1.二つの出会い
図書館の自動ドアを、ほとんど体当たりするように飛び出した。見つけてしまった、という興奮と、知ってしまった、という焦りが、私を内側から突き動かしていた。
敷地の長い並木を抜け、早足で歩道に向かった。正門の石柱の陰に、少女が立っているのが見えて、私は足を止めた。風に揺れる長いスカート。彼女は壁に背を預け、胸元を押さえていた。白い顔には汗が滲み、呼吸が浅く速い。ひどく苦しそう……私は彼女の方へ駆け寄った。
あと一歩で手が届くというところで、世界が歪んだ。夕暮れが彼女の輪郭を紫色に縁取り、空気がかげろうのように揺れている。すぐに、壊れたテレビみたいな、ザ、ザ、ザという音が私の頭の奥で鳴りだした。
この感じ、知ってる。
私が「跳んだ」ときに世界が軋むあの感覚。まさか……この子も?
少女がゆっくりと顔を上げた。賢そうなくりくりした瞳。その奥にただの苦痛とは違う、探るような色が宿っているのが見えた。
私たちは無言のまま、しばらく見つめ合った。昔から知っている相手の顔を必死で思い出そうとしているみたいだ。
「もしかして、あなたも……?」私はかすれた声を絞り出す。
その一言で、彼女の中で張り詰めていた糸が解けたようだった。
「私もここに跳んできたの」彼女は頷いた。「久しぶりだったから、身体がついてこれなかったみたい」
そう言いながら背筋を伸ばして、深呼吸をした。さっきまでのつらそうな表情は薄らいでいた。
私たちは、どちらからともなく手を差し出した。
「アシュリン。アッシュって呼んで」彼女は言った。
「私はメグミ。メグでいいよ」
――30分前。
西日が大きな窓から差し込み、書架の影を長く伸ばしていた。空気中を漂う埃が、光の筋の中でキラキラと舞っている。古い紙とインクの匂い。その静寂の中で、私の心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。
ついに見つけた。
この著者は、重要なメッセージを伝えようとしている。世界中の誰でもなく、たった一人の、まだ見ぬ誰かに向けて、手紙を瓶に詰めて海に放ったのだ。そして私は、何十億という人間の中から、偶然にもその瓶を拾い上げた。そうとしか思えなかった。
その古びた専門書の冒頭は、まるで秘密の呪文の始まりのように、厳かな装飾に縁取られていた。
『宇宙の彼方へ:数、時間、そしてマルチバース』エミリア・クワントウェル著
私はごくりと喉を鳴らし、ページをめくった。著者のエミリアは、今度はまるで私に直接語り掛けるように、穏やかな口調で問いかけてくる。
『……個々の宇宙が厳密に決定論的でも、自分がどの宇宙に属しているかを判定できないのだから、“どの決定論に従っているか”もまた、判定できません。よく聞いてください。百パーセント決定論的な世界の中で、私たちは、避けようもなく自由なのです』
「避けようもない自由」――その一言が私を貫いた。
この本は、私のための本だ。私の、あの秘密を、世界でただ一人、理解してくれる人が書いた本だ。
私はスマートフォンを取り出し、エミリア・クワントウェルのメールアドレスをインターネットで検索した。計算機科学会のウェブサイトに彼女のアドレスを見つけると私は画面に向かって夢中で文字を入力した。
小学生の頃、しょっちゅう起きた奇妙な体験。壊れたテレビみたいな、ザ、ザ、ザというノイズが頭の中に発生して、身体がフワッと浮く感覚。ほんの一瞬。当時の私はこの感じをはっきり意識できていて、発生するたびに
「あ、跳んだ」
と思った。
別の宇宙へ跳んだ。
その瞬間の痕跡が「ザザザ」なのだと。
実はついさっき、それが久々に起きた。小学校を過ぎてからは、発生しなくなった宇宙ジャンプ。もう二度と起こらないと思っていたのだけれど。
そういったとりとめのない話を、スマートフォンは律儀にその場で英語に訳してくれた。
今まで誰にも話せなかったことが、あなたになら分かってもらえそうな気がしてメールしました。どうか無事届きますように。Best Regards、メグミ。
署名を入れて送信ボタンを押す。椅子を蹴って立ち上がると、一直線に出口へ向かった。一刻も早く家に戻って、エミリアという人物をもっとよく調べたかった――
そうやって急いで図書館を飛び出して来たのだけど、目の前の彼女を見たら、そんな思いどっかに飛んで行ってしまった。
「よろしく、アッシュ」
明るい栗毛のおかっぱ。ぱつんとそろえた前髪にロングスカートがすごく似合っていた。
宇宙ジャンプする人と出会ったことなんて、これまで一度もない。そう考えたら、今ってすごく大事な瞬間? まさかこんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。聞くと彼女もまた、エミリア・クワントウェルの理論を知っている一人だった。
「気分はどう? さっきひどく苦しそうだったよ」
「ありがとう、もう大丈夫」アッシュは頷いた。
「こういうこと、よくあるの?」私が聞くと、アッシュは遠い目をして答えた。
「毎回、鳥の夢を見るの。鳥が私に向かってただ飛んでくる夢。私を飛び越して向こうへ飛び去ると、目が覚める。まだ半分眠ってる気分のまま、夢をぼんやり思い返して、そのあといつも気づくの。また世界を跳んじゃったってことを」
慎重に言葉を選んで話す彼女の表情は、真冬の湖みたいに透き通っていた。私より年下に見えるけど、いったい何歳だろう。まさか私と同じ中学生とか? 今どきの中学生が計算機科学会誌のマルチバース特集号を読むなんてね。
「それで、これからどうするつもり?」アッシュが尋ねる。
そうねえ、と答えたものの、私に良いアイデアがあるわけでもない。すぐに帰って調べものをしたいという気持ちは、すっかり消えていた。それより目の前のこの子にすごく興味がある。その辺のカフェに入って話をしない? と言おうとした、その時。
いきなり、一匹の猫がぎゃんと鳴いて私に飛びかかり、足首にがりっと噛みつくと、電光石火の速さで逃げていった。何が起こったか理解できずにわたわたしている私の隣で、アッシュが青ざめて「大変……」とつぶやいた。
「えっ、何が?」
アッシュは猫が逃げた方へ駆け出していた。赤信号だったから、私はあわてて彼女の腕を掴もうとしたけれど、するりと手から抜けてしまう。アッシュは交差点をわたった先で、ビルの角を曲がり、あっという間に姿が見えなくなった。
信号が青に変わるまでの、ほんの数秒が永遠みたいに感じられた。どうして急がなきゃいけないのか、いまひとつ分かってない。でも、とにかく何か、とんでもないことが起きたのは確かだ。こういう場合、追いかけないわけにはいかないでしょ!
私は信号が変わると同時に駆け出した。




