狂った回路と、十五メートルの境界線
ルカが母親の奇行とゼヴィアのわざとらしいポーカーフェイスのせいでパンク寸前の脳頭痛に悶絶している頃、それとは全く質の違う「頭痛」が、街の片隅にある狭いアパートの一室を容赦なく襲っていた。
薄暗い照明の下、そこに暮らす住人にとって、夜の時間は気の遠くなるほど長く感じられた。
ハスナはベッドの端に力なく座り込み、ガチガチに強張った自分の腰をさすっていた。
数日前、ラファの黒い鎖から放たれた強烈な一撃をまともに喰らい、宙に吹き飛ばされてリビングの古いソファをぶっ壊した。その時の衝撃が、この若きスクールカウンセラーの体に最悪の腰痛(ギックリ腰)となってのしかかっていた。
少しでも背筋を伸ばそうとすれば、神経の奥を突き刺すような激痛が走り、体中の運動回路に静電気がバチバチッと走るかのよう。
だが、今のハスナにとって、そんな体の痛みなど目の前に立つ中年女性がもたらす頭痛に比べればマシな方だった。
「ほら、このドレス着なさい。あんたのサイズにぴったりのやつ、お母さんがわざわざレンタルしてきてあげたんだから。メイクもバシッと濃いめにして! そんな死人みたいな青白い顔してんじゃないわよ」
母親はそう言い放つと、真っ赤なピチピチのミニドレスをベッドの上に放り投げ、続けて高級な化粧品セットをドンッと置いた。
『何これ、ただの布切れ? こんな露出狂みたいな服がドレスなわけない。激辛唐辛子風味のミイラの包帯か何かっての』
ハスナは心の中で思いきり悪態をついた。
今すぐ立ち上がり、腕組みをして、持ち前の毒舌で母親のイカれた論理を完膚なきまでに論破してやりたかった。だが、ハスナがお尻をほんの1センチ動かした、その瞬間――
――グキッ。
「い、痛っ……! あいたたた……腰が……っ」
思わず悲鳴が漏れ、激痛に襲われたハスナの体は不格好に硬直した。彼女は必死に腰を押さえた。
先日、ラファの黒い鎖から放たれた強烈な一撃を喰らい、宙に吹き飛ばされてリビングの古いソファをぶっ壊した。その時の衝撃のせいで、この若きスクールカウンセラーの体は最悪のギックリ腰に見舞われていたのだ。
立ち上がって言い返すどころか、深く息を吸うだけで全身に電流が走るように痛む。
「お母さん、何考えてんの? 私は絶対行かないから!」
結局、ハスナは普通のトーンで抗議するしかなかった。ギックリ腰の激痛に耐えるだけで、エネルギーを使い果たしてしまったのだ。
「行かないって何よ? 今夜のクラブはかき入れ時なのよ、ハスナ! 人手が足りないの! あんたはただ大人しく座って、お酒を注いで、リッチなお客さんの横でちょっとニコニコしてればいいだけ。簡単な仕事でしょ!」
母親は自分の唇に真っ赤なリップを塗りながら、事も無げに言い放った。
『簡単な仕事だと? 目ん玉ひっくり返して出直してこい』
ハスナは声に出さず、怒りに震えながらベッドのシーツを ぎゅっと握りしめた。
『この腰で大人しく座ってろって? お客さんだって、骨折したマネキンが横に座ってたら百年の恋も冷めるわよ』
「お母さん、私は教師なの! スクールカウンセラーよ!」
ハスナは声を張り上げ、教育者としてのプライドを必死に守ろうとした。
「もし私の学校の生徒や同僚の先生に、お母さんのお店にいるところを見られたらどうすんのよ?! クビになっちゃうでしょ!」
母親は鼻で笑うと、蔑むような視線で娘を振り返った。
「クビ? 別にいいじゃない! あんたみたいな新米のスクールカウンセラーが、学校からいくら貰ってるっていうのよ? せいぜい月20万円でしょ。こんなボロアパートの家賃払って、あんたのその腰に貼る湿布代で消えたら、手元に何も残らないじゃない!」
『くっそ、痛いところを突いてくる……』
ハスナは内心で顔をしかめた。経済的現実という名の刃に、プライドの回路が完膚なきまでに切り裂かれた気分だった。
母親は歩み寄ると、長く伸びたつけ爪の先でベッドの上の赤いドレスを指さした。
「いい、ハスナ。私がキャバ嬢として一週間で稼ぐお給料はね、あんたの教師の月給の3ヶ月分なのよ! この世に必要なのは現金。お腹も膨らまないあんたのモラルや理想論なんかじゃないの! さっさと着替えなさい、私の遅刻の原因を作らないで!」
ハスナは膝の上で拳を強く握りしめることしかできず、涙がにじみ始めた目で床をじっと見つめていた。
屈辱感、経済的な挫折感、そして腰の激痛が混ざり合い、この若きスクールカウンセラーは精神的に完全に限界寸前まで追い詰められていた。
――バタン! カララン!
アパートの浴室のドアが突如として荒々しく開き、続けて空のガラス瓶がタイルの床の上を転がる音が響いた。
ヨレヨレの服を身にまとい、赤く充満した泥酔した目で、千鳥足の男が部屋へと足を踏み入れてきた。強烈なアルコールの臭いが、部屋の空気を一瞬にして汚染する。
ハスナの父親――普段は家庭のことに一切干渉しない、重度のアルコール中毒者だった。
「おい……自己中な女め……」
父親はかすれた低い声でうわごとを呟き、震える指先で妻の顔を指さした。
「お前……俺の娘を……あんな呪われた場所に無理やり連れて行こうとするんじゃねえ……」
母親は忌々しそうに舌打ちをすると、腕を組んで軽蔑の眼差しを向けた。
「ふん、 鏡見てから言いなさいよ! あんたこそこの家のただの荷物でしょ、安酒を買うために金を使い果たすのが趣味のくせに! 偉そうに口挟まないで!」
ハスナの父親は荒々しく鼻を鳴らすと、おぼつかない足取りで、娘が腰の痛みに耐えながら座っているベッドへと近づいた。老いた男はベッドの上の真っ赤なミニドレスを見つめ、それから今にも泣き出しそうな若い教師へと視線を移した。
その瞬間、男の泥酔した瞳がふっと和らぎ、アルコールの霧の奥に眠っていた「父親としての意識」の残滓が、かすかに光を放った。
「ハスナ……親父の話を聞け……」
父親の声は、突然ゆっくりと、そして感情に震えるように重くなった。
「俺はな……とっくに人間のクズだ。人生はめちゃくちゃ、プライドなんてアルコールのボトルの中に流しちまった……。だが、お前は……お前は教師だ、ハスナ。立派な教育者なんだよ。俺は……俺のたった一人の娘が……現金のせいでプライドをドブに捨てるような姿なんて、死んでも見たくねえんだよ……」
ハスナは顔を上げた。胸の奥から込み上げる猛烈な感動に包まれながら、大きく見開いた目で父親を見つめていた。
『うわ……今夜は私の感情回路が完全にバグり散らかしてる』
ハスナの目に涙がたまっていった。
『あのアル中クソ親父のコードの中に、まさかまだ「父親としての防衛機能」が残ってたなんて。マジで感動して涙出そう……』
「ハスナ……俺やあの女みたいにだけは、絶対になるんじゃねえぞ……」
父親は再び呟いた。そのしわくちゃな目尻には、泥酔した涙がぽつりと一滴浮かんでいた。
「いい先生のままでいろ……お前の選んだ道は、間違っちゃいねえ……」
ハスナはこれまでの人生の重荷をすべて吐き出すように、号泣しながら父親に抱きつく準備をしていた。
「天界大爆発株』が間もなく大暴騰するからだァァァ!!! ワーハハハハ!」
どきり。
その言葉を聞いた瞬間、少女の涙はショックのあまり一瞬で涙腺へと逆流した。
父親は突如として2歩後ろに飛び退くと、狂った独裁者のように両手を天に掲げ、木製の椅子の上に立ち上がった。
さっきまでの感動の涙はどこへやら、今やアクセル全開のけたたましい高笑いを響かせている。
「母ちゃん! ハスナ! たかが20万のはした金でガタガタ騒いでんじゃねえ! 見ろ、これを見やがれ!」
父親は自分の胸をドンドンと叩きながら、狂ったように叫んだ。
「俺は今さっき、株の神様からお告げをもらっちまったんだよ! 明日の朝だ……明日の朝には、この俺がジャカルタで一番の大富豪だ! そしたらあのモナスだか何だか知らねえ塔を丸ごと買い取って、うちの物干し竿にしてやるからな! ギャーハハハハ!」
『さっきの感動、今すぐ全額返金してほしい』
ハスナは北極の氷のごとく冷ややかな目で父親を見つめながら、完全に無表情(真顔)に戻っていた。
『父親の防衛機能とかマジで何だったわけ? ただの密造酒のせいで脳のバグが再発しただけじゃん。モナスを物干し竿にするとか、親父のハゲ頭を干しとけっつの!』
母親は諦めたように思いきり額に手を当て、ハスナはベッドの上で心身ともに限界を超えた疲労感をにじませながら硬直していた。
「狂ってる……完全にイカれてるわ……」
母親はこれ以上夫の相手をするのは御免だとばかりに、キャバ嬢の仕事カバンをひったくるように掴むと、イライラしながらアパートを飛び出して行った。
「ハスナ、その精神病みの親父を何とかしなさい! 明日までに家賃の滞納分を払えなかったら、承知しないからね!」
バタン!
アパートの玄関ドアが乱暴に閉まった。
部屋の中では、椅子から降りた父親が、エアコンのドレンパン(水受け)をスイス製の純金インゴットだと思い込み、床を這いつくばりながら愛おしそうに抱きしめていた。
「俺の金……俺の金がこんなにたくさん……ふぅ……ちょっと寝るか……」
そして数秒もしないうちに、老いた男は汚れたタイルの床の上で、いびきをゴーゴーと掻き立てて眠りに落ちた。
ハスナは、このわずか5分間の激しい感情の乱高下のせいで、急激に悪化した腰の痛みを必死に押さえながら、とてつもなく重いため息をつくことしかできなかった。
『神様……お願いだから親父の脳みそを工場出荷状態にリセットしてください。ついでに私の腰に、天界直送の激辛湿布を割引価格で恵んでください……』
ハスナは今夜の過酷すぎる運命に、心も体も完全に白旗を上げていた。
「逃げよう。うん、逃げる。あんなお母さんの持ってきた仕事に巻き込まれる前に、一刻も早くずらかるの。マジで危険すぎる」
ハスナはそう呟くと、カニみたいにガチガチに強張った体に鞭を打ち、アパートのドアから外へと這い出した。今夜のうちに、できるだけ遠くへ逃げ延びるつもりだった。
だが、弱りきった足で街灯の照らす大通りの歩道を、ほんの15メートルほど進んだその時――。
背後から服を乱暴に引っ張られ、ハスナの足は突如として止められた。
「どこへ逃げようってのよ、ハスナ?!」




