3.高見の塔(2)
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明るい陽射しが差し込む書斎で、私は原稿用紙に向かっていた。肩まで伸ばした髪を、後ろで軽くまとめている。白いブラウスに黒いジャケット。執筆に集中する時のいつものスタイルだ。
机の上に「宇宙漂流記」という題名の原稿が積まれている。私のデビュー作だ。自分の宇宙ジャンプ体験を元に書いたこの小説で、新人賞を受賞した。
「メグ、調子はどう?」
担当編集者の拓也さんがドアをノックして入ってきた。細身で背が高く、いつも少し困ったような笑顔を浮かべている。
「拓也さん!」私は振り返って微笑んだ。「新作の構想、すごくいい感じなんです」
私は椅子から立ち上がって、拓也さんの前に立った。
「聞かせて」拓也さんはにやっと笑う。
「平行宇宙の恋人同士の話なんです。主人公の女性が宇宙ジャンプを繰り返すたびに、恋人が少しずつ違う人になっていく。でも彼女は気づくんです。どの宇宙の彼でも、本質は同じだって」
拓也さんの目が輝いた。「それは面白い。君らしいテーマだ」
最初は編集者と作家という関係だったが、だんだんと惹かれ合うようになった。拓也さんは私の作品を誰よりも理解してくれる人だった。
「実は」私は照れながら言った。「主人公のモデルは私なんです。恋人のモデルは……」
「僕?」拓也さんは微笑んだ。「光栄だな」
その時、頭の中でザザザという音が響き始めた。
「あ」思わず手を頭に当てた。
「どうしたの?」拓也さんが心配そうに近づいてくる。
私は答えられなかった。久しぶりの宇宙ジャンプ。30歳になってからは滅多に起こらなくなっていたのに。
ザザザザザ……
音がだんだん大きくなり、視界がぼやけてくる。拓也さんの顔が歪んで見えた。
ふっと音が止んだ。
拓也さんが私の肩に手を置いて私の顔を覗き込んでいる。
「ちょっとめまいが」何とか笑ってみせた。「疲れてるのかも」
でも心の中では警戒していた。また起こった。宇宙ジャンプ。
最初は何も変わっていないように見えた。同じ書斎、同じ原稿、同じ拓也さん。
いや。拓也さん、紺色のネクタイをしていたはず。声のトーン。微妙に低い。
「恵さん、大丈夫ですか?」
恵さん? 私は彼の変化を分析した。このクセは身体に染み付いて直ることがない。同じ顔、同じ体型、同じ雰囲気。でも微妙に違う。この宇宙での拓也さんは、私との関係がもう少し距離のある人なのかもしれない。
「新作の構想、聞かせていただけませんか?」拓也さんが言った。
この言い方。私たちはまだ恋人同士じゃない。
同時に作家としての興味も湧いてきた。同じ人なのに、微妙に違う設定の『拓也』さん。まるで小説のキャラクターシートを何枚も並べて検討しているようだ。
「平行宇宙の恋人同士の話です」私は言った。「主人公の女性が気づくんです。どの宇宙の恋人でも、本質は同じだって」
拓也さんの目が輝いた。その輝き方はまったく同じだった。
「それは素晴らしいテーマですね。愛の本質を問う物語になりそうです」
ああ、と私は思った。この人も同じ魂を持っている。表面的な設定は違っても、私の作品を理解してくれる心は同じ。私に興味を持ってくれる気持ちも同じ。
もしかしたら、この宇宙の拓也さんとも、いずれ恋人同士になるかもしれない。時間をかけて、お互いを知り合って。
「ありがとうございます」私は微笑んだ。「頑張って書き上げます」
「楽しみに待ってます」拓也さんも微笑んだ。
その笑顔は変わらず素敵だった。
……「メグ、まだ起きてたのかい? 少し休んだほうがいい」
不意に、後ろから静かな声がした。マグカップを二つ持った、穏やかな笑顔の男性がそこにいた。私の小説を担当してくれている編集者。私の夫。彼は私の隣にそっとマグカップを置くと、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「もう少しだけ。このシーンの、あと一行がどうしても……」
「分かるよ。でも、君のその好奇心は、時々ブレーキが壊れるからな」
そう言って笑うと、私の書きかけの原稿に目を落とした。
「……なるほど。主人公が、自分の特異な体質の意味を見出す場面か。この表現は、やっぱり君にしか書けない。素晴らしい」
「時々、全部ただの私の妄想だったんじゃないかって、怖くなるの。私が『跳んだ』って感じてたことも、SMMM理論も、ぜんぶ。ただの夢だったんじゃないかって」
すると彼は、壁に飾られた一枚の額を指さした。緊張した面持ちで、ドレスアップした私が、トロフィーを持っている。文学賞の受賞パーティーの写真だ。
「夢だけで、これだけの人の心を動かせるものかな」彼は私の肩を優しく抱いた。「君が見てきたものは、本物だ。だから、その言葉は力を持つんだ。僕は、君の最初の読者として、それを保証する」
彼の胸に顔をうずめると、いつもの整髪料の香りがした。心のどこかでずっと探し求めていた安らぎが、ここにはあった。私が私のままでいることを、世界が許してくれている。そう感じられた。
「ありがとう……」
私は彼が入れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
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ビジョンから覚めると私の頬を涙が流れていた。びっくりするくらい生暖かった。
書斎の陽だまり、コーヒーの香り、私を包んでくれた人の腕の感触が、まだ生々しく残っている。
失いたくない。……違う。なんて言えばいいんだろう……あれは……私がたどり着くべき場所。守らなくちゃいけない、私自身の未来。
「無」になるのは嫌だと思った。意味も分からず、望んでないのに、好き勝手に消されるのは嫌。あの未来、私を信じてくれる人の感触を、この手から奪われるのは、絶対に嫌。私は進む。私は、私のシリアルナンバーを、必ず取り戻す。
翌朝、私はガラスから差し込む薄い光で目を覚ました。どうやら興奮したままいつの間にか寝てしまったらしい。
「昨日はよく眠れたかな?」
高見さんが、大きなトレイを手に、私たちの元へやってきた。トレイの上で、柔らかそうなパンと琥珀色のスープが、湯気を立てている。香ばしい匂い。忘れていた食欲がすごい勢いで戻ってきた。考えてみたら昨日からなんにも食べていない。
私はほかほかのパンにかぶりついた。甘い木の実が練り込まれている。アッシュはそんな私を横目に、カップを手に取り、スープを上品に一口すすった。それからフォークを取り上げ、スープのなかから緑色のモシャモシャを慎重に取り分けた。
「アーー、みーちゃった、アッシュ、好き嫌いいけないんだ」
「私、野菜が苦手なの。特にこういう丸くて固いの。苦いし渋いし大嫌い」
「緑が野菜とは限らないよ。ほら、甘くてぜんぜん苦くない」私は緑のモシャモシャを食べて見せる。
「緑は野菜って決まっている。どの宇宙でも。っていうか、これは私に食べられてはいけないやつ。色がそう言ってる」
ぶつぶつ独り言をいいながら、アッシュは華麗なフォークさばきで黄色のモコモコと緑のモシャモシャを着実にカップから取り出す。
「美味しいのになぁ。野菜じゃないのに。わたしそれ食べていい?」
アッシュは信じられないという顔をしながら、お皿をこちらに向けてくれた。
緑の塊を口に放り込んだ。見た目よりずっと歯ごたえがあって、噛むほどじゅわっと甘みが増す。
「もいひい」
「飲みこんでから言いなさいよ」
顎がカクカクするくらい一生懸命噛んで、やっと飲み込む。
「おいちい」
アッシュはちらっと私を見ただけで、直ぐにスープの取り分け作業に戻った。
「よかった。食欲はあるみたいだね。僕は一度、高見台に戻って朝の見張りをしてくるよ。食べ終わる頃にまた来るから、そうしたら、昨日の話の続きをしよう」
高見さんはそう言うと、私たちに背を向けて、自分の部屋へと戻っていった。
「よく眠れた、アッシュ?」
「うん、ぐっすり。メグは?」
「……ばっちり! アッシュの寝言が、ちょっとうるさかったけど」
「うそ!? そんなの絶対うそ! 私、寝言なんて言わないから!」
私は笑って窓の外に広がる森を見た。
楽しい朝のひとときはここまでだった。




