達。見捨ててなんておけない」
「アッシュ、落ち着いてよく聞いてくれ。僕はこれから警備団の連中を呼んでくる。かれらと一緒に森へ行って、メグを取り戻すんだ。だからいいかい、僕が戻ってくるまで、ここに居てくれ。わかったね?」
高見さんの言葉を最後まで聞かずにアッシュは飛び出した。応援を待っている時間なんてない。
「アッシュ! 無茶だ!」
背後から聞こえる高見さんの叫び声は彼女に届かなかった。
最下層へと向かうエレベーターの中、アッシュは恐ろしさで震える自分を必死で抑えつけていた。暗い森、野蛮な荒くれ者たち。考えるだけで、足がすくむ。でも、それ以上にメグを失うことのほうが、もっと怖かった。アッシュは目を閉じてメグの顔を思い浮かべた。声が聞こえてくる。
『あー、アッシュ、好き嫌いいけないんだ!』
震えがとまり、恐ろしいほどの集中力がみなぎってくる。
(森の地形、アジトの推定位置、高見台からの死角、風向き、時間帯……)
(私の武器は、知識。SMMM理論の、宇宙の法則そのもの……)
(クロック・スキップ。宇宙プロセッサに意図的な負荷をかけ、一瞬の「停止」を作り出す)
(そのためには増幅水晶が必要。鉱脈は森の南東。アジトとの位置関係は……)
エレベーターの扉が開く頃には、複雑な救出プランの設計図が、寸分の狂いもなく描き上がっていた。
(絶対、うまくいく)
エレベーターの扉が開く。アッシュは薄暗い森の中へと駆け出した。
湿った土と、むせ返るような植物の匂い。彼女の背筋を恐怖が駆け上がる。
(計算は、できている)
彼女は目を閉じ、意識を集中させる。森の構造を頭の中に描き出していく。木々の配置、気の流れ、大地に眠る微弱なエネルギーの分布図。
(あった。南東、古い大樹の根元……増幅水晶の鉱脈)
目を開けたアッシュは、最短ルートを割り出すと、迷いなく森の奥深くへ向かった。ぬかるみに足を取られ、蔦に服を引かれながら、ひたすら走った。すぐに、苔むした岩壁に埋まる、透明な水晶の群晶を見つけ出した。計画に必要な、最低限の大きさの破片をいくつか手に入れると、彼女はすぐに踵を返した。
(次は、アジトへ)
アッシュは異変に気づいた。今まで見えていたはずの、エネルギーの流れを示す光の筋が、どこにも見えない。それどころか、木々の位置が、さっきまでと微妙に違っているように感じられた。
(……おかしい)
同じ場所をぐるぐると回っているような感覚。
(……アジトは、どこ……)
焦りが、彼女の冷静さを奪っていく。計算されたはずの計画が、根底から崩れ去ろうとしていた。
キラッ。
森の木々の間から、一筋の眩い光が差し込んだ。人工的な、秩序だった光の柱だった。アッシュが顔を上げると、遥か上空、高見台の窓が、巨大なレンズのように輝いていた。
光の柱の中で、高見さんの姿が、いっそう大きく見えた。彼は巨大な腕で、森の一点を力強く指し示していた。アジトの方向だ。
(……高見さん)
届くはずのない感謝を心の中で呟くと、光が指し示す方向へ、再び走り出した。
光に導かれ、アッシュはアジトを見下ろせる崖の上までたどり着いた。眼下では、荒くれ者たちが焚き火を囲み、縛られたメグがリーダーらしき男の前に引き据えられている。
(間に合った……!)
アッシュはポシェットを開くと、店主から渡された砂の瓶を取り出した。中から一粒だけ、赤い時の砂を慎重につまみ出す。
(SMMM第二法則……宇宙はシングルプロセッサ。一度に処理できるタスクは一つだけ。なら……)
彼女はそう呟くと、もう片方の手に握った増幅水晶の破片に、赤い砂をそっと乗せた。
(宇宙が処理しきれないほどの計算を、一クロックのうちに強制させれば……世界は、ほんの一瞬だけ、瞬きをやめるはず)
アッシュは息を止め、狙いを定める。そして、ビー玉を弾くように、時の砂を乗せた水晶の破片を崖下の焚き火めがけて投げつけた。
リーダーが、メグに手を伸ばしたとき、世界が一瞬、白く点滅した。彼女の目には、世界が完全に静止して見えた。リーダーも、その仲間たちも、宙に舞う焚き火の火の粉さえも、ぴたりと動きを止めている。
アッシュは静止した世界を駆けた。
凍りついた荒くれ者たちの間をすり抜け、彼らの驚愕した表情を横目に、一直線にメグの元へ。後ろ手の縄を、解き放つ。
⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️
アッシュが、恐怖で座り込む私を強く抱きしめた。
(え……?)
止まった世界が映る。目の前で私を掴もうとしているリーダー。宙に浮いたままの火の粉。すべてが一枚の絵のようだ。砂の瓶の光が収まっていく。私の両頬にアッシュの柔らかい手があった。
「よかった……本当に、よかった……」
アッシュが、震える声で囁く。その声が合図だったかのように、世界の時間が再び流れ始める気配がした。
「走って、メグ! 早く!」
アッシュが私の手を引いて、塔へと続く道を、全力で駆け出した。
止まっていた時間が流れ出し、背後で荒くれ者たちの怒号が聞こえたときには、私たちは深い木々の中に消えていた。
ひたすら走った。木の根につまずき、枝で頬を切りながら、私はアッシュの手を握りしめて離さなかった。やがて森を抜け、目の前に塔の巨大な姿が見えたとき、私たちは同時に足を止め、その場にへたり込んだ。塔の入り口に、高見さんと、屈強な男たちが、心配そうに外を見回していた。
「メグ! アッシュ!」
私たちの姿を見つけた高見さんが、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
「よかった……本当によかった……無事だったんだね」
「あの森から戻ってくるとは……」筋肉隆々の男が顎に手をあてて呟いた。警備団の団長のようだ。「なんという子たちなんだ」
警備団に護衛されながら、私たちはエレベーターで塔の上層階へと戻った。薄暗く湿った最下層から、光と活気に満ちたいつもの通路へと帰ってきたとき、私は心の底からほっとして、深く長く息を吐いた。
「アッシュ……アッシュ……私なんて言ったらいいか」
ソファに座り、ようやく言葉が出るようになった。隣に座ったアッシュは、静かに首を横に振った。私たちは互いの顔を見つめ合って、柔らかく微笑んだ。
ほっとしたら、急にお腹がぐーっと鳴った。顔を見合わせたまま、私たちは思わず笑ってしまった。高見さんが「まずは何か美味しいものでも食べよう。案内するよ」と、私たちを上層のレストランへと促してくれた。
何を食べようかと想像しながらソファから立ち上がった時、塔の陽気なざわめきがふいに消えた。歌うようにパンを売っていたおじさんも、楽しそうにおしゃべりしていたカップルも、動きを止め、不安そうに螺旋の下の方を見つめている。遠くから、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
「来たか……」高見さんの顔が青ざめた。「まったく、次から次へと……『虚数ハンター』……僕らはそう呼んでいる。君のようにシリアルナンバーを失った者――『数を持たない者』を捕らえては、存在ごとさらっていく」
彼の言葉を裏付けるように、下の通路からパニックが伝播してきた。人々が叫び声を上げ、我先にと螺旋を駆け上がってくる。その混乱の中から、冷気をまとった一つの人影が、エレベーターに乗って静かに上昇してくるのが見えた。
「こっち! 上に走って!」
高見さんは私たちの腕を掴むと、螺旋通路を駆け上がり始めた。
「エレベーターを使ったら追いつかれる! 上の転送デッキを目指すんだ!」
私たちは無我夢中で走った。背後で空気を切り裂く音が何度も響き、狩人が着実に後を追ってきているのが分かった。彼の銃弾が、昨日まで平和だった街を破壊していく。パン屋のカウンターが砕け散り、色とりどりの雑貨が棚から弾け飛ぶ音が聞こえた。ガラス張りの外壁に巨大な亀裂が走り、塔全体が悲鳴を上げているようだった。
「くそっ!」
さらに上へと続く通路の先に、狩人がいつの間にか回り込んでいた。私たちは足を止め、じりじりと後ずさる。
狩人は無表情のまま、銃口をゆっくりと私に向けた。
「伏せて!」
高見さんが私とアッシュを突き飛ばす。その瞬間、私たちを庇うように立った彼のすぐ横を銃弾が通り過ぎ、エレベーターの扉に突き刺さった。衝撃で制御盤が火花を散らし、扉がこじ開けられるようにゆっくりと開く。
「乗って!」
高見さんは私たち二人をエレベーターの中に突き飛ばした。
「土の星だ! そこにキミを助けてくれる者がいるはずだ! どうか無事で!」
彼はエレベーターには乗らず、外から閉じるボタンを連打する。扉の向こうで、狩人が再び銃口を構えるのが見えた。
「高見さん!」
扉が閉まる直前、優しく勇敢でノッポのお兄さんは、初めて深くかぶった帽子を取り、不器用そうに、はにかんだ。
ガン、と重い音を立てて扉が完全に閉まり、エレベーターの中は真っ暗になった。静まり返った闇の中、私たちは息を殺す。
ドアの向こうから、乾いた銃声が、二発響いた。
その音を合図にするかのように、エレベーターは床が抜けたように急降下を始めた。猛烈な重みが身体にのしかかり、私の意識は急速に遠のいていった。




