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2.砂の本

 アッシュを追って路地裏に飛び込む。陽気な大通りとは空の色からして違う。コンクリートに挟まれた道は、人が一人通るのも難しい。コケだらけの地面にゴミの酸っぱい匂い。空気が重く淀んでいた。

「アッシュ!」

 張り上げた声が壁にぶつかって耳元で砕けた。背中をこすりながら、油の浮いた水たまりを避け、慎重に奥へと進む。あの猫、そしてアッシュは、間違いなくこの路地に消えた。きっとこの先で睨みあっているに違いない。

 

 道が開けた先は行き止まりだった。突き当たりに、古い木造の建物が一軒、ぽつんと建っていた。アッシュはその店の前で、腕を組んで私を待っていた。

「見失っちゃった」彼女は唇を尖らせた。「ありえないくらい速いのよ、あの猫。物理法則を無視した加速」

「そりゃ、猫だからね……」

 私は息を整えながら、アッシュよりも建物の方に目を奪われていた。ドアの上に掲げられた看板は、角張った不思議な記号がまるで生きているかのように蠢き、見る角度によって形を微妙に変えている。

「入るしかないわよね」アッシュがドアノブに手をかける。「猫も、ここに入ったはずだから」

 

 チリン、と乾いたベルの音が鳴った。中は薄暗く、壁という壁がすべて棚になっていて、無数のガラス瓶が並べられている。赤、青、緑、金色。様々な大きさの瓶が、内側からぼうっと淡い光を放ち、店内は静かな光で満たされていた。古い紙と甘い香辛料を混ぜ合わせたような、不思議な匂いがした。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から、ぬっと声がした。瓶の光に見とれていた私は、そこに人がいたことに気づかず、びくっとして飛び上がった。

「うわっ!」

「驚かせてしまったかのぅ」

 年は……六十歳くらい? 小太りで、くたびれたツイードの背広をきっちり着込んでいる。まんまるな団子っ鼻の上には、これまたまんまるなメガネが乗っかっていた。

 

 アッシュは店内をゆっくりと見渡した。「瓶ばかりね……瓶屋? あんまり儲かりそうにないけど」

「本屋だがな」と、店主はアッシュの呟きに答えた。「もっとも、普通の本屋ではないがの」その声は少しだけかすれていて、言葉の端々に時間の埃が積もってる響きがあった。

「本? どこに?」

 私が店内を見回すと、おじさんはカウンターに置いてあった奇妙な形のブックカバーを指さした。鳥の翼のように二つに開く構造で、背骨の部分に丸い空洞が空いている。使い込まれた革の表紙は、滑らかな光沢を放っていた。

「お嬢さんたち、運がいい。今日は開店記念サービスじゃ。好きな瓶を一つ、持っていきなさい」

 

 言われたとおり、私は棚に並んだ瓶を眺めた。どの瓶も素敵だったけど、その中に一つだけ、ひときわ強く私を呼んでいる気がする瓶があった。小さな、涙のしずくのような形をした瓶。手に取るとほんのり熱がある。中では、無数の銀色の粒子が、互いに引かれ合うように集まり、螺旋を描きながら瓶の中を巡っていた。

 瓶を持っていくと、店主はこともなげに蓋を開け、ブックカバーの空洞にするりと差し込んだ。

「こいつは君の記憶と共鳴しておる。さあ、覗いてごらん、君だけの宇宙を」

 促されるまま、私はブックカバーの表紙をゆっくりと開いた。

 その瞬間、光の粒子が瓶から溢れ出し、私の瞼の裏を走り抜けた。脳の表面をちりちりと焦がしながら、知らないはずの記憶を直接焼き付けてくる。他人の記憶ではない。これは紛れもなく、忘れていた私の記憶だった。


 ⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️


 リビングのソファに座っている。

 夕方のテレビを見ていた時。

 突然、ザザザザザザ……という音が頭の中で響き始めた。

「あれ?」小さな私は首をかしげた。

 壊れたテレビのような音。でもテレビは普通に映っている。音は私の頭の中から聞こえてくる。

 ザザザザザザ……

 音がだんだん大きくなる。めまいがしてきた。身体がフワッと浮くような感覚。

「うーん」私は頭を押さえた。

 ママが台所から心配そうに声をかけてくる。

「恵ちゃん、どうしたの?」

「頭で変な音する」

「熱でもあるの?」

 おでこを触りに来る前に、ふっと音が止んだ。めまいも治まった。

「あれ、治った」私は言った。

 ママは安心したように台所に戻っていく。だいじょうぶ、ちょっと気分が悪くなっただけ。

 リビングの時計を見る。さっきと同じ時刻を指している。テレビも同じ番組をやっている。

 窓から差し込む夕日が、さっきより少しオレンジ色が強い気がする。冷蔵庫の音がいつもよりうるさい。

 あれ、ママが作るカレーはこんな辛そうな匂いはしない。

「ママ」私は台所に向かって言った。「今日のカレー、いつもと違う?」

「え? 同じよ」

 ママが振り返る。その瞬間、私は息を呑んだ。目の形が少し細い。眉毛の位置が微妙に高い。髪の色も、心なしか明るい。でも確実にママだった。声も同じ、笑顔も同じ。

「恵ちゃん? どうしたの? そんな顔して」

「あ、えーっと」私は慌てた。「何でもない」

 もしかしてこの人、別人なんじゃないだろうか……

 パパが帰ってきた時も同じことを思った。声。歩き方。ネクタイの色。「ただいま」と言った後のセリフ。

「今日は学校どうだった?」

 いつもならまっさきに「今日は楽しかった?」と聞くはずなのに。

「うん、楽しかった」私は答えた。

 ママができたてのカレーを運んできた。私はいつも、すこし冷ましてから食べる。

「どう、美味しい?」ママが聞く。

「うん、美味しい」私は答えた。

 

 夜、ベッドに入った時、私は考えた。

 もしかして、あの「ザザザ」という音の時に、何かが起こったんじゃないだろうか。どこか違う場所に来てしまったんじゃないだろうか。

「パパとママが、私の本当のパパとママじゃないかもしれない」

私はそう思って少し怖くなった。確かに何かが起こった。それは間違いない。

「はじめまして」

 その言葉が、喉の奥に小さな棘のように引っかかる。昨日までとぜんぶ同じはずなのに、私だけが違う場所にいる。誰にも話すことはできない。

 私はベッドから出て、引き出しの奥に隠してあるノートを取り出す。表紙がすっかり擦り切れている。このノートだけが本当のことを知っている。短くなった鉛筆で、誰にも見せたくない言葉を紙に書きつける。


 わたしには家族がいない

 パパもママもいるけど

 家族はいない

 わたしは毎朝、かくにんする

 太陽はごきげんかな

 ソーセージおいしそうに焼けてるかな

 洗ったアシックスもう乾いたかな

 そして気づくんだ

 また宇宙を跳んでしまった

 遠くから黒い風がひたひた迫ってる

 近くで地鳴りが

 部屋の窓をガタピシ鳴らしてる

 ソーセージエッグマフィンだいすき

 でもテーブルに白い皿が3つ

 白い皿だけ、テーブルに3つ

 ここにいるわたしがどこにいるのか

 もう思い出せないよ

 だから朝の挨拶は

 「おはよう」っていえないんだ

 パパ、ママ、はじめまして

 今日からよろしくお願いします

 こころでそう挨拶をして

 毎朝、元気に、おはようっていうんだ

 さみしくなんてない

 わたしには最初から家族はいないから

 パパもママもいるけど

 家族はいないから


 ⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️⌛️


「メグ! しっかりして!」

 アッシュの声で、私ははっと我に返った。目の前には、心配そうに私の顔を覗き込むアッシュと、難しい顔をした店主がいた。私はまだ、ブックカバーを開いたまま、カウンターの前に突っ立っていた。

「あれは、小さい頃の私……忘れていたはずの……ジャンプ……誰にも言ってないのに、どうしてこの瓶、知ってるの!」

 呆然と呟く私に、店主はふむ、と一度、頷いた。

「砂時計って時間が減ってく一方で悲しげだけど」アッシュが砂の瓶を覗き込みながら呟いた。「これはちがう。砂がキラキラ落ちていく……これまで過ごした時間に色を与える時計……」

「お嬢ちゃんも、一つどうかな?」店主が、アッシュの言葉に答えるように言った。「君だけの『時間』を見てみんかね」

 アッシュは、さっきまでの好奇心に満ちた表情から一転、ふっと顔を曇らせて、静かに首を横に振った。

「私は、いいわ。必要ない」

「え、なんで? すごいよ、これ! 忘れてた思い出がハッキリ見える」私は興奮してアッシュに勧めた。「アッシュも作りなよ」

「……自分の記憶なんて、思い出す必要のないものばかりよ」アッシュは、私の目を見ずに、ぽつりとそう呟いた。


 店主はアッシュの様子を見ると「ふむ。まあ、無理に勧めることはせんよ。じゃが……」と言って、棚から一つ、何の変哲もない小さな丸い瓶を取り出した。中には、月の光のような、淡く赤い砂が入っている。

「見たくないなら、見なくてもいい。じゃが、お守り代わりに持っておきなされ。いつか、役に立つ時が来るやもしれん。出血大サービスじゃ、損はせんよ」

 店主は、新しいブックカバーと赤い砂の瓶を、小さな布製のポシェットに入れると、有無を言わさぬ様子でアッシュに差し出した。アッシュは一瞬ためらったが、やがて諦めたように小さく息をつくと、そのポシェットを渋々受け取った。

「よかったね、アッシュ! おじさん、優しいじゃん! これで私たち、おそろい」

 アッシュは力なく笑って、ポシェットをきゅっと握りしめた。


 もらったばかりの砂の瓶を爪で弾くと、キィンという鋭い音がした。私はそれが面白くて、人差し指と中指で交互に弾いて木琴みたいに砂の瓶を演奏してみた。

「最近では時の砂がめっきり採れなくなってな。砂が流れない瓶も出てきおった。わしの店もそろそろ店じまいかのう……お前さんたちに貰われて、砂たちもさぞかし嬉しかろう」

「開店セールしているのに、もう閉店の話なんて、へんなの!」瓶を弾きながら私は思わず噴き出した。

目を細めて私の遊びを見ていた店主の表情が、急に剃刀のように鋭くなって、店のドアを睨みつけた。

「嬢ちゃん、静かに」店主は囁いた。

 私も手を止めてドアを見る。店内に、しん、と静寂が落ちる。


 トントン、トントン……。

 外から、誰かがドアをノックする音がした。木の扉を叩く音ではない。命の気配が一切しない、ただの物理的な衝突音だけが響いた。背筋がぞくりと震えた。

 店主は鋭い目で私たちを見据えた。「お嬢さんたち、ただ事じゃなさそうじゃな。あのノック……ありゃあ普通の客のもんじゃない。何か厄介なことに巻き込まれとるな?」

「え、えっと……私たちは、ただ猫を追いかけて……」私がしどろもどろに答えると、アッシュが続けた。

「その猫に、メグが何かを盗まれたの。その直後から、この気配が……」

「猫……何かを盗まれた……そしてあのノック」店主は顎に手を当て、何かを推理するように目を細めた。「なるほどのぅ……。その猫は、ただのガラクタを盗んだわけじゃなさそうじゃな。お嬢さんから、とても大事な何かを奪っていった、と見えるが、どうじゃ?」

 彼の言葉にアッシュは青ざめた。


 店主は、私たちの反応を見て全てを悟ったように、深く頷いた。彼の顔から、人の良さそうな笑みが消える。

「やはりか。あのノックは『持たざる者』を嗅ぎつける連中のものじゃ。問答無用で、全てを奪いに来る」

 ノックの音は止まらない。同じ間隔、同じ強さで、永遠に続くかのように繰り返される。それは私の心臓を直接叩き、残り時間を告げる時計の針の音だった。

「こっちに来なさい」店主の声色が変わった。彼はその小太りな見た目からは想像もつかない素早さで、カウンターの下から一本の太い木のつっかえ棒を取り出すと、ドアへと走った。そして、ガチャンと重々しい音を立てて、扉に横向きに差し込んだ。

店主は素早くカウンターの裏に回り込むと、私たちを手招きして導いた。そこには、隠し扉のように小さなドアがあった。

「裏庭へ出る扉じゃ。ここから外へ出られる」

「急いだ方がよさそう」アッシュが言った。


 私が恐怖で動けずにいると、アッシュが「先に行くから」と小さな扉に頭から飛び込んだ。彼女の身体の輪郭が闇に滲み、インクが水に広がるように、あっという間に見えなくなった。すぐに、闇の中から彼女の細い腕がにゅっと伸びてきて、手のひらが、閉じたり、開いたりしていた。早く、と私を呼んでいる。

 店主が、私の肩をぽんと叩いた。「砂の瓶とブックカバーを、大切にな」

 その言葉で、私は覚悟を決めた。

「おじさん、ありがとう!」

 私は叫ぶと、目の前で開閉を繰り返すアッシュの手を握った。

 ものすごい力で引っ張られ、私の身体は暗い扉の向こうへと、引きずり込まれていった。



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