悪夢からの生還と、心臓に悪い報告
「ゴホッ……う、うっ……」喉を掻きむしるような、かすれた喘ぎが漏れ出た。
呼吸マスクを通して無理やり送り込まれる酸素が、乾ききったルカの肺を焼くように刺激する。まぶたがまるで接着剤で貼り付けられたかのように重く、ただそれを僅かに開けるだけでも、途方もない労力を要した。
視界はひどく霞み, 世界がぐらぐらと回っている。目に映るのは、ぼやけた白い天井だけ。鼻を突くツンとした消毒液の臭いと、耳の奥に響く心電図モニターの規則的な「ピッ……ピッ……ピッ……」という電子音だけが、いやにリアルだった。頭が割れるようにズキズキと痛む。指先一つ動かすことすらできなかった。
「ル、ルカ兄さん!? 先生! 看護師さん! 兄さんが目を覚ました、おいっ!」左側から、ひっくり返ったような悲痛な叫び声が響いた。
ルカは首を向けようとしたが、まるで乾いたセメントのように固まって動かない。ただ、視線だけをゆっくりと動かすことしかできなかった。そこには、うっすらとラファの姿が映っていた。弟の姿は、見る影もないほど荒れ果てていた。
目の下には色濃いクマが刻まれ、髪はボサボサに乱れている。ラファは勢いよく立ち上がったが、その手はベッドの上で激しく震え、ルカの体に触れるべきか、それとも緊急コールボタンを押すべきか分からずに泳いでいた。
「本当に、死んじまったかと思っただろ、このバカ野郎……」ラファの声が、堪えきれない嗚咽へと変わる。管だらけのルカの体に抱きつくこともできず、ラファはただベッドの縁に額を押し当てた。
そして、まるで今にも砕け散りそうな硝子細工を扱うかのように、細心の注意を払いながらルカの手首をぎゅっと握りしめた。
「三日間も昏睡状態だったんだぞ、兄さん……。もう二度と、こんな真似しないでくれ……」
病室のドアがスライドして開いた。当直医よりも先に、グザヴィエが足早に姿を現す。
透明な眼鏡の奥で、この七十二時間ずっと張り詰めていた焦燥の光がようやく消え去り、代わりに長い安堵のため息が漏れた。当直医は急いでベッドに駆け寄り、ラファのパニックのせいで波形が乱れ始めた心電図モニターを確認する。
一方、グザヴィエはベッドの反対側に立ち、分析するような冷徹な眼差しで医師の動きを監視していた。医師は白衣のポケットからペンライトを取り出すと、手際よくルカのうつろな瞳の対光反射をチェックした。
神経系の反応に問題がないことを確認すると、医師は小さなライトを下ろし、正式な説明を始めようと口を開いた。
「ええと、現在の患者さんの状態ですが――」
「確認事項。被験者は未知の毒素に七十二時間体内システムを汚染された後、無事に危険な状態を脱した」
グザヴィエが洗濯板のように抑揚のない声で、医師の言葉を素早く遮った。当直医はあっけにとられて口を開ぐうの音も出ず、手に持ったペンライトが宙で虚しく静止した。
グザヴィエは医師のショックを受けた表情など歯牙にもかけない。彼は激しい安堵で震える両手を隠すように白衣のポケットに突っ込むと、まだ弱々しく瞬きをしながら意識をかき集めているルカを見つめた。
「お前の『フィクションのロジック理論』がまた証明されたな、ルカ。主人公の命というのは、やはりコンクリート並みに頑丈らしい」
「グザ……」
ルカの声は酸素マスクに遮られ、ほとんど聞き取れないほどの微かな呟きだった。
「俺……よく分かんねえ……人間が話す言葉で……説明してくれよ……。一体……俺に……何が……?」
「お前は昏睡状態だった。正確には、お前があの月明かりの下で生体シールドになるという無謀な決断を下してから、三日と二十四分十二秒間な」グザヴィエはぶっきらぼうに言い放った。当直医は大きく深呼吸をし、この部屋における医療従事者としての主導権をなんとか取り戻そうと試みた。
「あの、私の方から医学的な詳細を説明させてください。患者さんは一時的に――」
「戦術的修正」グザヴィエは医師の方を向きもしないまま、再びその言葉を遮った。しかしその両手は、ルカが少しでも楽に呼吸できるよう、医師よりも遥かに手際よく酸素ボンベの流量を調節していた。
「患者は謎の壊死毒性によって急性徐脈を引き起こし、現場での心拍数は四十まで急降下。部分発作に伴う呼吸停止を確認。すでに大規模な解毒処置および輸血は完了している。現在のバイタルサインは九十二パーセントで安定。これ以上の口頭による説明は不要だ」
当通医は硬直したまま何度も瞬きをした。手元のカルテに目を落とし、それから信じられないといった面持ちでグザヴィエを見つめる。
(十何年も医学部に通って医者になったのは俺なのか、それともこの病院のオーナーがアイツなのか……?)医師は心の中で惨めに涙した。眼鏡をかけた少年に、自分のプロとしてのプライドを完膚なきまでに踏みにじられた気分だった。
引き攣った笑みで必死に理性を保ちながら、当通医はゆっくりとカルテを下ろし、ドアの方へと後退していく。
「わかりました……。ご友人がすでに『歩く医学事典』の役割を兼任されているようですので……私は本当に医者を必要としている他の患者さんの診察に戻らせていただきます」
ピシャリと苛立たしげにドアが閉められ、残された特別室には三人だけの静寂が戻った。
ラファはゆっくりと上体を起こすと、ジャケットの袖で手荒に涙を拭った。そして、少しトーンを落としたグザヴィエの次の言葉に耳を傾ける。
「医学的に見れば、お前はあの教職員住宅の駐車場で死亡宣告を受けていてもおかしくなかった」グザヴィエは一切のオブラートに包むことなく淡々と告げ、少しズレた眼鏡の位置を直した。
「現場での応急処置が、あの壊死毒性が脳幹に達するのを辛うじて食い止めてくれたからよかったものの。さもなければ、この病院での大規模な解毒処置も輸血も、何一つ意味をなさなかっただろうな」ルカは一瞬、目を閉じた。あの虚無の底のような冷たさ、全身を苛んだ激しい痙攣、そしてラファの悲痛な泣き声の記憶が、脳裏をかすめていく。やはり、あれは夢ではなかったのだ。
自分はあの月明かりの下で、本当に死にかけていた。グザヴィエはベッドの上のルカへと少し身を乗り出し、三人だけにしか聞こえないような低い囁き声に切り替えた。
「おい、田んぼのアヒル。次からお前自慢の『主人公補正』とやらを試したくなったら、一言くらい言え。ラファの心臓が止まりかけたんだぞ。それに、俺だってお前のその頑固な死体に心臓マッサージまでする義理はない」
ラファはグザヴィエの皮肉に鼻で小さく笑うことしかできなかったが、その腫れ上がった瞳には、ルカに対する途方もない感謝の念が満ち溢れていた。
「もういいだろ、グザ……。そんなに怒るなよ。とにかく、このバカ兄貴が目を覚ましたんだからさ……」ラファはまた溢れそうになる涙を拭いながら、小さく溢した。
ルカは、白く曇った酸素マスクの奥で、まだ朧げな意識のピントを合わせようと必死に足掻いていた。激しい目眩の最中、あの学校の駐車場での微かな記憶が、突如として鮮明に脳裏をよぎる。
救急車のボンネットを必死に叩いていた、あの生活指導の先生の狂乱した顔が、幻影のように浮かび上がった。
「ゴホッ……ハ、ハスナ……先生……?」ルカの声は途切れ途切れで、掠れて今にも消え入りそうだった。「先生……無事……なんだよな……?」
グザヴィエは、いつもの洗濯板のように抑揚のない表情のまま、眼鏡の位置を静かに直した。
「被験者ハスナについて。彼女は、約二時間前にお引き取りになった」
ドクン。




