青い空と、あの日の草むら
「あの夜、ゼンラは生徒会の子供たちの問題ですっかりやつれた顔をして学校から帰ってきた。そのせいで仕事が山積みになり、帰宅が少し遅くなってしまったのだ。本当ならもっと早く終わるはずだったのだが、レオが休みをとっていたため、結局ゼンがそのすべてを一人で引き受けることになった。まあ、彼自身は気にしていなかったものの、さすがにへとへとだった。
ガレージにバイクを停めて、そのまま家に入ろうとしたその時、誰かの声に足が止められた。
「おい、弟よ!」
当時、撮影セッションから帰ってきたばかりのアルビルが声をかけた。家に到着するやいなや、彼は玄関の前で弟を待ち構えていたのだ。
「どうしたの、兄貴?」
「どこ行ってたんだよ?なんでこんな時間に帰ってきたんだ?」
「やっと帰ってきた人間に『もうご飯食べたの?』って聞くどころか、そんな質問攻めにするなんてさ。そんなんで腹が膨らむとでも思ってるわけ?」
ゼンは不機嫌そうに目をむいて兄を睨みつけた。
アルビルはふっと笑うと、そのまま弟の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「頭ぐしゃぐしゃにしないでよ!!ボサボサになっちゃうでしょ!!」
「はいはい、そう怒ってばかりいるなって」
「外でご飯食べようぜ」
「はぁ?じゃあママとパパはどこにいるの?」
ゼンはきょとんとした顔で聞き返した。
「ママとパパは数日間、出張だよ。さあさあ、食べに行こうぜ。兄貴、お前にとっておきのものがあるんだから」
「わかった!でもどこで食べるかは僕が決めからね」
「了解!じゃあ車からマスクと帽子取ってくるわ」
ゼンがうなずくと、アルビルは車の方へ駆け出し、帽子とマスク、そしてサングラスを装着してから再び弟のほうへ戻ってきた。
「まるで指名手配犯みたいだな」
「名前が売れてるから身の安全を確保しなきゃいけないのさ。誰かに気づかれたら面倒だろ」
「だからさ、そんなにイケメンに生まれなきゃいいのに。自分で自分の首絞めてるじゃん。まあいいや、行こっか!僕がこの地区で一番美味しいお店を知ってるんだからさ!!」
ゼンはそう言うと、兄の手を引っ張って自身のバイクの方へ連れて行った。
「ほら、ヘルメットかぶって」
そう言って、ゼンはヘルメットの一つをアルビルに手渡した。
「一体どこに行く気だよ?」
兄はヘルメットをかぶりながら、ゼンの乗るバイク『Vario』の後ろに跨がった。
「うるさいなあ」
「お前、今なんて言った?誰がそんな言葉遣いを教えたんだ、あぁ!?!」
「誰も教えてないよ」
「嘘つけ、絶対お前の友達連中だろ!兄貴の可愛い弟をこんな風に変えちまって……」
「ストップ、兄貴。聞いてるこっちが鳥肌立つからやめてよ」
「兄貴と話すときは『エロ・ゲール』(二人称の俗語)なんて使うなって言ってるだろ。昔から教えてるだろ、『兄貴』と『ゼン』って呼べって」
ゼンラはやれやれとばかりに目を白黒させた。
「はいはい、小言の多いこと。早くしてよ、もうお腹ペコペコなんだから」
「ふん」
アルビルは後部座席にどっかりと座った。
どうやらゼンラがアルビルを連れてきたのは、屋台の並ぶ露店だった。バイクを道端に停めると、二人の若者はさっそく路肩に敷かれたむしろの上に腰を下ろした。
「本当にここで食べるのか、弟よ?」
アルビルは信じられないといった様子で尋ねた。
「なに?気に入らないわけ?」
「そういうわけじゃないけどさ……衛生的にどうなんだって心配で」
「兄貴さ、食べ物をいつもパッケージでしか判断してないでしょ?衛生面なんて問題ないってば。ここ、僕が夜中にお腹空いたときによく来るお気に入りなんだから。普段から五つ星レストランばっかり行ってっからそんなこと言うんだよ」
「そういう意味じゃないって。ほら見ろよ、あんなに煙がモクモクしてるし、お前マスクもしてないだろ。せめてつけろよ、ちょうど二枚持ってるからさ」
「大げさだって、兄貴。こんな煙じゃ死なないし、それにめちゃくちゃいい匂いがするじゃん」
「本当に美味しいのかよ?」
「もう、兄貴ったら!味は100%保証するって!!!ゼンを信じなよ。ねえ、高級料理と庶民のB級グルメの壁って、まるで『宗教の違う恋愛』みたいだと思わない?」
「はぁ?宗教の違い?」
ゼンラはこくりとうなずいた。
「そうだよ、兄貴。今の時代の恋愛なんて、まるで特攻ミッションみたいなもんさ。宗教が違うってわかってるのに、『もしかしたら相手が改宗してくれるかも』とか『いつか道が開けるかも』なんて理由で続けちゃうんだからさ。それってポジティブじゃなくて、ただの妄想だからね!自分を少しずつ痛めつけてるだけなんだよ。例えるなら、アプリにログインしようとしたのにサーバーが違うようなもんさ。どんなに無理やり接続しようとしても、絶対にマッチしないんだよね。結局最後は、井戸端で泣きながら語り継がれる苦い思い出になるのがオチなのさ」
アルビルは数秒間押し黙っていたが、やがて噴き出すように笑い出した。
「おやまあ、弟よ。誰がそんなこと教えたんだ、ん?まるで恋愛の何たるかをわかってるみたいじゃないか」
「本当にもう知ってるも──」
「誰に教わったんだ、あぁ!?!」
ゼンラは思わず生唾をごくりと飲み込んだ。どうやら兄の過保護スイッチが入ってしまったらしい。
「それは……」
「お待たせしました、ご注文の品です。どうぞ召し上がってください」
女性の店員が、ゼンとアルの注文した料理をテーブルに並べた。
(『お姉さん、ありがとう!!!あなたは僕の救世主だ!!!』)
心の中で、ゼンラは神に感謝した。
「あ、はい、お姉さんありがとうございます!」
「どういたしまして」
店員はそのまま奥へと引っ込んでいった。
「ほら、料理来たよ、兄貴。まずは食べようよ、お腹空いた」
「だが、まだ兄貴の質問に答えてないぞ」
「あとで、あとで。食べてからにするからさ」
ゼンラは目の前の皿を、スプーンとフォークをティッシュで拭き続けているアルビルの方へとそっと押しやった。ちょっと待て、相手はただのナシゴレン(インドネシア風チャーハン)だぞ?なんでわざわざフォークを使う必要があるんだ?しかも、なんでわざわざ拭く必要があるんだよ。
「これ、毒とか入ってないよな?あるいは睡眠薬とかさ……」
「疑い深すぎでしょ、人間として。食べてみなきゃわからないでしょ。どうしても信じられないなら、ゼンが先に食べてみ――」
「ダメだ!!兄貴が食べるんだ。もしお前がおかしくなったら兄貴が狂っちまうだろ。思い出せよ、ゼン。もしこれを食って兄貴が死んだら、ちゃんと自分で生きていけよ。まだお前に遺言書いてないんだからな」
(『ただ飯食うだけで、まるで人生の終わりみたいだな。大げさすぎだろ、この人』)
心の中でゼンラは呆れ返った。
「頼むから死にませんように、死にませんように……」
アルビルはブツブツとつぶやきながら、自分の皿からナシゴレンをスプーン一杯すくい上げ、恐る恐る、そーっと口の中へと運んだ。
「どう、兄貴?」
「…………」
「兄貴?」
「………」
「まさか、取り憑かれた――」
「これ、めちゃくちゃ美味いぞゼン!!!!マジで!!!!この料理、マジで美味いんだけどオイ!!!!」
アルビルは一口噛みしめると、突然立ち上がって意味不明な大声を上げた。そのせいで周りにいた客が一斉にこちらを振り返り、二人の若者は一躍注目の的となった。
ゼンラはたまらずカバンで顔を覆った。人生でこれほど恥ずかしかったことはない。
(『生まれて初めて他人のフリをしたくなったわ……』)
「お前も食えよ、弟よ。これマジで美味いからさ」
アルビルは全く恥ずかしがる様子もなく、何食わぬ顔で席に座り直すと、再び食べ進めた。
「落ち着きなってば、兄貴。外食なんて嫌いじゃなかったっけ?」
ゼンラは自分のご飯を頬張りながらツッコんだ。
「こんな風に外で食べるのは生まれて初めてなんだよ、弟よ。いつもママに言われて、野菜たっぷりの健康食ばかりだったからさ」
ゼンラはなるほどと頷きながら、もぐもぐと咀嚼を続けた。
「お前、ここでよく食べるのか?」
「うん、夜お腹空いたときによく来るよ」
と、ゼンラは嘘をついた。本当は、家には自分分の食事が残っていないからいつもここに来ているだけなのだが。
「そっか。だからよくここに来るのかと思ってたよ」
アルビルはそう言いながら食事を続けた。
しばらくして、二人の兄弟は食べ終えたが、もう少しそこに座っていくことにした。
「ほら、お前これ好きだろ、チョコレートミルク」
アルビルはパック入りの飲み物を弟に差し出した。
「珍しいね。でも、ありがと、兄貴」
「『ありがとう』じゃなくて『珍しい』かよ」
「いいじゃん。普段と違って外になんか誘い出してさ、兄貴、なんか話したいことがあるんでしょ?」
アルビルはぴたりと動きを止めると、弟の頭を優しくなでた。
「お前は本当に霊感でもあんのかよ……兄貴が話したいことあるってすぐわかるんだからな」
「早く言ってよ、何が言いたいのさ」
アルビルは大きくため息をついて、うつむいた。
「だな、弟よ……兄貴を許してくれ。ママやパパの前でいい顔するのに夢中で、あの家でお前を守ってやるべきだったのに、それを忘れちまってた」
アルビルの声はかすれていた。弟の目を見る勇気すらなかった。
ゼンラは黙ったまま、ストローを乱暴にチョコレートミルクのパックに突き刺した。
「謝らないでよ、兄貴。そもそも僕が『影』として生きる運命だったんでしょ?兄貴は兄貴、僕は僕だよ」
「いや違う。いつか、兄貴がお前をあの家から連れ出してやるからな。小さな小屋でも建てようぜ、何でもいい。マスクもカメラもない場所へ行くんだ。二人きりでな。約束するよ、な?」
ゼンラは思わず鼻で笑ったが、それでもこっそりと自分の小指をアルビルの小指に絡ませた。
「約束。でも、ご飯代は兄貴持ちだからね。僕はもう寝るだけなんだから」
アルビルはかすかに笑ったが、その目はうっすらと潤んでいた。本当は、この話を切り出すのにどれだけの勇気が必要だったことか。しかし、ようやく伝えることができたのだ。
「なぁ、弟よ……昔、俺たちがこんな風にしてたの、まだ覚えてるか?」
アルビルは目頭の涙をそっと拭った。
「昔?いつのこと?」
「まさか忘れちまったのかよ」
ゼンラは首をかしげ、懸命に記憶をたぐり寄せた。
「えーと……いや、全然覚えてないや」
アルビルの顔がみるみるうちに不満げに曇った。まさか弟がここまで物忘れが激しいとは思っていなかったらしい。
「もう一度よく思い出してみろよ、弟よ」
「いつだよ?」
ゼンラがさらに記憶を呼び起こそうとしたその時、ふっと一つの光景が脳裏に蘇った。
「あ!わかったよゼン、あのときでしょ!」
アルビルはこくりとうなずいた。
「そう、あの時の――」
(ゼンラとアルビルの約束)
あの日の夕方、ダニンドラ家の豪邸の裏庭は、子どもたちの甲高い笑い声に包まれていた。広々とした芝生で楽しそうに駆け回る二人の姿があった。
当時五歳だったゼンラは、短い足を精一杯動かし、星模様のプラスチックボールを追いかけていた。ボールがあちこちに不規則に跳ねるのを、小さな足で必死に追いかけている。
「兄貴!キャッチして、アル兄!」
真っ赤な顔をした幼いゼンラが、太陽の暑さも忘れて声を張り上げた。
当時九歳だったアルビルは、しっかりと身構えて待ち構えていた。顔立ちはまだあどけなかったが、体つきはすでにしっかりとしはじめていた。軽やかな身のこなしで、ボールを足元できれいにピタリと止める。
「ゼン、集中しろって!ボールをよく見ろよ、ビビおばさんが持ってるアイスクリームばっかり見てちゃダメだぞ!」
アルビルは笑いながら、優しくボールを弟のほうへ蹴り返した。
ゼンラは目を細めて嬉しそうに笑った。
「この後、川に遊びに行こうよ、兄貴!ゼンの髪の色みたいな、青い石を探したいの!」
幼い滑舌で話す弟の声が、夕暮れの庭に響いていた。
アルビルは微笑むと、弟の方へ歩み寄り、ゼンのほどけた靴紐を結んでやるためにその場にしゃがみ込んだ。
「兄貴の髪は黒だぞ、ゼン。青っていうのは、ただの名前にすぎないんだよ」
「でもママが言ってたもん。兄貴は空みたいな人だって。遠くて、綺麗で、高いところにあるんだって」
無邪気にそう呟くゼンラ。それは普段、父親の書斎から聞こえてくる言葉をそのまま真似したものだった。
アルビルの手がピタリと止まった。その瞳がほんの一瞬だけ暗く曇ったが、すぐに表情を戻すと、立ち上がってゼンの鼻を愛おしそうにつまんだ。
「じゃあさ、もし兄貴が『空』になったら、お前は何になる?」
ゼンラはボールをぎゅっと抱きしめながら、一生懸命に考え込んだ。
「ゼンは『草』になる!」
「なんで草なんだよ?草なんてみんなに踏まれるだけだぞ、弟よ」
「だってみんながいたら兄貴が一人ぼっちになっちゃうでしょ!空は下を見下ろしたときに見えるのは草だけなんだよ。だから、もし兄貴が空で疲れちゃったら、下りてきてゼンのところで休めばいいでしょ。最高でしょ?」
アルビルはその場に凍りついた。九歳にしてすでに過酷な追加レッスンや父親からの重すぎるプレッシャーに押しつぶされそうになっていた彼は、弟のあまりに無邪気な答えを聞いて、胸が熱さで締め付けられるような感覚に襲われた。
アルビルはたまらず、ゼンラを力いっぱい抱きしめた。苦しがって弟が小さく抗議するまで、ずっと離さなかった。
「約束だぞ、ゼン?絶対に遠くに行くなよ。上空で一人ぼっちになったとき、下にいお前がいなかったら耐えられないからな」
まるで祈るようなその小さな囁きは、アルビルの切実な願いだった。
しかし、ゼンラが返事をするより早く、二階のバルコニーから冷え切ったヴィナの声が響き渡った。
「アルビル!今すぐ中に入りなさい。ヴァイオリンの家庭教師がもういらっしゃってるわよ。くだらない遊びで時間を無駄にんじゃない!」
その瞬間、庭に満ちていた笑い声がパッと消え失せた。
二人の子供たちはしばらくの間、その場に固まったまま動けなかった。
アルビルは立ち上がり、芝生で汚れた服を軽く手ではたいた。そして、申し訳なさに満ちた瞳でゼンラをじっと見つめた。
「兄貴、ちょっと中に入ってくるな、ゼン。ボールは……また明日使おうな」
「うん、がんばってね、兄貴!!」
ゼンラは小さな手を精一杯振って、笑顔を作ってみせた。
アルビルはそれに微笑み返すと、足早に大きな家の中へと入っていった。家の中は、外の温もりとは対照的に、ますます冷え切っていくように感じられた。
あのときアルビルが約束した「明日」が、まさかこれほどまでに芝居と涙にまみれた「明日」になるとは、幼い彼らはまだ知る由もなかったのだ。」




