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ごめん、うちのちびモンスターがパニック中(だから世話をしなきゃ)  作者: HASNA


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48/52

『ハーレムルートを誤認された元システムと、偽りのパパ』

その夜、教職員住宅の敷地内はひっそりと静まり返っていた。


夜風が緩やかに吹き抜け、路地の片隅にある柿の古木の葉をカサカサと揺らしている。

ルカ、ラッファ、グザヴィエ、そしてハスナの四人は、すでに足が棒になりそうな状態でトボトボと並んで歩く羽目になっていた。


当初はそれぞれの車やバイクで「エレガントに脱出」する予定だったのだが、学校の外は数百台ものパトカーや迎えに来た保護者の車で大渋滞を引き起こしており、その目論見は見事に打ち砕かれたのだ。


現在の彼らの目的はただ一つ。この教職員住宅の中でひとまず安全な場所を見つけ、次の作戦を練ると同時に、渋滞に巻き込まれずに帰宅できるルートを探し出すことだった。


「正気じゃないわよ。この学校で何年も指導員の仕事をしてきたけど、まさか便所に閉じ込められてあんなにヘロヘロにされるなんて初めてだわ」



ハスナは、ゾクゾクと鳥肌が立つ自分の腕をさすりながら、力ない足取りで先頭を歩き、不満をぶちまけた。


「あの毒ガスを仕掛けたサイコパス野郎、今度目の前に現れたら、このラッキーラバーカップで涙目になるまで引っ叩いて改心させてやるんだから!」


「はいはい先生、さっきトイレの中で血の涙を流しながら気絶しかけてたのどこの誰ですか?」


ルカは制服についた埃を払いながら、おかしそうにクスクスと笑った。


「俺たちみたいなイケメンで勇敢な生徒がいて本当に良かったですね。じゃなきゃ先生、今頃あそこの伝説の便所幽霊として未来永劫お留守番することになってましたよ」


グザヴィエは鼻でフンと小さく息を漏らした。彼にとって、神経ガスのテロに遭遇した直後に夜道を歩かされるなど、ただの退屈なコンピューターのシミュレーションに過ぎないと言われないばかりの態度だった。


一方、ラッファはいつもの無表情を崩さず、両腕を胸の前で組みながら、油断のない鋭い視線で周囲の暗がりに警戒を走らせていた。


やがて四人の足は、半分空き家状態になっていて手入れの行き届いていない、一軒の教職員住宅の前でピタリと止まった。


だが、彼らを驚かせたのは家の古さではなかった。薄暗いその家のテラスのコンクリート床の上に、三人の小さな子供たちが身を寄せ合って座り込んでいるのが見えたのだ。


「あれ? なんでこんな夜中に子供がこんなところにいるんだ? この区域は人がいないはずだろ?」


ルカは怪訝そうに眉をひそめた。


しかし、夜の静寂の中に子供がいる不気味さを恐れるどころか、ルカはむしろ腰に手を当てながら、のん気な足取りでスタスタと前へ進み出た。


「よぉ、ガキども。迷子か? ママでも探しにきたのか?」


ルカはいつもの軽い調子で、彼らに声をかけた。


5歳くらいの一人の女の子が、すぐさまこちらを振り向いた。


髪をツインテールに不格好に結ったその子は、ルカの姿を見るなり、大きな瞳をキラキラと輝かせた。


「イケメンのお兄ちゃん! 一緒に遊ぼうよー! かくれんぼしよ!」


女の子は元気いっぱいに叫ぶと、何の前触れもなく飛び起き、その小さな体格からは想像もつかないほどの力でルカの制服の裾をグイグイと引っ張り始めた。



「え、ちょっと待て、お嬢ちゃん! お兄ちゃんはさっき毒ガスに追いかけられて死ぬほど疲れてんだよ!」


ルカは抗議したが、女の子はそんなことお構いなしだった。彼女はルカの周囲をぐるぐると走り回り、まるでメリーゴーランドの遊具にでもしがみつくかのように、再び彼の制服の裾をぎゅっと掴んだ。


「ほーら、ラチェルを捕まえてみてよ! イケメンお兄ちゃんのへなちょこ! 弱い、弱―い! ベーーーッ!」


女の子はペロッと舌を出し、誇らしげに自分の名前をアピールしながら、わざとルカの弁慶の泣きすねを思い切り蹴飛ばした。


――コツンッ!


「痛っつぅぅぅ! おい、この死神幼女! マジで痛てぇだろ!」


ルカは痛みに悲鳴を上げ、まるでウナギのようにすばしっこく逃げ回るラチェルを捕まえようと、独楽こまのようにその場でドタバタと回りながら完全に翻弄され始めた。


「おいガキ! 俺の兄貴からその手を離せ!」


ラッファが突如として低い声をあげた。彼のブラコンオーラが瞬時に全開になる。冷徹に燃える瞳でラチェルを睨みつけ、もしあの幼女がもう一度兄を蹴ろうものなら、即座に介入する構えを見せた。


「おい、グザヴィエ! ラッファ! 頼むから助けてくれ! このラチェルってガキ、ハイパーアクティブすぎる! 俺のギックリ腰が再発する!」


後ろからその様子を観察していたグザヴィエが、何のエモーションも乗せない無機質な声を響かせた。


「戦術的分析:あなたは現在、ラチェルという名の体長1メートル未満の人型生物に完敗しています。主人公としてのスペックを考慮すると、極めて哀れな状況です」


「うるせぇよ、この歩く冷蔵庫! いいから手伝え!」


ルカはすねを押さえて顔を顰めながら、サディスティックに怒鳴り返した。


一方その頃、二人目の子供――3歳くらいの男の子が、おぼつかない足取りでラッファの方へとトコトコと近づいてきていた。


その子のポンポン(お腹)から、静まり返った夜の闇に響き渡るほどの大きなお腹の虫の音が鳴った。男の子は不満げに頬を膨らませ、口をへの字に曲げながらぐずり始めた。


「アチャ、ご飯食べたい……お腹ちゅいた……」


根が冷徹で、そもそも子供という生き物が大嫌いなラッファは、即座に3歩後ろへと飛び退いた。

「飯はない。あっちへ行け」


青年は冷たく言い放った。しかし、さすがに哀れに思ったのか、彼はジャケットのポケットを探り、今朝母親が持たせてくれた携帯食料の残りのビスケットを2袋見つけ出した。


だが、ラッファがその袋を破くよりも早く、男の子の瞳がまるで肉食獣プレデターのように獰猛にギラリと輝いた。


子供はビスケットの袋を力ずくで奪い取ろうと、突進してきたのだ。


「おい、待て! 奪い取るな、袋が破れるだろ!」


ラッファは忌々しげに言い、反射的に右手を高く掲げて、その狂暴な幼児の手の届かない位置へとビスケットを避難させた。


しかし、3歳の幼児も諦めなかった。


自分の身長の低さではどうにもならないと悟った瞬間、男の子はラッファの左足に全力でしがみつき、その小さな口をこれでもかと大きく開けた。


――ガブッ!


「あ゛あ゛ぁぁぁ痛ぇっ! クソ、噛みつきやがった!」


ラッファは、制服のズボンの生地を貫通し、ふくらはぎを容赦なく食いちぎらんとする小さな歯の痛みに思わず大声をあげた。


「離せ! おい、このピラニア幼児! 俺はエサじゃねぇ!」


男の子はようやく口を離したものの、今度はテラスのコンクリートの床の上で、信じられないほどドラマチックにジタバタと身悶えしながら大号泣し始めた。


「ご飯ぁぁぁ! お腹ちゅいたぁぁぁ! お兄ちゃんのケチ! アキャスはお腹が空いてるの! うわぁぁぁん!」


「グザヴィエ! いいから手伝えってんだよ! このアキャスってガキ、前世でお前がルカの兄貴の稼ぎから自分の取り分を要求してた時みたいに、必死こいて飯を奪い取ろうとしてんだよ!」


ラッファはフラストレーションを爆発させ、アキャスの服の襟首を引っ張って床でのジタバタ大号泣タントラムを止めようとしながら、その端正な顔を忌々しげに歪めた。


「修正を要求します、ラッファ」


グザヴィエは平然と言い放った。


「私は効率的に栄養を摂取していただけです。一方、対象であるアキャス氏は『低レベルな駄々』をこねるメソッドを使用しています」


「あぁぁ、うるせぇよロボットお前!!! 黙ってろ!」


ラッファは忌々しげにグザヴィエを睨みつけた。


グザヴィエはルカやラッファに向かって、まるで『初めて下界に降りてきて幼児という未知の生物を目撃した二人のマヌケ』のライブアクション(実写映画)でも観賞しているかのように、どこか楽しげに、意地悪な薄笑いを浮かべていた。


ルカとラッファが子供たちにボコボコにされて大混乱に陥る中、三人目の一番小さな子供――2歳くらいの女の子が、おぼつかない千鳥足でハスナの方へとトコトコと歩み寄ってきた。


その小さな足は、必死に指導員ハスナのいる方向を目指している。


その子は顔を跳ね上げ、ビー玉のように丸く澄んだ瞳で、深い愛おしさと恋しさをいっぱいに湛えながらハスナを見つめた。


「せんせぇ……おんぶ……」


女の子は、胸がキュンとなるほど愛らしい舌足らずな声で呟き、その小さな両手を頭の上へと伸ばした。


ハスナの心臓は一瞬でとろけそうになったが、次の瞬間には別の意味でパニックに陥った。幼児を一度も育てたことのない彼女の『指導員の魂』と『作者のプライド』が同時に激しく震え出す。


「は、はぁ!? おんぶ!? え、ちょっと待ってお嬢ちゃん! 私、保育士の研修なんて一度も受けたことないんだけど!? これどうやって持ち上げればいいの!? 脇の下に手を入れるの!? それともどうすんのよ!?」


ハスナは一人でヒステリックになり、両手をカチコチに震わせた。


「せんせぇ……ひっく……ナジュワ、おんぶちて……」


女の子――ナジュワの瞳にみるみるうちに涙が溜まり、声を震わせながら今にも大爆発しそうな大号泣のカウントダウンを始めた。


「わ、わかった! わかったから! おんぶする、おんぶするからね、ナジュワちゃん!」


パニックのせいで事態がさらに泥沼化するのを恐れたハスナは、大急ぎで膝をつくと、どこかぎこちない抱き方でナジュワの小さな体を腕の中へと引き上げた。


「よしよし、いい子ね……。めっ、泣かないでぇ。先生――じゃなくて、お姉さん、子供をあやす才能はマイナスなのよぉ!」


ナジュワはハスナの首にしがみつき、少しひんやりとした頭を若い女性の肩へと預けた。


しかしその時、ナジュワの小さな人差し指がピッと跳ね上がり、先ほどからハスナの隣でマネキンのようにカチコチに直立していたグザヴィエの顔を真っ直ぐに指差した。


「パパ……」


ナジュワは無垢に呼びかけ、その小さな唇を可愛らしく歪めて、グザヴィエに向かって天使のような甘い微笑みを向けた。


「ゴホッ、ブフッッ!?」


未だにラチェルから全力で逃げ回っていたルカは、突如として自分の唾液を気管に詰まらせ、あやうくその場で派手に五体投地スライディングするところだった。


「マジかよ!? おいおい、最悪だな……! お前ら二人、俺の知らないところでこっそり『三流のハーレムラブコメ』のプロットでも進めてたんじゃねぇだろうな!?」


ルカは狂気に満ちた顔でハスナとグザヴィエを交互に指差しながら、マシンガントークを浴びせた。


「なぁ聞いてくれよグザヴィエ。隣の小説なら、創造神のチート加護を貰った主人公が、不慮の事故ラッキースケベとかのイベントを経てセクシーな女性教師とのハーレムルートを開拓するのがお約束だろ。なのに何でお前は、最低賃金(UMR)スペックの元システムのくせに、一番最初にハーレム陣営の進捗を終わらせてんだよ!? しかも何だその『既婚者・子持ち』のインスタントな初期設定は! お前ら、いつの間に不法結婚しやがったんだ、あぁん!?」


ハスナは即座に目を怒らせ、ルカのあまりにも不条理でぶっ飛んだ発言に対する怒りと恥ずかしさで、その顔を瞬時に真っ赤に沸騰させた。


「ちょっと! 言葉に気をつけなさいよ、このバカ!! 何言ってるのよ! 誰がこんなコメディ小説の身内で、自分の受け持ちの生徒とのハーレムルートに入るかーーーっ!! 次にまたそんな頭のイカれた男のロマンを口にしたら、お前を南極の果てまで蹴り飛ばして永久凍土にしてやるからね!?」



ハスナは忌々しげにルカを睨みつけると、すぐに優しい眼差しに戻ってナジュワを見つめ直した。


「ナジュワちゃん、この人はパパじゃないわよ! この子はまだただの学生だし、変な噂を流すのはやめなさい! 私とこの子の学校での名誉が傷つくじゃないの。この子のことは『不届き者』って呼びなさい。先生に向かって平気で口答えするんだから!」


「不届き者」と指名手配されたグザヴィエは、片方の眉をわずかに上げただけで、相変わらず腕を組んだまま淡々とそこに直立していた。


「修正を要求します、ハスナ先生」


グザヴィエが口を開く。


「私の顔面構造を一家の主と誤認するあたり、視覚的分析の結果、この児童は『初期の近視』を患っている可能性が高いかと」


「うるさいわね、この歩く冷蔵庫! 生徒をクビにしてやろうか!?」


ハスナはトゲのある声で言葉を遮ったが、その手はナジュワが再び泣き出さないように、ぎこちなくその背中をぽんぽんとあやし続けていた。


一方、ルカはラチェルの猛攻からようやく制服の裾を死守することに成功していた――代わりにボタンが一つ引きちぎれてどこかへ飛んでいったが。彼は大きくため息をついた。


そして腰に手を当てながら三人の子供たちに近づき、ほぼゼロに等しい威厳をどうにか振り絞って事態の収拾を図った。


「よし、お前らチビっ子軍団、ちょっとタイムだ」


ルカは、さっきラチェルに蹴られたすねの痛みを必死に堪えながら、できる限り声を優しく作った。彼は、ラッファから無理やりビスケットを口にねじ込まれてようやく床のジタバタを止めたアキャスと、ラチェルの前に膝をついた。


「お前ら、こんな夜中にここで何してんだ? この区域は人がいないはずだろ。家はどこだ? このイケメンお兄さんたちと、一人の『鬼オバサン』が家まで送り届けてやるよ。外は危ないんだぞ、警察がいっぱいいるし……あとは、巨大なおならガスが充満してるからな」


ルカのホラ話を聞いたラチェルは、すぐさまルカの真似をして自分の腰に手を当てた。


「えーっ、ブサイクお兄ちゃん、記憶喪失なの? 私たち、最初からここに住んでるもん!」


女の子は元気いっぱいに叫び、自分たちの後ろにある、半分開いた教職員住宅のドアを指差した。


「はぁ? このボロ家に?」


ルカはポカンと口を開け、ラチェルと目の前の建物を何度も交互に見つめた。


アキャスのよだれがべっとりついたズボンを拭いていたラッファが、その瞬間、鋭い視線を跳ね上げた。


「……ガキ、嘘ついてんじゃねぇぞ。この家、電気もついてなくて真っ暗だし、人の気配もねぇ。なんでお前らがこんなところに住んでるんだよ?」


口の周りをビスケットのクズだらけにしたアキャスが、今度は少し緩めにラッファの足にしがみつきながら、舌足らずな声で応じた。


「ここに住んでるもん……パパを待ってるの……」


「パパを待ってる?」


ハスナは眉をひそめ、言い知れぬ違和感を覚えた。彼女のミステリー作家としての魂が突如として呼び覚まされる。


「あんたたちのパパ、こんな時間までどこで仕事してるのよ?」


「パパはお金稼ぎのお仕事! アチャに『あいしゅ(アイス)』を買ってくれるの!」


アキャスは嬉しそうに叫び、その場でぴょんぴょんと小さく跳ね回った。


「パパがね、パパが帰ってくるまで『てらす(テラス)』で待ってて、中に入っちゃダメって言ったの!」


「じゃあ、お母さんはどこにいるんだ? こんな真っ暗なテラスに子供だけで放置されているなんて、普通はあり得ない」


グザヴィエが目を細め、雑草が荒れ放題の庭の周囲に油断のない警戒の視線を走らせながら問いかけた。


グザヴィエの脳裏に、先ほどナジュワが自分を『パパ』と呼んだ記憶が不意に蘇る。


(『パパ』を待つように指示されているのだとしたら……なぜ一番小さな幼児は、私の顔を見て父親だと認識した? この子供たちの記憶、あるいは視覚的認識に何らかのシステムエラー(歪み)が生じているな……)


グザヴィエは、これがシステムによる新たな罠のシナリオである可能性を察知し始めていた。

ハスナの肩に頭を預けていたナジュワが、突如として、一筋の光すら漏れてこない暗黒に包まれた住宅のドアの隙間を指差した。


「ママは中にいるよ……。いまね、晩ご飯作ってくれてるの……」


ナジュワは無垢に呟いた。


その瞬間、教職員住宅のテラスに、背筋が凍りつくような不気味な静寂がなだれ込んできた。

夜風が再び緩やかに吹き抜け、路地の片隅にある柿の古木の葉が、まるで怪物の囁きのようにザワザワと不吉な音を立てる。


ハスナの心臓が突如として倍の速さで脈打ち始めた。全身の鳥肌が完璧な形で見事に総立ちになる。


彼女は腕の中のナジュワを恐怖の眼差しで見つめ、子供を抱くその両手は、まるで生乾きのセメントのようにカチコチに硬直してしまった。


ルカは生唾を激しく飲み込んだ。彼は、暗闇に閉ざされ、埃をかぶり、そして外側から錆びついた鉄チェーンと南京錠で厳重にロックされている家の窓へと視線を向けた。


「ちょ、ちょっと待て……」


ルカの声が、突発的な恐怖で一オクターブ跳ね上がった。


「お前たちの母親が料理をしてるって……電気もついてない、外から鍵がかけられたこの家の中でか……?」


「うん! ママがね、美味しいご飯作ってくれるって言ったの!」


ラチェルは嬉しそうに言葉を重ね、目の前の大人四人の間に漂う、致命的な空気の変化に全く気づかないまま楽しそうに飛び跳ねた。


「お兄ちゃん……アチャ、またビスケット欲しい……」


アキャスが再びラッファの足に全力でしがみついてきた。


「はぁ!? お前、さっきのビスケットもう全部食い尽くしたのかよ!? ダメだ! もうねぇよ! これはルカの兄貴に渡す最後の1個だ、お前はもう自分の分を食ったろ!」


「うわぁぁぁん!! お兄ちゃんのケチーーーー!!」


ビスケットの交渉が決裂したと悟ったアキャスは、あろうことかラッファの左足を『ボルダリングの壁』として利用し始めた。


3歳の幼児はラッファの太ももをがっしりとホールドすると、そのまま上へとよじ登り始めた。その重みで、ラッファの制服のズボンがずりずりと数センチほどずり落ちる。


「おい! 降りろ、このガキ! ズボンが脱げるだろ、ピラニア!!」


ラッファは完全に冷静さを失って怒り狂い、自分のズボンのウエストを必死に両手で押さえながら、アキャスを振り落とそうと激しく足をバタつかせた。


しかしアキャスは、それを遊園地のバイキング(海賊船アトラクション)か何かだと勘違いして大喜びし始めた。


「アチャ、もっと登るー! おこりんぼお兄ちゃんの制服の山、てっぺんを目指すぞー!」


アキャスはさらにヒステリックに爆発的な歓声をあげた。


コンクリート床の埃をたっぷりと吸い込んだ彼の小さな足は、ラッファのグレーの制服のズボンに、見事な黒い足跡のスタンプをいくつも刻みつけていった。


「グザヴィエ! 見てねぇで、分析してねぇで助けろ、クソが!!」

ラッファが悲鳴のような怒鳴り声をあげた。


ボクサーパンツのゴムが今にも大自然の青空の下に完全露出しかけており、その端正な顔は羞恥と怒りで真っ赤に沸騰していた。


グザヴィエは人差し指で静かに眼鏡の位置を直した。



「身体力学的分析:対象であるアキャス氏のホールド力は、主食であるユーカリの木にしがみつくコアラのそれに酷似しています。もしあなたがこれ以上激しく足を振り回した場合、股間のズボンの生地が内側から爆発的に引き裂かれるリスクが85%に上昇します」


「てめぇ、マジでそのうち串焼きのケバブにしてやるからな、グザヴィエ!!」


ラッファが呪詛の言葉を吐き終えるよりも早く、今度はラチェルが、ようやく安堵の息を漏らしたばかりのルカに向かって猛スピードで突進した。


なんの前触れもなく、5歳の幼女は空中へと跳躍すると、ルカの背中を完全に踏み台にしてド派手なプロレススマックダウンを叩き込んだ。


――ドガシャッッ!!


「ぶふっ!? お、俺のギックリ腰(腰椎)がぁぁぁ!!」


ルカはテラスのコンクリート床に見事な顔面スライディングを決め、その上にラチェルが、まるで夏祭りのお留守番ポニーの遊具にでも乗るかのような気楽さで、ルカの背中にドッカリと腰を下ろした。


「ヒヒーン! 進め、へなちょこイケメンお馬さん! 巨大なおならガスを追いかけるぞー!」


ラチェルは歓声をあげながら、ルカの制服の襟首を後ろからグイグイと引っ張り、ルカの首を容赦なく絞め上げた。


「ゲホッ……お、おい! この死神幼女! 降りろ! これは主人公の尊厳に対する重大なハラスメントだぞ!」


ルカは床の上で、ひっくり返ったカメのように手足をバタつかせながら息絶え絶えに悶絶した。


「クソ……ゲホッ! 隣の国のウェブトゥーンの主人公は……ドラゴンのブレスとか必死に防いでるっていうのに……なんで俺は、こんなところで……最低賃金(UMR)スペックのチビっ子に乗り回されて窒息死しそうになってんだよ!! グザヴィエ……早く……こいつを論理的に説得して引き剥がせ……!」


グザヴィエは、地面に無様にうつ伏せになっているルカを冷徹に見下ろした。


「結論:重力負荷が15キログラム増加しました。おめでとうございます。あなたは正式に、ラチェル氏の専用公用車に認定されました」


一方、ハスナの腕の中にいたナジュワは、上の兄姉たちが大人たちから注目を独占しているのを見て、自分だけ仲間外れにされたような気分になり始めていた。


そしてなんの前触れもなく、彼女はその小さな人差し指を、ハスナの鼻の穴へと非常に不作法にブスリと突き刺した。


「ナジュちゃんも遊ぶー! せんせぇ、アチャお兄ちゃんがズボンの滑り台に乗ってる! ナジュちゃんもあれ乗りたい!」


「私の鼻の穴に指を突っ込むんじゃありません、ナジュワちゃんんん!」


ハスナは今すぐ大号泣したかった。そもそも欠片も持ち合わせていなかった彼女の母性という名のソウルは、今夜の教職員住宅のテラスにて、完全に生きたまま永久埋葬された。


「パフォーマンス分析」


すぐ隣で優雅に直立しているグザヴィエが、他人事のようにぽつりと呟いた。


「あなた方は全員、初級の『幼児育児シミュレーション』に完全に失敗しました。評価スコアはマイナスです」


頭がクラクラと回り始めたルカは、忌々しげに顔を跳ね上げた。


「うるせぇよ、この見習い受付係! お前だって『パパ』って呼ばれた瞬間、洋服屋の売れ残りマネキンみたいにカチコチに固まってただろ!」


グザヴィエは片方の眉を上げ、平然と、しかし極めて冷ややかな視線をルカに突き刺した。


「少なくとも私には、他者から敬意を払われるだけの人格のベース(器)があります、ルカ。一方のあなたはどうですか? 猿に激しく揺さぶられているヤシの木にしか見えません」


「てめぇ、グザヴィエ……!」


ルカは、グザヴィエの痛烈な正論のキレ味に、悔しさと怒りで顔を真っ赤にして悪態をついた。


だが、アキャスの必死のホールドからどうにか自分のふくらはぎを解放しようともがいていたラッファが、突如としてその動きを完全に止めた。彼の全身が、硬直したように強張る。


ラッファの並外れた野生の警戒本能が、周囲の空間に漂う明確な違和感を敏感に察知したのだ。彼の胸の奥に、再び濃密な疑惑が這い上がってくる。


彼の鋭い瞳がさらに細められ、夜の静寂を切り裂くように、路地の片隅にある柿の古木の影へと真っ直ぐに向けられた。


そこにあった太い幹の陰に、人間の男のシルエットが、まるで死体のようにカチコチに直立しているのが見えた。


その影は、首を少しだけ不自然に突き出し、テラスにいるラチェル、アキャス、ナジュワの三人の姿を、瞬きもせずにじっと凝視していた。


「……木の陰に、誰かいる」


ラッファが低く冷たい声で呟いた。その一言が、ルカとグザヴィエのくだらない言い合いを一瞬で叩き切った。


ルカ、グザヴィエ、ハスナの三人は、反射的にラッファの視線の先へと目を向けた。間違いない。薄暗く頼りない街灯の光の境界線に、その男の影が、極めて不審な様子で三人の子供たちを監視している姿がくっきりと浮かび上がっていた。


ラッファの脳内で、過剰なまでの防衛本能ブラコンのスイッチが音を立てて入った。何の前触れもなく、ラッファはテラスの最前線へと足を踏み出し、その瞳に獲物を屠るかのような圧倒的な威嚇の光を宿した。


「おい! そこで何コソコソ見てやがんだ、てめぇ!?」


ラッファの地鳴りのような怒号が、静まり返っていた教職員住宅の夜の静寂を派手にぶち破った。


ラッファの容赦のない威嚇の声を浴びた瞬間、木の陰の男のシルエットが、ビクッと大きな拒絶の反応を示した。


男は一切の言葉を発することなく、すぐさま背を向けると、暗い路地の奥へと猛スピードで脱兎のごとく逃げ出した。まるで、現行犯で捕まった犯罪者のように、恐怖に引き攣りながら闇の中へと消え去っていった。


「チッ、逃げやがった!」


ラッファが悪態をつき、即座に追撃に移ろうとしたが、その腕をルカが素早く掴んで制止した。



追うな、ラッファ! 危険だ。相手が武器を持ってるかどうかも分からないし、この先は暗すぎる」


ルカは油断のない声で弟を宥めた。そしてルカは、足元で相変わらず小石をいじって遊んでいたラチェルの前に視線を下げ、膝をついた。


「なぁ、ラチェル。さっきの木の陰から逃げ出したおじさん、見えたか? あいつ、お前らがさっきから待ってるっていう『パパ』じゃないのか?」


ルカが怪訝そうに問いかけた。


ラチェルは小石を動かす手を止め、不満げに眉をひそめながら暗い路地の奥を見つめた。そして、ツインテールを激しく揺らしながら、ぶんぶんと首を横に振った。


「違うよ! あんなの、ラチェルのパパじゃないもん! パパはあんな歩き方しない! あんな変なおじさん、ラチェル知らない!」


ラチェルは、どこか生意気だが、嘘偽りのない純粋な声で言い切った。


ルカは困惑の度合いを深め、次にラッファの制服の裾を再びモグモグと噛みちぎろうとしていたアキャスへと視線を移した。


「アキャス、お前は? さっきのおじさんに見覚えはあるか?」


アキャスはしばらく顔を上げてラッファの服から口を離すと、無垢にパチパチと瞬きをした。


「じぇんじぇんわかんない……。アチャ、あんな不細工なおじさん知らないの……」


男の子はそれだけ短く答えると、すぐにまたお腹が空いたとぐずり始めた。


ハスナの腕の中にいるナジュワに至っては、先ほどの闇の奥をただ感情の失せた虚ろな目で見つめているだけで、何の反応も示さなかった。


グザヴィエの顔を初めて見た瞬間に、嬉しそうに『パパ』と呼んだあの劇的な反応とは、あまりにも対照的だった。


――だが、その不審者の顔のパーツや骨格は、今しがた首を振ったラチェルのツインテールの生え際や、アキャスの鼻の形に、不気味なほど酷似していた。


目の前の子供たちが、自分たちに血の繋がった何者かの存在を完全に拒絶している事実に直面し、ハスナの全身の鳥肌が再び強烈に総立ちになった。先ほどまでかろうじて維持されていたコメディの空気は瞬時に霧散し、現場の雰囲気は重苦しく、悍ましいほどの緊張感へと急降下していく。


グザヴィエは、誰もいなくなった路地の最果てを、再び冷徹で計算じみた瞳で見つめた。


「……異常事態の分析アノマリー


グザヴィエが、明確な危険を孕んだ低い声で呟いた。


「この児童たちの認知能力、および記憶領域に対して、大規模な書き換え(操作)が行われている形跡があります。彼らは本来あるべき父親の存在オリジナルのデータを完全に忘却し、代わりとしてランダムに私をその対象として認識している。ルカ、これは単なるネグレクト(育児放棄)の事案ではありません」


いつもならすぐにくだらない軽口や皮肉を叩き返すはずのルカが、今回ばかりは完全に沈黙した。


彼の詐欺師としての狡猾な脳みそが高速で回転を始め、学校の空調パイプに仕掛けられていた毒ガスの罠から、この子供たちの記憶の異常に至るまでの点と点を、恐ろしいスピードで結びつけていく。


(これはただのシステムのエラーなんかじゃない……。俺たちを嵌めるために、意図的にこんな狂ったシナリオを構築した黒幕プレイヤーが、確実に裏にいる……)


ルカは心の中でそう確信し、無意識のうちに手の中のハンカチをギリッと強く握り締めた。


ラッファはジャケットのポケットの中で拳をさらに硬く握り締め、背後にある、一筋の光もなく外から固くロックされた教職員住宅のドアを冷徹に睨みつけた。


「母親は家の中で料理をしていて……だけど、自分たちの父親の顔すら分からない、か」


ラッファが刃物のように鋭い声で呟いた。


「……この家の中、絶対に何かが狂ってやがる」



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