『三流小説のチートを羨む詐欺師たちと、ラバーカップの救世主』
ルカはもう先生の悲鳴に構っている余裕はなかった。彼の目的はただ一つ、生き残ることだ。彼はすぐさま先頭に立ち、ヒロの腕を強引に引いて全力疾走を始めた。
そのルカの反対側では、ラッファが未だにこの世の終わりかのような不機嫌な表情を浮かべている。
彼らの間に漂う疑惑の空気は、まるで鉛のように重苦しかった。
グザヴィエはラッファの隣を並走しており、その足取りは激しくなり始めたルカの呼吸の乱れと完全に同調していた。
二階の廊下は、すでに逃れられない死の罠へと変貌を遂げていた。
天井の隙間から、銀色の不気味なガスが濃霧となって激しく降り注ぎ、肺を締め付けんばかりの冷たい触手のようにうねりながら広がっていく。
ルカの喉はすでに焼け付くような痛みを覚え始めていた。息を吸い込むたびに、刺すような激痛が走る。
「クソ……喉が、熱すぎ――」
「兄貴、危ない!」
ラッファが突如として叫び声をあげた。
――バゴォォォン!!!!!
彼らの目の前で、天井の空調パイプが軋んだ音を立てたかと思うと、次々と爆発し、激しい熱風とともに巨大な石膏ボードの天井パネルが崩れ落ちてきた。
その崩落は、生徒指導室へと続くメインの通路を完全に塞いでしまった。
それだけではない。廊下のアラームが突如として耳を劈くような大音量で鳴り響き、続いて壁の奥から不気味な機械音が聞こえてきた。
防犯用の鋭い鉄製のシャッターが天井からゆっくりと降り始め、神経ガスが充満するこの廊下に彼らを完全に閉じ込めようとしていた。
「このままだと閉じ込められる!」
ルカはパニックになりながら、赤く点滅する廊下の掛け時計に目をやった。
残り時間はまだ21分ほどあったが、このガスの濃さでは、すぐに密閉された部屋に逃げ込まなければ5分もしないうちに窒息死してしまう。
「ヒロ、俺と一緒にこのロッカーを動かせ! グザヴィエ、その鉄のシャッターを食い止めろ!」
ラッファは生き残るために己のエゴを捨て、的確に指示を飛ばした。
グザヴィエは素早い動きで近くにあった壊れた木製の机を蹴り飛ばし、今にも閉まりそうだった鉄のシャッターの隙間に挟み込んで楔にした。
金属と木製の机が激しく軋み合う痛々しい音が廊下に響く。
その間に、ラッファ、ルカ、ヒロは全力を振り絞り、行く手を阻むように倒れていた鉄製のロッカーを押し退けた。
ルカの手は震え、呼吸はさらに浅くなっていく。グザヴィエの挟んだ机がシャッターの圧力に耐えかねて真っ二つに叩き割られた、まさにその瞬間――四人は間一髪で狭い隙間を潜り抜け、生徒指導室のドアの前へと転がり込んだ。
ラッファは一瞬の猶予も無駄にしなかった。煙に激しく咽びながらも、彼は靴底を叩きつけるようにして、生徒指導室の木製のドアを豪快に蹴り破った。
ガシャーーーンという激しい音とともに、扉が開け放たれる。
幸運なことに、生徒指導室のドアは教室の時のように完全ロックはされていなかった。
四人は雪崩れ込むように室内に飛び込むと、廊下のガスを遮断するためにすぐさまドアを激しく叩き閉めた。
室内には、鼻を突くカビ臭さと、ゾッとするような冷気が漂っていた。
固く閉ざされたドアに背を預けたまま、四人はその場に崩れ落ち、残されたわずかな綺麗な空気を必死に肺へと送り込もうとした。
グザヴィエは振り返り、毒ガスのせいで鼻水を垂らしながら必死に胸を押さえているルカを見つめた。
この生死を分ける極限状態の中で、身体能力も魔法の力も一切持ち合わせていないルカのあまりの弱さを目の当たりにし、グザヴィエの『元システム』としての記憶が突如として疼き出した。
彼の内から、抑えきれないフラストレーションが爆発する。
「なぁ、重荷。一つ聞きたいんだが」
外から鳴り響くアラームの轟音の合間に、グザヴィエが苛立ちを隠せない声を割り込ませた。
「なんでお前は、昔からそんなに最弱の主人公なんだ? OP(ぶっ壊れ)なステータスもなければ、スキルもない。魔法の才能すら欠片もないじゃないか! 一体どうやってこの世界をクリアするつもりなんだ!?」
ルカはすぐさま顔を跳ね上げ、納得がいかないというように目を剥いた。
「なんで今そんなこと聞くんだよ、クソが!」
ルカは激しく咳き込みながら怒鳴り返した。
「だいたいな、現実的に考えろってんだ! この世界にそんなインスタントな力があるわけねぇだろ! お前はどこぞの三流小説みたいに、第1話で創造神の加護を貰えると思ってんのか!? くしゃみ一つで山を吹き飛ばすような主人公と俺を一緒にするな!」
グザヴィエは鼻で冷笑し、自分たちの不運な現実――他のフィクションのような輝かしい設定とは程遠い現実に呆れて、自分の額に手を当てた。
「隣の国のマンガ(ウェブトゥーン)のシステムを見習ったらどうなんだ!」
グザヴィエも負けじと言い返し、その声にはかつての自分自身の機能制限に対する皮肉がたっぷりと込められていた。
「あっちのシステムは転生した瞬間に神の力をブッキングして、無限のスキルを与えて、主人公をたった一晩で最強にするぞ。それに比べて昔の俺はどうだ? お前のシステムだった頃の俺は、透明なテキストボックスで現れては『頑張ってください、あなたならできます!』なんて言うだけだった。単調極まりない。伝説の聖剣どころか、お前に風邪薬一つ与えることすらできなかったんだぞ!」
「ほら見ろ! 自分が一番よく分かってんじゃねぇか!」
ルカは残った最後の力を振り絞ってグザヴィエの顔を指差し、元システムへの怒りをぶちまけた。
「バグってたのはお前の方だろ、なんで俺のせいにしてんだよ!? 他のシステムなら、刃物無効とか毒無効のチートコード、あるいは最低でも一発で全回復するポーションくらいくれるもんだろ。なのに当時の俺のシステム(お前)は何をしてた!? 俺の耳にタコができるまで説教してただけじゃねぇか! もしお前がもう少し賢くて、俺のために神の力でもブッキングしてくれてたら、今頃外をのんびり散歩できてたんだよ。こんな惨めに鼻水を垂らす必要もなかったんだ!」
グザヴィエは目を剥いて言い返そうとしたが、次の瞬間、二人の視線がぴたりと重なった。
薄く漂う煙の中で、二人の間に短い沈黙が訪れる。
彼らの脳裏に、不意に過去の記憶がフラッシュバックした。ルカは思い出した。かつて自分たちが、何の力もないまま、ただの『無鉄砲さ』と『ハッタリ(口先)』だけでどれほど必死に生き延びてきたのかを――。
そしてグザヴィエは……昔どれほどシステムとして堅物だったとしても、ルカの魂が前の世界で消去されるのを防ぐためだけに、ボスの権限プロトコルを自ら違反し、センターからデータを完全消去されるリスクさえ冒してくれた、唯一の存在だった。
ルカの口元が突如として引きつった。掠れた喉から小さな笑いが漏れ、続いてグザヴィエからも低い笑い声が上がった。
二人はついに声を合わせて笑い出した。その笑い声は、周囲の緊急事態とはあまりにも不釣り合いで、強烈なコントラストを描いていた。
グザヴィエは深く息を吸い込み、諦めたように首を横に振った。
「だが、よくよく考えてみれば……俺たち二人は本当に狂っているな。他の小説やウェブトゥーンが、一瞬で神の力や伝説の武器、最強のバフをくれるような何十億もの資金をかけたエリートシステムを手に入れているっていうのに……最低賃金の俺が引いたのは、お前みたいな『罪の塊』の相棒だったんだからな。結果はどうだ? 俺たちの違和感だらけの違法ビジネスのせいで、隣のファンタジー世界の経済をあわやインフレ崩壊させるところだったじゃないか!」
「だから言ったろ!」
ルカは残った力を振り絞ってグザヴィエの肩を叩いた。その瞳には、狂気と強い決意の光がギラギラと宿っている。
蚊の佃煮を使った裏ビジネスで、あの狂った闇市場を大荒れに荒らし回った俺たちがだぞ? なんで学校の毒ガスごときで無様に犬死にしなきゃならねぇんだよ! そんなの俺たちの『詐欺師の経歴書』に傷がつくだろ、ダサすぎる!」
昔のどれほどボロボロで狂気に満ちた戦いだったかを思い出すと、今ここで諦めるなんて本当に馬鹿げているとルカは思った。
「てめぇら二人して、この状況で何楽しそうに思い出話に浸ってやがるんだよ!」
ラッファが荒い息を吐きながら悪態をついた。この生死を分ける瀬戸際で、兄とグザヴィエがのん気に昔話を楽しんでいる姿に、苛立ちと同時に背筋が凍るような感覚を覚えていた。
「外のガスがさらに濃くなってんだよ、おい! こんなところで二人して窒息死するのを見るためだけに、俺が昨日必死こいてグザヴィエのボスのシステムサーバーをハッキングしたと思ってんのか!? 早くその汚い詐欺師の脳みそを働かせろ、兄貴!」
ルカは笑いすぎて出た涙を拭い、ハンカチの陰で不敵にニヤリと口元を歪めた。
「落ち着け、少なくとも毒ガスには俺たちを探し出す目なんてないんだ、そこは感謝しねぇとな。これよりもっと酷い死線を潜り抜けてきたんだ、この程度大したことねぇよ」
ルカはすぐさま立ち上がり、額から大量に流れ落ちる冷や汗を拭った。
「グザヴィエ、狂った思い出話はここまでだ。早くハスナ先生のパソコンをチェックしろ!」
ルカが声を張り上げると、その声にはいつもの真剣さが戻っていた。グザヴィエは即座に、書類が散乱したハスナのデスクの奥へと飛び込んだ。
しかし、ルカ、グザヴィエ、ラッファの注意が完全にコンピューターへと向けられたその瞬間、彼らの少し後ろに立っていたヒロだけは、その光景をどこか他人事のように冷ややかに見つめていた。
その顔には、未だに大人しくて従順な生徒の仮面が完璧に張り付いている。
外見からは、ただの怯えた一般的な生徒にしか見えない。しかし彼の内面では、ヒロの口元がゆっくりと冷酷に歪んでいた。先ほどまでルカとグザヴィエ、そしてラッファの親密な距離感に嫉妬で焼かれていた胸の燻りは、今や影を潜め、不敵な冷笑へと変わっていた。
(見ものだね……これから先、君たちがそんな風にまた笑っていられるかどうか……)
ヒロは心の中でそう呟きながら、ルカの背中を見つめた。
「ヒロ? どうしたんだよ、ボーッとして? 早くこっちに来い、ガスがこっちまで漏れ出してきてるぞ!」
ルカが突如として振り返り、声をかけた。
一瞬にして、ヒロの脳内の冷酷な表情はかき消え、作り物の不安げな表情へと上書きされた。
「あ……う、うん、ルカ先輩。ちょっとガスのせいで頭がクラクラして、力が入らなくて……」
ヒロは少し震える声で弱々しく呟いた。
血の赤に染まったモニターの傍ら――その禍々しい光をグザヴィエの無機質な顔に反射させている画面の横に、外れた黒いメカニカルキーボードのキー(キートップ)が一つ転がっていた。
まさに、物理的な鍵穴を持たない『鍵』。コンピューターの画面上では、全体の残り時間が深刻な数字を刻む中、コードの入力欄が激しく点滅を繰り返していた。
【アクセスコードを入力してください: _ _ _ _ _】
【残り時間: 21:05】
「この入力欄は5文字のアルファベットを要求していますが、ここには何のヒントも記述されていません」
グザヴィエが告げた。その声は平坦だったが、僅かな一瞬の間があり、それが彼の中で緊急の計算が行われていることを示していた。彼の指先は、キーが一つ欠落し、剥き出しになった金属製のスイッチが鋭く突き出ているキーボードの上で静止していた。
ラッファが近づき、赤く染まった薄暗い光の中で、デスクの隅々まで目を細めて精査した。
「ヒントがないわけがない。あのハスナ先生のそそっかしさだ、絶対に何かをこのパソコンに残してるはずだ」
ラッファはデスクのカレンダーを荒々しくひっくり返し、山積みの書類を派手にぶちまけた。その時、使い古されたバインダーの陰に隠されるようにして、木製の机の隅に油性マジックで急いで書き殴られた跡に彼の視線が留まった。
そこには、殴り書きされた奇妙な文字列が並んでいた。
――『ラ・ン・ゼ』。
「ルカの兄貴、これを見てくれ」
ラッファが声を潜めた。その声には、どこか不吉な予感が滲んでいた。
「ランゼ? 薬の名前か? それともハスナ先生がネットのなりきりチャット(RP)で使ってる裏アカの名前か?」
グザヴィエが画面を見つめたまま、即座に言葉を遮った。
「機能分析によると、これは逆暗号化セキュリティシステムです。この文字列の並びを反転させなければ、システムを支配している外部の存在に認識されません。早く、タイピングを!」
「待てよ、反転させるってことは……『ゼ・ン・ラ』?」
ルカは無意識にその名前を呟いた。
――ピピッ!
永遠とも思えるような一秒間の重苦しい静寂が、室内を支配した。
次の瞬間、血のような赤色に染まっていた画面が、突如として鮮やかな緑色へと変わった。
――ガシャコン! ガシャコン! ガシャコン!
下層階の方から、巨大で重々しい機械的なロック解除の音が響き渡り、その振動は彼らが立っている床にまで伝わってきた。
先ほどまで完全にロックされていた職員用トイレのドアや、すべての教室の扉が一斉に激しい音を立てて解錠された。廊下で彼らを閉じ込めそうになっていた防犯用のシャッターも、自動的に上方へと巻き上がっていく。
天井の隙間から噴き出していた薄気味悪い霧がピタリと止まった。
機械の吸引音が鳴り響き、充満していた毒ガスがゆっくりと空調パイプの奥へと吸い込まれていく。
【パズル1:クリア。1階および2階の廊下へのアクセスを許可します】
「ゲホッ、ゴホッ! クソ……危うく干からびてミイラになるところだったぜ……」
ルカは激しく咳き込みながらも、ようやく安堵の息を漏らした。冷たいデスクの端に背中を預けたが、その心臓は未だに早鐘を打つように激しく脈打っている。
一方その頃、外の世界から完全に遮断された、静寂に包まれたシステムルームの壁の奥で。
アルビルは豪華な特等席の椅子の背もたれに、ゆったりと体を預けていた。
目の前の巨大なモニターには、生徒指導室の隠しカメラから送られてくる生中継の映像が映し出されている。
そこには、廊下の罠とパソコンの謎解きをクリアし、ラッファやグザヴィエと共に安堵の笑みを浮かべているルカの姿があった。
モニターから放たれる緑色の光が、アルビルの瞳に怪しく反射する。
アルビルの口元がゆっくりと吊り上がり、極めて満足げな冷酷な笑みを形作った。獲物を最初の罠へと見事に追い込んだ捕食者の笑みだ。
「まだその名前を覚えているんだね、ルカ……いや、ゼンラと呼ぶべきかな? 流石は僕の可愛い弟、賢い子だ」
アルビルは画面の向こうのルカに向かって、低く囁いた。
その声は穏やかでありながら、背筋が凍るような致命的な脅迫を孕んでいた。彼は足を組み、画面の中のルカの顔をじっと見つめる。
「ゲームはまだ始まったばかりだよ、僕の弟。君の仲間たちが、いつまで君を僕から守り通せるか見ものだね」
生徒指導室の中では、毒ガスが消え去って身体的な危機は脱したものの、室内に漂う緊張感はむしろじわじわと高まり始めていた。
空気の重みが突如として変質し、刺すようなピリついた気配へと変わる。
ラッファの視線は、真っ直ぐにヒロの姿を捉えてロックされていた。
彼の目は、極限の敵意と底知れない疑惑を孕んで細められている。
おかしい。自分たちがロッカーを押し退け、降りてくる鉄のシャッターを避けながら、死に物狂いで呼吸を繋いでいたあの極限状態の中で――なぜヒロの姿だけがこれほど『綺麗』なままなのだ? 彼の服は他の誰よりも汚れていないし、先ほどの絶体絶命の危機の最中も、その瞳には本物のパニックなど欠片も浮かんでいなかった。
しかし、今の状況はラッファに味方していなかった。
ヒロの足跡の消し方はあまりにも完璧であり、グザヴィエやルカを納得させられるだけの確たる証拠がない以上、ラッファもあからさまに彼を問い詰めることはできない。
ラッファにできるのは、ただジャケットのポケットの中で拳を白くなるほど強く握り締め、胸の中で今にも爆発しそうに荒れ狂う激情を必死に押し殺すことだけだった。
これ以上空気が張り詰め、ラッファの視線が今にもヒロを刺し殺しそうな気配を察知したルカは、すぐさま二人の間に割って入り、互いの視線を強引に遮断した。
「そこまでだ、ストップ。これ以上ややこしくするな」
ルカはラッファの肩を強く叩いて宥め、今にも爆発しそうだった時限爆弾の導火線をどうにか消し止めた。
グザヴィエもそれに合わせて動き出し、先ほどのパイプ爆発の後の廊下の状況を確認するため、いち早く部屋の外へと足を踏み出した。戦術的な安全を確保するため、意図的に皆の注意を外へと逸らしたのだ。
ルカ、ラッファ、ヒロの三人も、彼の後ろを急いで追いかけた。
システムがアクセス解錠を宣言したとはいえ、先ほどの毒ガスに包囲されたトラウマの残滓のせいで、ルカの胸は未だにドクドクと激しく高鳴っていた。
「急いで下りるぞ! まずはハスナ先生を助け出さなきゃ!」
ルカは声を張り上げながら、階段の段飛ばしで一気に駆け下りていった。
四人が一階に辿り着いた瞬間、それまで静まり返っていた学校の静寂は、一転して完全なる大混沌へと爆発した。
――ドガン! バタン! ドシャッ!
廊下に並ぶ教室の電子ロックが一斉に強制解除され、扉が次々と跳ね上がったのだ。
教室内に閉じ込められて恐怖していた何百人もの生徒たちが、まるで決壊したダムから溢れ出る濁流のように、一斉に廊下へと飛び出してきた。
パニックに陥った悲鳴、ヒステリックな泣き声、そして互いを押しのけ合いながら走り去る無数の靴音が響き渡り、耳を劈くような大音量となって校舎中に木霊した。
「押さないで! 避難階段を使いなさい!」
週番の先生たちがどうにか群衆を統制しようと声を張り上げていたが、その声は民衆の圧倒的な恐慌の渦に一瞬で呑み込まれて消えた。誰もがただ一つ、この呪われた校舎から生きて脱出することだけを考えていた。
校門へと押し寄せる人間の海を、ルカは逆流するように突き進み、職員用トイレへと急いだ。
トイレのドアのすぐ前まで来ると、中から限界を迎えて弱々しくなった、必死のノック音が聞こえてきた。
「だれか……お願いだから……マジで力が入らないの……」
ハスナが中から情けない声で、すすり泣いていた。どうやら長い間、ラバーカップ(スッポン)でドアを叩き続け、体力を完全に使い果たしてしまったらしい。
「ハスナ先生! 下がって、先生! ドアのロックはもう解除されてる!」
ルカはドアに向かって大声で叫んだ。そして、職員用トイレのドアノブを力任せに引いた。
扉が開いた瞬間、ハスナの体が前方へとガクンと傾き、今にも床へ突っ伏しそうになった。
しかし、すかさず動いたグザヴィエが彼女の襟首を後ろからガシッと掴み取り、作者の顔面が床と熱烈なキスを交わすのを間一髪で阻止した。
ハスナの髪はボサボサに乱れ、目は真っ赤に腫れ上がり、そして右手には未だに『幸運のラバーカップ』が固く握り締められていた。
顔面は蒼白だったが、ルカの顔を見るやいなや、その瞳にドラマチックな輝きが戻った。
「ルカーーー! ラッファーーー! グザヴィエーーー! うわぁぁぁん! 私、本当にこのまま死んで『トイレのハナコさん』になるかと思ったよぉぉぉ!」
ハスナの涙腺が崩壊し、なりふり構わず大号泣し始めた。彼女はすぐさまシャキッと直立すると、まるで優勝トロフィーでも抱きしめるかのように、愛用のラバーカップを胸にぎゅっと抱きしめた。
「正気じゃないわよ! 一体どこのサイコパスがこんなシステムを作ったの!? 作……、いや、教師のこの私が、なんで便所で悲惨な最末路を迎えなきゃならないのよ!?」
「先生、ドラマは後回しにしてください! みんなが逃げ出してるうちに、早く外へ!」
ラッファが不機嫌そうに言葉を遮った。彼の目は周囲を警戒して動き、その手は再びルカのジャケットを固く掴んでいた。廊下を狂ったように走り抜ける生徒たちの群衆の中で、兄とはぐれないようにするためだ。
「え、ちょっと待って……あの青い傘の男の子はどこ?」
ハスナが突如として辺りを見回し、ヒロの姿を探した。
ルカは反射的に自分の左隣に視線を入れた。――誰もいない。
教室から生徒たちが雪崩のように溢れ出す大混乱の渦中で、さっきまで彼らのすぐ近くに立っていたはずのヒロの姿は、まるで煙のように忽然と消え去っていた。
実を言うと、ほんの数秒前――全員の注意が、ラバーカップを抱きしめてその場に崩れ落ちたハスナ先生に向いたまさにその瞬間、ヒロは最後に一度だけルカの方へと視線を向けていたのだ。
他の生徒たちのようなパニックの表情を浮かべる代わりに、彼の口元はかすかに、薄気味悪く吊り上がっていた。そして彼は、隣のクラスの生徒たちが悲鳴を上げながら走ってくる濁流のような波に、自分の体をわざとぶつけるようにして、ゆっくりと後退していった。
ヒロは群衆に押し流されたわけではなかった。彼はただ、驚くほどの静寂を身にまといながら人間の海を横切り、走り去る制服の波の奥深くへと、意図的にそのシルエットを沈めていったのだ。
喧騒に満ちたわずか3秒間のうちに、彼の姿は完全に視界から消滅した。まるで、誰にも追わせないために、あえて集団の恐慌に自らを同化させたかのように。
それに気づいたラッファは、奥歯を噛み締め、低く唸り声を上げた。
(あのガキ、完全にクロ(怪しい)だ。誰もが必死で校門へ逃げてる時に、消えるなんてあり得ねぇだろ……!)
ラッファの胸の内で、行き場のない怒りが黒く渦巻いた。
「きっと前のやつらの流れに巻き込まれて、先に前へ押し出されたんだよ、兄貴。ゲートがまたロックされる前に、俺たちも早く外へ出よう!」
ラッファはルカの腕を強引に引き、校庭へと向かって雪崩を打つ生徒や教師たちの群衆の波へと飛び込んだ。
ラッファに引っ張られながらも、ルカは一瞬だけ後ろを振り返った。全員が校庭へと避難し、急速に静まり返り始めた一階の廊下の最果て。そこには、人々の流れとは完全に逆方向に向かい、二階の部屋――あの監視コントロールルームへと続く階段をゆっくりと上がっていく一人の薄い影が見えたような気がした。
しかし、それが本当にヒロなのかどうかをルカが確かめるよりも早く、ラッファの強い力に引きずられるようにして、彼はロビーの扉を突き抜け、校庭に降り注ぐ強烈な太陽の光の中へと連れ出されてしまった。




