十一
麹町の尾張藩中屋敷を出てから、人通りの多い道をぐるぐると、回り道して歩く。一刻も二刻もそうしておいて、つけ回す者がいないことを確認すると、日本橋の手前にある稲荷聖天の境内に出ている鮨屋で、惣八は小鰭を口に放り込んだ。
近頃与兵衛鮨の花屋与兵衛が始めた握り鮨は、瞬く間に支持を得て、今やあちらこちらの寺社境内に店を構える者がいる。お陰でこうして、気軽に生の魚を白米と共に味わえる、と惣八は上機嫌で鮨の並ぶ台に手を伸ばした。
「俺の好みは穴子だな」
「へぇ。あたしも穴子は好きだねぇ。おっと蝦蛄もいい」
「今は卵を抱えてる季節だから、蝦蛄はことさらだ」
隣にするりと立ったのは文之進。穴子を口にすると、今度は惣八と二人揃って蝦蛄を手にする。
「こんなお天道様が元気なうちにぶらぶらしてるたぁ、遂に職にあぶれたか」
「はは。そうなってもおかしくねぇ状況だけどな。今んとこ、あたしは引く手あまたさ」
「そりゃ塩梅がいい」
「その塩梅、どうだってぇ」
惣八が水を向ければ、文之進はニヤリと笑う。
「鮨を食ったらお前さんの家で、飲もうじゃないか。今日は俺が酒を持ってきた」
「どこのだい」
「尾張の酒さ」
「そいつぁ、縁起がいい。どれ、一つうちで飲もうじゃないか」
惣八は三十二文、文之進は十六文を支払い、稲荷社を出た。
日本橋を渡り、神田須田町へと向かう途中で、串に刺したゲソ焼きを二本と、ゆで卵を二つ買う。どちらも肴にするためだ。
惣八の長屋に着く頃には、日も傾いてきていた。
長屋の中は薄暗くも、まだ火を点す程ではない。
「どれ、俺が水を汲んできてやる」
「頼もしいことで」
「お前さんは燗を頼む」
「そういうことか」
棟割長屋の路地を突き当たると、井戸と厠がある。両方の用を足した文之進が戻ると、買ってきていた肴に加え、昨日惣八が焼いた鱚を細かく切ったものが皿にのっていた。
「おや、鱚かい。旨そうだ」
「こいつぁ、ただの鱚じゃねぇぜ。あたしの命の恩人さ」
「どういうこった」
「まぁ、障子を閉めてあがんなさいな」
文之進は汲んできた水桶を土間に置くと、水瓶の中身を覗き込む。瓶の中は空になっていた。
「おいおい、瓶ん中は空洞じゃないか」
「文が汲んできたのを入れりゃいいだろ。ちょうど良い」
「それもそうか」
水桶の中身をそれに移すと、文之進は中へあがった。
惣八から猪口を渡され、燗にした酒を注ぐ。常よりも少し良い香りのそれは、尾張で造られた知多酒。日頃酒を水で割って飲む惣八だが、今日に限っては薄めずに出した。
「俺が持ってきたからか?」
「そんでも勿体ねぇから、水で割りてぇけどよ。こりゃ、験担ぎだ」
「験担ぎ」
腰に下げていた巾着から、布を二枚出す。
「そりゃなんだい」
「梅漬けの樽についてた、二種類の塩だ」
「俺には同じに見えるけど」
文之進の言葉に、惣八は昨日喜平に分けて貰った塩も並べると、瓦灯に火を点した。室内が僅かに明るくなる。
その瓦灯を塩の元へと近付けると、粒がよく見えた。
「よおく見ると、大きさが違うだろ」
「確かに、このふたっつは異なるな。で、そっちとこれがおんなしだ」
葡萄茶色の布に包まれた塩と、喜平から分けて貰った塩は、もう一つの憲法黒の布に包まれた塩よりも二回りほど粒が細かい。
「味もちぃと違うんだが」
「俺にゃそこまでは、わかんねぇだろうよ」
文之進の言葉に、惣八は「確かに」と笑い、猪口を口元に運ぶ。
「この酒、旨いな」
「尾張殿を飲み込んでるってぇ寸法だろ、惣八」
「おっかねぇこと言うもんじゃねぇよ。ただ、あすこの中屋敷は、矢張りちょいと文の仕事場になりそうでね」
尾張の酒を口にしつつ、鱚を食べる惣八は、昨夜の出来事を文之進に話した。
「……中屋敷の下働きに聞き込みして、そんあと羽田に。で、帰りに襲われたとなりゃ、付けられてたってことだろ。失態だね」
「あぁ、大失態さ。みっともねぇ。けど、あたしの人望があたしを救った訳よ」
「それがこの旨ぇ鱚ね。身代わり鱚ってとこだな」
細切れに切られた鱚を、文之進は箸先でつまむ。目を細めてそれを見て、口に放り込んだ。昨日陸に上がったばかりの鱚は、塩焼き後一晩経っても、まだ味が濃く旨い。これが将軍様に届けられる味か、などと思う。
「そんで、文の方はどうなんでぇ」
お夕が見たという、帳簿に書かれていた『みた塩問屋』について、文之進が塩問屋や株仲間の方面から、その存在を確認することとなっていた。惣八の問いに、文之進が首筋に手を当てる。
「お前さんが知らないっつってたのも、当然だ。少なくとも、登録されてる中にゃ、『みた塩問屋』なんてぇ店はなかった」




