トネリコの木4
うわぁああ!
どさっと、夜の青草の上に落ちた。こつんと何かが頭に当たって拾い上げてみると、見るだけで気分が盛り下がる堅パンだった。パンってこれかぁ。
目の前に庭のトネリコとそっくりな木が生えている。しかし、風が吹くと辺り一帯から葉擦れの音がし、夜の生きものたちの鳴き声や羽ばたき、草をかき分けて歩く音が聞こえてくる。時間も音も匂いも一瞬前とはまるで違った。なんてことを!メルトはトネリコの幹をどんどんと叩いたが、返事は返ってこなかった。
諦めて、木の根元でルルを抱いて朝を待った。
日が昇ったからといって、どこへ向かえばいいのかわからない。フルドラが善良だったとしたら、僕はワイズマンのいる森に来ているのだろう。でも、どのあたりでどんな家に住んで、どんな顔をしているの?こんな状態で放りだされて、到底感謝なんてできない。腹いせに石で幹に僕の名前を刻んでやった。どうだ痛いだろう、僕のことを忘れるなよ。
いつまでも開かない入口の前にいても仕方がないので進ことにした。どちらに行くかはルルに任せた。どちらにしようかな、猫様の言う通り。終わってる(涙)
最初は、怒りもあってどんどん歩いて行けたけど、だんだんと疲労がたまっていった。堅パンは確かに食べても減らない。ただ元気がでる味とは言えなくて、喉もかわくし、そのうち食べなくなった。食べても減らないってそういう意味だったのかも。
三日目の朝を迎えて、「ルル、ごめん。僕、もうダメかも。」手をかけた木にずるずるともたれかかって蹲った。聖獣だったら、どんな森でも生きられるのかな。そんなことを思いながら目を閉じた。
「この小人は吾の僕僮とする。」
「いいえ、あなたは以前も私の僕僮を奪ったわ。今度こそ私のものよ。」
「それはチテー、私という夫がありながら少年を僕僮にしたお前が悪い。」
「あらオビロ、あなたが私の目を盗んで、日がな一日誰かさんに恋歌を歌っていたことを私が知らなかったとでも思っているの?」
騒がしい声にメルトは虚ろに目を覚ます。王冠を被って背中に透明な羽のある男女の妖精が口喧嘩をしており、その周りに大小様々な妖精が侍っていた。夢かな?ルルが飛んでいる小妖精を捕まえようと飛び跳ねている。
「あら、目が覚めたのね。」妖精の女王が言った。
「助けてくれてありがとうございます。
僕、ワイズマンに会いたいんだけど、どこに行けば会えるか知っていませんか?」ぼんやりした頭で言った。
女王は屈んでメルトの頬に手を添えて瞳を覗き込んだ。
「そんなのどうだっていいじゃない。ここで私と楽しいことをして過ごしましょ?美しいものに囲まれて、美味しいものを食べて、ただ楽しく暮らすの。素敵でしょ?」
「でも・・・。」
女王の瞳は川の水面のようにゆらゆらと揺れて、吸い込まれそう。
「それってあなたが本当に望んでること?胸に手を当ててよく考えてみて?
ね、どうだっていいじゃない?」
「どうだっていい?」
「そう、この世の全てのことはどうだっていいことだわ。」
確かに。僕はなんでこんな目に遭っているんだろう。
「うん。どうだっていい。」
女王はメルトの言葉を微笑みながら肯定し、その後振り返って得意げに妖精王を見た。
ケシ、アネモネ、ブルーベル、鈴蘭と野原には色とりどりの花が咲いている。その花々の間で、花冠を作ったり、風車を作ったり、追いかけっこをしたりする。時折野原を渡る風は心地よく、眠たいときに寝て、起きたいとき起きた。陽射しが強くなると四阿で昼寝し、夜は月下の花畑で小妖精の舞を見る。羽から零れる鱗粉が月光に照らされキラキラと輝き、まるで天川を泳ぐ星の精のようだ。飽きることなく星空を見上げていると、天川は西へ流れ、やがて東の空が茜色に染まり、振り返ると下弦の月が白く見えた。
喉が渇くと葉末の露を集めたものを飲み、お腹が空くと杏子や木苺、桑の実なんかを貰って食べた。食べるごとに心が凪ぐような、野を渡る風と同化するような気がした。
ルルは食べるごとに大きくなった。
ルルとメルトで母猫と子猫のようになって一緒に眠った。
公爵邸
公爵家はメルトがいないことに間もなく気づいた。そしてトネリコの木にも辿り着いた。公爵は、相手が精霊なので高名な民間宗教者を呼んで祈りを捧げることにした。
人が森から離れて住むようになってから大分経ち、森の不思議な存在と直接かかわることは稀になった。その結果、人々は森の不思議な生き物について詳しいことを忘れ、妖しいものと恐れるようになり、知識は宗教者の間で伝承されるばかりとなった。宗教者のうち教会組織に属するものを祭司、属さない民間宗教者を賢者と呼んでいる。
人知を越えていそうな風格の老賢者がやってきて、トネリコの木の前に祭壇を作り、毎日、パンに肉魚、野菜や果物、酒や水を供えてフルドラに祈った。フルドラは時々気が向いたものを摘まんで食べた。
野原
ある夜、メルトが花畑で寝落ちしていると、妖精王配下のパックがメルトを起こした。
「しー、静かに。」パックが人差し指を唇に添えて小声で言った。
「王様がご機嫌斜めで、この薬を女王様に使うように言うんだよ。」と言って、化粧品の容器のような可愛い形の薬瓶を見せた。パックは、この液薬の効能を、閉じた瞼に塗ると、目を開けて最初に見た者に恋をするのだと得意げに説明し、この薬を手に入れるのがどれだけ大変だったかを滔々と語った。原材料は白いカトレアで、キューピッドの撃ち損じの矢が当たってピンクになった花弁を使うのだそうだ。再現不能だと思う。
「だから、女王様が目を開けたときに目に映らないように、お前はあっちに行っていろ。」しっし、と追い払う仕草をした。
パックはクチナシの花を敷き詰めて寝ている女王にそっと近づき、惚れ薬を1滴ずつ瞼に垂らす。
メルトは四阿に行ってもう一度目を閉じた。夢の中で夢だとわかる夢を見ているのだと思った。
「うわぁ、助けてくれ!」
翌朝、男の叫び声が野原に響き、メルトは目を覚ました。四阿から出てキョロキョロすると、王様とパックが木の陰に隠れて野原の様子を窺っていた。
王様はメルトに気づくと手招きをして、「見てみろ、あの高慢ちきな女王が、あんな髭豚老人に愛の言葉を吐いているぞ。」と笑って野原の方を指さした。
言われた方を見ると、背中に大きな篭を担いだ小人が女王に抱きつかれ、ジタバタと逃げようともがいていた。とうとう転んで、篭の中に山と入っていた黒いものがザザッと散らばった。小人は可愛そうなくらい慌てている。
妖精は悪戯好きだ。妖精たちはそれを見て大笑いした。メルトも一緒に笑った。
髭の小人はその後何度も逃亡を試み、その度に捕まった。女王の手の内を逃れても、草木が手のように伸びて絡めとられた。やがて逃げ出すことをしなくなった。
メルトは相変わらず、ぽやんとしている。
髭の小人が言った。「なんで俺はこんなことになっちまったんだ。早く帰らないといけないっていうのに。」
メルトは教えてあげた。「王様の悪戯で、女王様の目に惚れ薬が塗られているんだよ。」
小人は、くだらない理由に打ちひしがれて、地面を何度も叩いた。
「お前はなんでこんなところにいるんだよ。なんで逃げないんだよ?」
「なんで?ここは嫌なことも苦しいこともない、いい所だよ。」
「馬鹿だなお前は。草ばっか食ってるあいつらがなんで不老なんだと思う?」
「草以外にも、蜂蜜とか木の実も食べてるよ。」
「そういうこと言ってんじゃないんだよ。あいつらは魂を喰らうんだよ。俺やお前の!」
「え?・・・・・・でも、生あるものはいつか死ぬのだから」花畑の中で、凪いだ心のうちに苦痛もなく終われるなら、それはそれで幸せなのではないだろうか。
「・・・お前、若いのに終わってんな。」
黄泉戸喫と夏の夜の夢のパロディです。