九
高輪大木戸が閉まる直前に滑り込み、住まいの神田須田町へ向かっていた。金杉橋を過ぎれば、あとは迷うことのない見通しの良い道だ。幾度か橋を渡って小さな我が長屋を目指す。太陽は地平に落ち、市民薄明から航海薄明へと色合いを変えていく。仕事を終えた人々は家に帰っているか、はたまたそこいらで飲んでいるのか。今日は帰る道に、人が少なかった。こうなると、夜闇ほどではないにしても、少しでも足下が見えるうちに帰りたくなる。惣八の足は、知らず速くなった。
「料理人の惣八だな」
日本橋を越え、鍛冶町の辺りで、不意に後ろから声をかけられた。布で目元以外を覆っているからか、声がくぐもる。だが、その声に覚えがあった。
「……お前ぇさんは?」
惣八は足を止めずに前へと進む。だが、声をかけてきた男はそれよりも速く動いた。
「余計なことをするな。これは忠告だ」
少し先の辻行灯の小さな光りを受けて、僅かに光った刃先に、惣八は手にしていた藁苞を突き刺す。
「なに!」
男の低い声が唸りを零した。
(素人だな)
藁苞に突き刺さった様子から刃渡りを想定し、惣八は腰から下げていた煙管を、相手方の手首辺りへ、力一杯打ち込んだ。男は力が緩み、藁苞に突き刺された刃物を手放す。間髪入れずに、煙管でそのまま手首をくるりと返すと、男は腕ごと体を反転させた。どすりと大きな音を立て、土埃が上がる。その隙に、惣八は藁苞を刃物ごと抱えて走り出した。
(これ以上関わると、おおごとだ)
走りながら藁苞に突き刺さった刀を確認する。
刃渡りはおよそ三寸二分。
(思った通り、小出刃)
空に星が見えるほど暗くなってきた。先ほどの男は追ってきていない。ちらほらと人の気配はするものの、それらは通りすがりの人のもののように感じる。身の安全はとりあえず担保できたかと、惣八は小出刃包丁を引き抜き、藁苞の中へ押し込めると、抱え直した。
惣八のような料理人は、自らの職業を証明するものがあれば、包丁などを持ち歩いていても、咎はない。それでも、下手に目を付けられるのは面倒なので、藁苞の中へしまい込んだのだ。
(小出刃ってぇことは、料理人、か? いや、でもあの声の主は――)
戸締まりしている町木戸のくぐり戸を抜け、惣八はどうにか己の長屋へと辿り着く。
「一瞬、生きた心地がしなかったねぇ」
長屋に入り、汲みおいていた水を瓶からすくって喉を潤す。そうして、惣八は大きく息を吐いた。
瓦灯に火を入れると、室内が仄明るくなる。その灯りの近くへ、藁苞を持っていった。包みを広げ、小出刃包丁を横に置く。
「へぇ、小さくとも立派な鱚……に、穴があいてらぁ」
それこそが、先ほどの男が惣八に突き刺そうとした証である。
(喜平には今度こそ、礼になにかをしねぇとな)
この藁苞があったからこそ、咄嗟に怪我をしないですんだ。
小出刃包丁を手に持ち検分する。
「刃こぼれはねぇが、柄に癖が出てら」
きれいに研いだ跡が見えた。そして、柄には握り癖の指跡がついている。
「大切に使い込んでんのがわかるだけに――許せねぇ」
惣八は小出刃の刃を洗い、丁寧に拭く。それを予備の包丁包みで包むと、自らの商売道具と並べて置いた。
――余計なことをするな。
男の言葉を思い出す。
(忠告、ねぇ)
今日の自身の動きを思い返せば、これがどこの台所の小出刃包丁か、など容易に想像ができた。
(明日は早めに持っていってやらんと、困るだろう)
この柄と研いだ刃の状態を見れば、普段から大切に使っていることがわかる。それだけに、惣八の苛立ちと怒りは胸の中でふつふつと、まるで煮え湯が鍋の底から泡を立てているかのように、静かに上がっていた。




