暴かれる過去と、ある少年の絶望
ゼンラは背後の壁を思い切り殴りつけた。それを見ていたシステムの方が、思わず顔をしかめるほどの勢いだった。
「痛っ……! マジで痛えわ、クソッ」
ゼンラは顔をしかめ, 赤くなって擦りむいた手をブンブンと振った。
【痛いですか?】
「見りゃわかんだろ、お前!?」
【痛そうですね】
「わかってんなら聞くなよ!!」
怒鳴り散らしたゼンラは、苛立ちながら再び腰を下ろした。
「……本当に明日じゃなきゃダメなの? 父さん、母さん」カラが消え入るような声で尋ねる。
「ああ、明日の朝には出発するよ」
「父さんも母さんも、行かないで。明日、何か悪いことが起きるような気がするんだ」
エルが訴えかけるが、母親は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、二人とも。ちょっと行ってくるだけだから。すぐ戻るわ」
「でも……っ」
「ほら、心配しないで。もう遅いから寝なさい。明日は学校でしょ?」
エルとカラは三秒間ほど互いを見つめ合ったが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「……じゃあ、約束して。絶対に帰ってくるって」
ルキは愛おしそうにカラとエルの髪をくしゃくしゃと撫で、笑みを浮かべた。
「ああ、約束するよ。大丈夫だ。お前たちを置いて、どこにも行きやしないさ」
「ウケるわ。このご時世にまだ『約束』なんて言葉を信じてんの? 俺なら約束より現金を信じるね」
ゼンラはルキを冷ややかな目で見つめながら吐き捨てた。もちろん、当の父親は、自分が十八歳の少年に睨まれていることなど気づくはずもないが。
【金がすべてではありませんよ、お荷物さん】
「金がすべてじゃない、か。確かにそうかもな、システム。でもな、金がなきゃすべてがめちゃくちゃになるんだよ。口座残高がすっからかんじゃない奴が言う『金がすべてじゃない』なんて言葉、何の説得力もないわ。キャリアの成長スピードより物価の上昇の方が速い世の中で、そんな綺麗事で俺をガスライティングすんな」
【……悲しい雰囲気が台無しですね。さっきから愚痴ばかりじゃないですか】
その夜、雨は単調なリズムで窓を叩いていた。まるで、家の中へ入る許しを乞うかのように優しく。家の中は静まり返り、疲れ果てたカラとエルは、すでにそれぞれのベッドで深い眠りについていた 。
ルキとフラメスティは、子供たちの部屋のドアの前に立ち、その寝顔を愛おしそうに見つめていた。その深い愛情が、もうすぐ永遠の記憶に変わってしまうことも知らずに。
フラメスティがそっと近づき、エルの乱れた髪を優しく撫でながら、静かに呟いた。
「珍しいわね、今夜のエルはこんなに静かに眠るなんて。普段はよく寝言を言うのに」
ルキは顔にわずかな不安をにじませながらも、小さく微笑んだ。
「きっと、昼間ずっとサッカーをして疲れたんだろう。さあ、母さん、そろそろ出発しよう。夜が更ければ更けるほど、道が滑りやすくなるからな」
二人は物音を立てずに玄関へと向かった。
激しさを増していく雨の中、彼らの古い車がぽつんと停まっていた。ルキがイグニッションキーを回すと、エンジンが静かに唸りを上げた。
真っ白な空間からそれを見ていたゼンラには、その音がまるで『死刑宣告』の響きのように聞こえた。
「お母さんもお父さんも、ちゃんと帰ってくるからね。良い子にしているのよ」
車を閉める直前、フラメスティはまるで虚空に向かって語りかけるように、ぽつりと呟いた。ゼンラは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「行くな……! エンジンをかけるな!!」
しかし、どれほど声を荒らげ、必死に抗おうとも、その声は虚しく、白い空間の静寂に吸い込まれて消えていく。
車は静かに庭から発進した。
ヘッドライトが夜の闇を切り裂き、道路脇の木々を照らし出す。
その影は、まるで彼らを捕らえようと蠢く巨大な手のようだった。
走行を始めてから、わずか十分後。それまで静かだった車内の空気が、突如として一変した――。
ダッシュボードの古いラジオが、突如として奇妙な音を立て始めた。
「ギギギ……ザザッ……」
それは単なる電波障害のノイズではなく、まるで誰かの長い喘ぎ声のようだった。
「母さん、今の音が聞こえたか?」
ルキは眉をひそめ、ラジオのつまみを回して調整しようとしたが、音はさらに高音を帯びて耳を突き刺す。
「どうしたのかしら、あなた? どこかショートでもしているの?」
「俺にもわからない。出発前に点検した時は、何ともなかったんだがな」
「なんだか、嫌な予感がするわ……。さっきのエルの言葉が、どうしても頭から離れなくて」
「大丈夫さ、落ち着いて」
ルキは妻を安心させようと言葉をかけたが、彼自身の胸中もまた、焦りと困惑で満たされていた。
数分間、不気味な音を響かせた後、ラジオは唐突にぷつりと切れた。しかし、それが二人の不安をさらに駆り立てることになる。
ラジオが消えたのと同時に、車のヘッドライトも突如として完全に消灯したのだ。
暗闇に包まれた困惑の中、車が崖沿いの急カーブに差し掛かった、まさにその時だった。
森の闇の奥から、一つの黒い影が飛び出してきた。
動物と言うにはあまりに速く、ただの幻影と言うにはあまりに生々しい。
ルキは息を呑んだ。それを避けるため、本能的にハンドルを右へと大きく切る。
「キキキィィィッ!」
濡れたアスファルトの上で、タイヤが完全にグリップを失った。
車体は激しくスピンし、一八〇度回転しながら、悲鳴のような金属音を立ててガードレールへと激突した。
「ガガガァァァン!」
凄まじい衝撃と共に弾け飛んだ車は、一回転して、道路の脇で完全に横転した状態で静止した。
再び、夜の静寂が辺りを包み込む。
ただ、ベコベコに凹んだ車の屋根を叩く、激しい雨の音だけが虚しく響き渡っていた。
真っ白な空間の中で、ゼンラは凍りついていた。彼はすべてを鮮明に目撃していた。
割れた車の窓から投げ出されたフラメスティの手。その指先は、最期に子供たちの手を握ろうとするかのように、空虚に何かを追い求めていた。
「嘘だろ……彼らが……?」
ゼンラはその記憶の中に足を踏み入れようとした。
しかし、一歩を踏み出した瞬間、白い空間の景色が再び一変した。
今度は温かい食卓でも、あの凄惨な悲劇の道路でもなかった。
警察署の、冷え切った一室だった。
そこには、硬い木製の椅子に座る幼いカラとエルの姿があった。
二人は、警察官から届いたばかりの両親の遺品を確認するために呼び出されていた。
「これ……父さんの時計?」
震える手でカラが呟く。時計の風防には無数のひびが入り、針は事故が発生したまさにその時刻で止まっていた。警察官は重いため息をついた。
その声は、二人の子供の耳にはまるで葬列の鐘の音のように響いた。
「激しい雨の中、崖の上のルートでスピンしたようだ。生存者はいない」
カラの隣に立つ幼いエルは、一言も発しなかった。
ただ、片方だけになってしまった母親の靴を、虚ろな目で見つめていた。
涙は出なかった。ただ、二人を飲み込むような圧倒的な虚無だけがそこにあった。
その瞬間、ゼンラは幼いカラの瞳に変化が生じるのを見た。
哀悼の眼差しは次第に険しさを帯び、世界ではなく、隣にいる弟へと向けられた激しい憎悪の炎へと変わっていく。
彼を『疫病神』と見なすかのように。
「なんで……なんで父さんたちなんだよ!?」
カラが低く声を絞り出し、エルを鋭く睨みつけた。
「なんでお前じゃなくて、父さんたちが死ななきゃいけなかったんだよ、エル!!」
「に、兄ちゃん……僕は……」
「お前が死ねばよかったんだ!!」
カラは激昂し、弟の肩を荒々しく掴んで揺さぶった。
「このガキ……!」
二人を引き離そうと、ゼンラが足を踏み出そうとした。
しかし、またしても動く前に景色が切り替わる。今度は自宅のリビングだった。
そして、次にゼンラが目にした光録は、彼の怒りをさらに沸騰させるものだった。
ルキとフラメスティの墓の土もまだ乾かぬうちに、黒いスーツを着た男たちが差し押さえ命令書を手に押し寄せてきたのだ。
あの温かった我が家は、一瞬にして修羅場へと化した。
「父親の借金は並大抵の額じゃないんでね。今すぐ現金で返せないなら、この家もすべての資産も我が社のものだ」
黒スーツの男が冷酷に言い放つ。当時まだ十五歳だったカラは、顔面を蒼白にして彼らの前に立ちはだかった。
「父さんから、そんな借金の話なんて一度も聞いたことない!」
「残念ながら、サインは本物だ」
男は嘲笑を浮かべ、茶封筒をカラの足元に投げ捨てた。その瞬間、カラの世界は崩壊した。家は差し押さえられ、二人の教育資金のための貯金もすべて底をついた。
残されたのは、警察犬すら住みたがらないような、街外れのボロボロのあばら家だけだった。
唯一残った薄汚れたバッグを抱えてそのあばら家にたどり着いた時、当時十三歳だったエルが、涙を浮かべた目で兄を見上げた。
「兄ちゃん……本当にここに住むの?」
必死に涙を堪えていたカラは、その言葉でついに限界を迎えた。彼はあばら家の腐った壁を、拳から血が流れるほど激しく殴りつけた。
「お前のせいだ!!」
カラは憎しみを込めて、弟の顔を指差した。エルはびくりとして、一歩後退する。
「なんで……なんで僕のせいなの、兄ちゃん?」
「お前さえ生まれなければ、父さんはお前の医療費のために余計な金を稼ぐ必要なんてなかったんだ! お前がいなければ、お前の高い学費のためにあちこちから借金する必要もなかった! お前は足手まといなんだよ! 疫病神だ!」
エルは反論しなかった。ただ静かに、その呪詛の言葉を毒のように己の魂に染み込ませていった。
その日から、あのあばら家は二人の避難所ではなく、カラが憎しみを育て、エルが痛みに耐えながら生きる術を学ぶ監獄へと変わった。
「クソが、誰かがこれを裏で仕組んでやがるな……」
ゼンラは眉間を険しくし、思考を巡らせた。
【まぁ、実際に何が起きたのかは我々には分かりませんからね、お荷物さん。とりあえず先を見ましょう】
「おい、だけどよシステム――」
ゼンラの視界が再び歪み、あのボロボロのあばら家へと戻った。
そこには、十四歳になったエルの姿があった。今よりもずっと痩せ細り、何度も手縫いで補修されて黄ばんだ中学校の制服を着ていた。
両親が悲惨な事故で亡くなり、葬儀の直後に闇金と名乗る男たちに家を奪われてから、すでに一年が経過していた。
お互いに支え合うべき状況の中で、本物の「カラ」は、貧困への怒りをすべてエルにぶつけていた。
「学校では俺に近づくな! 周りにはただの同居人だって言え! お前みたいな小汚い弟がいるなんて、恥ずかしくてたまんねえんだよ!」
カラは叫び、幼いエルを鋭い茨の茂みへと突き飛ばした。
エルは泣かなかった。ただうつむき、破れたバッグを強く握りしめるだけだった。
学校での状況は、さらに最悪だった。
実の兄からさえ存在を否定されたことで、周囲の連中は容赦なくエルをいじめ始めた――。
「やーい、居候の拾われっ子! お前の兄貴すらお前を拒絶してんのに、俺たちが受け入れるわけねえだろ!」
不良少年たちが嘲笑いながら、エルの頭から泥水を浴びせかけた。
「おい、システム! 俺の弟がいじめられてんぞ! 見過ごせるわけねえだろ、あのクソガキどもをぶん殴ってやる!」
【お荷物さん、お荷物さん。何度言えばわかるんですか。あなたがここで何をしようと、過去の事実は何一つ変えられないんですよ】
「だからって、弟がいじめられてんのを黙って見てろってか!? 俺は本物のカラみたいに落ちぶれちゃいねえんだよ!」
【我慢ですよ、お荷物さん。果報は寝て待て、我慢の先には福がある、です】
「何が我慢だ、ふざけんな! 『我慢の先には福がある』なんて大嘘だ。我慢なんてのはな、ただメンタルが崩壊する順番を大人しく待ってるだけなんだよ! こっちが必死に我慢してる間に、我慢の足りない奴らが特急レーンで得してんだろ。アップデートされるべきなのは俺たちの忍耐強さじゃなくて、この狂ったシステムの方だわ!」
【はぁ……。もういいです。あなたときたら、縦・横・高さの体積計算並みに長々と説教ばかりして。ほら、大人しく続きを見てください。もうすぐ終わりますから】
ゼンラは深くため息をつき、再び目の前のスクリーンに意識を集中させた。
「あいつ、疫病神なんだぜ。あいつの兄貴が言ってたんだ。あいつの不運のせいで、父さんも母さんも死んだんだってよ」
生意気な面をしたガキの一人が、小馬鹿にしたように喋り散らす。
「知った風な口叩きやがって、このクソガキが……」
ゼンラは奥歯を噛み締めた。
「マジで? 道理で兄貴に嫌われてるわけだ。自分のせいで親を死なせたんだもんな! ギャハハ、可哀想に! 親なしっ子!」
エルは沈黙を守ったまま、ただ怒りを宿した瞳で少年たちをじっと見つめていた。
「何だよ? 兄貴に言いつけるか? どうせ俺たちが褒められるだけだろ?」
「そうそう。だってあいつの兄貴自身が、あいつを大嫌いなんだからな」
「ギャハハ、ウケる! ほらよ、俺の持ってるアイスティー、お前もうこんなの飲めないだろ?」
一人の少年がアイスティーの入ったカップを差し出したが、それをエルに手渡す代わりに、頭から容赦なくぶちまけた。
「おっと、手が滑っちゃった。勿体ないから舐めとけよ」
「ちぇー、つまんね。こいつただ黙ってるだけじゃん。行こうぜ」
「ああ、シラけるわ。帰ろ帰ろ」少年たちはそう吐き捨てると、エルを一人残してその場から立ち去った。エルはただ、じっと立ち尽くしていた。長い年月、エルは暗闇の中で生きてきた。彼の人生には、一筋の光さえ差し込まなかった。彼にとって「カラ」
という存在は、自分が犯してもいない罪のために自分を憎み、暴力を振るう、本物の『怪物』だった。――しかしある日、その『怪物』が突然変わったのだ。
あの『仮死状態』(バスカラが転生してきた瞬間)の出来事の後。いつも自分を殴り、罵声を浴びせていた兄が、信じられないことに自分を抱きしめてくれた。
それからというもの、拙いながらも毎日美味しいご飯を食べさせようと必死になってくれた。
そして、エルがずっとずっと昔から、誰かに言ってほしかった優しい言葉を、その兄はいつもかけてくれるようになったのだ。
「たくさん食べろよ、エル。早く大きくなるんだぞ」
切ない記憶の断片がそこで途切れ、ゼンラの意識は再びあの真っ白な空間へと引き戻された。




