トネリコの木4
うわぁああ!
どさっと、夜の青草の上に落ちた。
こつん、と何かが頭に当たる。拾い上げると、見るだけで気分が盛り下がる堅パンだった。
パンって、これかぁ。
目の前には、庭のトネリコとそっくりな木が生えている。
けれど風が吹くと、辺り一帯から葉擦れの音がし、夜の生きものたちの鳴き声や羽ばたき、草をかき分ける音が聞こえてくる。
時間も、音も、匂いも――
一瞬前とはまるで違った。
なんてことを!
メルトはトネリコの幹をどんどん叩いたが、返事は返ってこなかった。
諦めて、木の根元でルルを抱きしめ、朝を待った。
*
日が昇ったからといって、どこへ向かえばいいのかわからない。
フルドラが善良だったとしたら、僕はワイズマンのいる森に来ているのだろう。
でも――
どのあたりで、どんな家に住んで、どんな顔をしているの?
こんな状態で放り出されて、到底感謝なんてできない。
腹いせに、石で幹に自分の名前を刻んだ。
どうだ、痛いだろう。僕のことを忘れるなよ。
いつまでも開かない入口の前にいても仕方がないので、進むことにした。
どちらに行くかはルルに任せた。
どちらにしようかな、猫様の言う通り。
終わってる(涙)
最初は怒りもあって、どんどん歩いていけた。
けれど、だんだん疲労がたまっていった。
堅パンは確かに食べても減らない。
ただ、元気が出る味とは言えなくて、喉も渇くし、そのうち食べなくなった。
食べても減らないって、そういう意味だったのかも。
三日目の朝を迎えて――
「ルル、ごめん。僕、もうダメかも。」
手をかけた木にずるずるともたれかかり、蹲った。
聖獣だったら、どんな森でも生きられるのかな。
そんなことを思いながら、目を閉じた。
「この小人は吾の僕僮とする。」
「いいえ、あなたは以前も私の僕僮を奪ったわ。今度こそ私のものよ。」
「それはチテー、私という夫がありながら少年を僕僮にしたお前が悪い。」
「あらオビロ、あなたが私の目を盗んで、日がな一日誰かさんに恋歌を歌っていたことを、私が知らなかったとでも思っているの?」
遠くで水面が揺れるような、騒がしい声がした。
メルトは虚ろに目を開けた。
王冠をかぶり、背に透明な羽を持つ男女の妖精が口喧嘩をしていて、その周りには大小さまざまな妖精が侍っていた。
夢かな?
ルルが、飛び回る小妖精を捕まえようと跳ねている。
「あら、目が覚めたのね。」
妖精の女王が言った。
「助けてくれてありがとうございます。
僕、ワイズマンに会いたいんだけど、
どこに行けば会えるか知っていませんか?」
ぼんやりした頭で言うと、女王は屈んでメルトの頬に手を添え、瞳を覗き込んだ。
「そんなの、どうだっていいじゃない。
ここで私と楽しいことをして過ごしましょ?
美しいものに囲まれて、美味しいものを食べて、
ただ楽しく暮らすの。素敵でしょ?」
「でも……。」
女王の瞳が、川の水面のようにゆらゆらと揺れて、吸い込まれそう。
「それって、あなたが本当に望んでいること?
胸に手を当てて、よく考えてみて。
ね、どうだっていいじゃない?」
「どうだって……いい?」
「そう。この世のすべてのことは、どうだっていいことだわ。」
確かに。
僕はなんでこんな目に遭っているんだろう。
「うん。どうだっていい。」
女王はメルトの言葉を微笑みながら肯定し、得意げに妖精王へ振り返った。
*
ケシ、アネモネ、ブルーベル、鈴蘭。
野原には色とりどりの花が咲いている。
その花々の間で、花冠を作ったり、風車を作ったり、追いかけっこをしたりした。
時折野原を渡る風は心地よく、眠たいときに寝て、起きたいときに起きた。
陽射しが強くなると四阿で昼寝し、夜は月下の花畑で小妖精の舞を見る。
羽から零れる鱗粉が月光に照らされてキラキラと輝き、まるで天川を泳ぐ星の精のようだった。
飽きることなく星空を見上げていると、天川は西へ流れ、やがて東の空が茜色に染まり、振り返ると下弦の月が白く見えた。
喉が渇くと葉末の露を集めたものを飲み、お腹が空くと杏子や木苺、桑の実をもらって食べた。
食べるたびに心が凪ぎ、野を渡る風と同化するような気がした。
ルルは食べるごとに大きくなった。
ルルとメルトは、母猫と子猫のように寄り添って眠った。
*
公爵邸
メルトがいないことには、すぐに気づいた。
そして、まるで導かれるようにトネリコの木へ辿り着いた。
公爵は、相手が精霊である可能性を考え、高名な民間宗教者を呼んで祈りを捧げることにした。
人が森から離れて暮らすようになって久しく、森の不思議な存在と直接かかわることは稀になった。
その結果、人々は森の生き物について詳しいことを忘れ、ただ“妖しいもの”として恐れるようになり、
知識は宗教者の間だけで細く伝承されるようになった。
宗教者のうち、教会組織に属する者を祭司、属さない民間宗教者を賢者と呼ぶ。
その賢者の中でも、人知を越えた風格を持つ老賢者がやってきた。
老賢者はトネリコの前に小さな祭壇を作り、毎日、パン、肉、魚、野菜、果物、酒、水を供え、祈りを捧げた。
すると、トネリコの葉が風もないのにざわりと揺れた。
フルドラは、気が向いたときだけ、供え物の中からひょいと摘まんで食べた。
その度に、木の影がわずかに濃くなり、公爵邸の空気が森の匂いを帯びていく。
*
ある夜、メルトが花畑で寝落ちしていると、妖精王配下のパックがそっと起こした。
「しー、静かに。」
パックが人差し指を唇に当て、小声で言う。
「王様がご機嫌斜めでね。この薬を女王様に使えって言うんだよ。」
化粧品の容器のような、可愛い形の薬瓶を見せた。
パックは得意げに説明した。
閉じた瞼に塗ると、目を開けて最初に見た者に恋をするのだという。
この薬を手に入れるのがどれほど大変だったか、滔々と語った。
原材料は、キューピッドの撃ち損じの矢でピンクに染まった白いカトレアの花弁。
再現不能だ。
「だから、女王様が目を開けたときに目に映らないように、お前はあっちに行っていろ。」
しっし、と追い払う仕草をした。
パックは、クチナシの花を敷き詰めて寝ている女王にそっと近づき、惚れ薬を1滴ずつ瞼に垂らした。
メルトは四阿へ行き、もう一度目を閉じた。
夢の中で夢だとわかる夢を見ているのだと思った。
*
「うわぁ、助けてくれ!」
翌朝、男の叫び声が野原に響き、メルトは目を覚ました。
四阿から出てキョロキョロすると、王様とパックが木の陰に隠れて野原を窺っていた。
王様はメルトに気づくと手招きし、
「見てみろ。あの高慢ちきな女王が、あんな髭豚老人に愛の言葉を吐いているぞ。」
と笑って野原を指さした。
言われた方を見ると、背中に大きな篭を担いだ小人が女王に抱きつかれ、ジタバタともがいていた。
とうとう転んで、篭の中に山と入っていた黒いものがザザッと散らばった。
小人は可哀想なくらい慌てている。
妖精は悪戯好きだ。
妖精たちはそれを見て大笑いした。
メルトも一緒に笑った。
髭の小人はその後も何度も逃亡を試みたが、そのたびに捕まった。
女王の手の内を逃れても、草木が手のように伸びて絡め取った。
やがて、逃げ出すことをしなくなった。
メルトは相変わらず、ぽやんとしている。
髭の小人が言った。
「なんで俺はこんなことになっちまったんだ。早く帰らないといけないっていうのに。」
メルトは教えてあげた。
「王様の悪戯で、女王様の目に惚れ薬が塗られているんだよ。」
小人はくだらない理由に打ちひしがれ、地面を何度も叩いた。
「お前はなんでこんなところにいるんだよ。
なんで逃げないんだよ?」
「なんで?ここは嫌なことも苦しいこともない、いい所だよ。」
「馬鹿だなお前は。
草ばっか食ってるあいつらが、なんで不老なんだと思う?」
「草以外にも、蜂蜜とか木の実も食べてるよ。」
「そういうこと言ってんじゃないんだよ。
あいつらは魂を喰らうんだよ。俺やお前の!」
「え?……でも、生あるものはいつか死ぬものだから。」
花畑の中で、凪いだ心のうちに苦痛もなく終われるなら、それはそれで幸せなのではないだろうか。
「……お前、若いのに終わってんな。」
黄泉戸喫と夏の夜の夢のパロディです。




