十
翌朝、昨夜あれから塩焼きにしていた鱚一つを米と共に食べると、惣八は家を後にした。いつもより一刻半は早い。それもこれも、尾張藩中屋敷の台所組頭――所謂料理長に会うためだ。
(できるだけ、人が少ねぇ方が良い)
自分の商売道具である包丁と共に、小出刃包丁を風呂敷に包み、背中に斜めにかける。初夏のこの時期は太陽が昇るのも早く、空が突き抜けていて気持ちが良い。まだ振り売りもそれほどの数が出ていない刻限に道を歩くと、まるで吉原大門の内を買い取った御大名のような気がしてくるから、不思議だ。
「おはようございます」
「おう、惣八か。今日は早いな」
惣八は今の時期、中屋敷の出入り職人として面通ししているため、常と刻限が違ったとしても、すぐに屋敷に入ることができる。門番と挨拶を交わし屋敷に入ると、いつもは真っ先に向かう漬物蔵ではなく、台所へ足を向けた。
「ちょいと御免よ」
中に入ると、台所組頭の佐市が、顔面蒼白で台所の中をうろうろしているのが見える。
(ははぁ、やっぱり)
惣八は軽く眉を上げ、彼に声をかけた。
「佐市、どうしたってんだい」
「惣八かい。どうしたもこうしたもねぇんだ。実は――」
その先を言わせる前に、惣八は自身の背にかけていた風呂敷から、昨夜の小出刃包丁を取り出した。
「これだろ」
「お前! まさか!」
「勘違いすんねぇ。あたしはこれで、襲われたんで」
「んなわけあるか! 俺ぁ、昨日きちっと手入れして、しまって鍵かけたってんだ」
「だったらなんで、ここにあると思うんでぇ」
「盗っ人猛々しい!」
「あぁ? 誰が盗っ人だってぇんだ。あたしが盗んだってんだったら、わざわざここに持ってきやしねぇ」
惣八の胸ぐらをつかみかけた佐市は、その一言でぴたりと止まる。
しばし沈黙の後、彼は頭をかきむしると、溜め息を吐いた。
「すまねぇ」
「いいってこった。これ、あんたんだろ?」
机に置かれたままの小出刃包丁を指す。佐市は手に取り、頷いた。
「ちょいと話ができないかねぇ」
「構わん。むしろ、俺も話を聞きてぇ。なんで惣八がこれで襲われた……んだったよな」
彼は小出刃包丁の刃を確認する。だが、そこには血のついた痕もなく、研いだばかりの刃艶の良さが残るのみ。佐市は小首を傾げる。
「その前に、佐市。あんたはいつも、包丁の管理どうしてっか、聞きてぇんだが」
惣八の言葉に、佐市は桐の箱を棚から出した。
「毎日、仕事が終わったら研いで、この中にいれてる。ものが刃物だ。こうして鍵も付けてんだ」
桐箱には鎖が付けられ、その鎖の先に小さな錠がついている。
今も鍵はかけられ、佐市のもつ小さな鍵を差し込むと、ことんと小さな音がした。鎖から錠を取り外して中を見れば、確かにそこに小出刃包丁があったと思われる場所が、空いている。
「そいつぁ、誰が管理してるんだい」
「勿論俺だ」
「他には?」
「他……は、貞蔵様だねぇ」
「ま、台所頭ってんだ。それも当然か」
佐市は頷く。だが、その表情は明るくはない。
「おい、お前まさか」
惣八を睨み、口を開く。睨まれた惣八はといえば、しらりとした顔をする。
「その包丁の箱の鍵は今閉じられてた。鍵はお前さんと台所頭の禎三様が持ってる」
「今朝は開けた後、そこにないのが信じられなくてまた鍵をかけたが……。でも、いつもは、昼日中にゃ鍵をかけてねぇ。ここに入れる人間は誰だって、それこそお前だって、持ち出すことは可能だ」
「佐市。あんた、昨晩も研いでしまったって言ってただろ」
惣八に言われ、佐市は少しだけ、ばつの悪い顔を浮かべた。
「そうだった。でもまさか」
「安心しろ。狙われ、襲われやしたけど、小出刃が刺したんは、鱚だ」
「鱚ぅ?」
佐市の驚きは当然だ。それで惣八が襲われたというのに、小出刃包丁にその痕がかけらもなかったのかと、合点がいった。しかし、自分の小出刃包丁が、人を害するために勝手に持ち出されたのに、まさか本来の使い方通りに魚を刺していたとは。思わず頓狂な声を上げてしまっても、誰も責められない。
「羽田にちょいと用事があってな。そんで旧知に土産に分けて貰った鱚が、あたしの体を守ってくれたって、寸法よ」
「羽田の鱚だったら、旨いだろう」
「塩焼きにしたが、なかなかだったな。さすが将軍様の御菜八ヶ浦、ってぇね」
「しかし羽田とは……」
「そこでだ、佐市。あんたにゃもう一つ、聞きたいことがある」
敢えて明るい声で言ったのは、台所の入り口の人影に気が付いたからだ。
「塩焼きの鱚が残ってる。旨い食い方を知ってるか?」
台所の入り口の人影が消えたのを確認し、惣八は漬物蔵に佐市を誘って向かった。
「こんな状況で一人で蔵に向かうんは、ちょっとねぇ」
「なぁ、惣八。お前を襲ったのって」
さすがに誰かに聞かれたらと思ったのか、普段は声の大きな佐市が、音量を下げる。惣八は片眉をあげると、小さく頷いた。
「あんたが想像してる通りだと思うぜ。だって他にいねぇだろ」
「でもなんで」
「大方、あたしの動きが気に入らないんだろうよ」
言いながら、惣八は梅に載せている石の重さを変える。このまま土用干しまで梅酢に浸らせておけば、白梅干しの準備は完了だ。佐市はついでに、と朝餉に使うぬか漬けを出していた。
「惣八、なんぞやらかしたんか」
「まさかまさか。あたしじゃない、あっちさんだよ、やらかしたんは」
梅が漬けられている樽にこびりついた塩をこそぎ取り、惣八はそれを布に包んで、巾着へとしまい込んだ。




