時の花嫁と滅びの竜13
王太子の結婚式と戴冠式は奉献祭の前日に、メレオロイデス教会の北の丘で行われる。
メルトは会場視察の仕事のため、三日前に教会入りをした。
北の丘に登った。
北の丘は教会を囲む丘の中でいちばん高く、周囲の景色を一望できた。
以前ローズに連れてきてもらったときは膝丈ほどの草が生い茂っていたが、 今は踝ほどに短く刈られている。立ち入り禁止区域になっていて、柵囲いも取り払われていた。
頂の中心には灰白色の大きな石が据えられていた。
腰の高さほどの柱で、表面は風に削られたように角が取れている。
何も考えずに手を掛けた。
その瞬間、石を中心に風が生まれた。
足元から渦を巻いて立ち昇り、銀の髪も衣の裾も、刈草もろとも巻き上げていく。
メルトは思わず目を閉じた。
次の瞬間、風はすべてをさらって、一気に天へと駆け上がった。
恐る恐る目を開ける。
そこには、何事もなかったかのように、青い空だけが広がっていた。
「……一体、なんだったんだろ」
風はもう穏やかで、メルトの髪をそっと揺らしている。
「こーら、ダーリン。その石に軽々しく触らない!」
振り返ると、ローズが立っていた。
「ダメだった?」
「これは聖なる石よ。言うなれば、大地の女神を呼び降ろすための道具なの。
依り代となる者がこの石に触れることで、女神がその身に降りてくる。
今回の依り代はマリア様だけど、戴冠式では、女神に伴侶として選ばれた者だけが王になれる――そういう仕組みになっているのよ。」
「本当に降りてくるの?」
この世界には妖精も、湖の女神もいる。大地の女神だけが依り代を必要とする理由がわからない。
大きすぎるからだろうか。
「まさか。降りてこなかったら赤っ恥じゃないの。」
ローズは肩をすくめた。
「依り代に女神の役を演じてもらうのよ。
なりきり女神様が新王に尋ねるの。“そなたは我が大地を守るか”ってね。
新王が‟守る“と答えたら、女神から祝福の口づけをする。
そういう作法になっているの。」
なるほど。大地の女神はいないのか。
メルトは、しばらく遠くの景色を見詰めた。
風は寄り添うように優しく髪や頬を撫でた。
空はよく晴れていて、眼下に湖が見えるし、教会も見える。
その先の家々や畑も見渡せた。大地はどこまでも広がっていた。
「ねぇ、ローズ。僕は戴冠式で、姉さまを連れ去ることにした。」
遠くを見つめたまま、メルトは言った。
「はぁ!?何言っているの。
そんなことをしたら、国中を敵に回すことになるのよ。」
ローズの目をまっすぐ見つめて、かすかに笑った。
「だから、君とはここでお別れだ。」
「どうしてそうなるの? あなたがマリア様を好きなのは知ってる。
でも、それは姉としてよ。ほとんど洗脳されただけ。
それなのに、そこまでする必要がある?」
ローズの声には苛立ちが混じっていた。
「……」
答えないメルトに必死に訴える。
「あなたはお姉さまから自由になるべきよ。
何もかもが嫌になったのなら、マリア様じゃなくて、私と一緒にどこかへ行きましょう。
私、あなたとだったらどこへでも行けるわ。ね?」
「いつか、姉さまが僕に、連れて逃げてって言ったんだ。
だから、ごめん。」
ローズは一瞬言葉を失い、低く震える声で言った。
「ダーリンを通報することもできるのよ。」
「したければして。そうすれば、君は僕との関係を疑われずに、安全でいられるもの。
今まで助けてくれてありがとう。
それなのに、何も返せなくて……ごめん。」
ローズの目から涙がこぼれた。
メルトはその涙に手を伸ばしかけて、止めた。
そして背を向け、足早に立ち去った。
ローズはメルトの背に向けて手を伸ばした。
指先は空を掴むだけで、届かない。
「……本当に、行っちゃうんだ」
返事はなかった。
★
儀式当日
メルトはマリアの支度部屋を訪れた。教会の応接室が、そのまま支度のための部屋に変えられている。
トントントン。「メルトです。」
内側から侍女が扉を開けた。
象牙色の壁。 窓辺には薄いレースのカーテンがかかり、朝の光が室内を淡く照らしていた。
中央には、白木に金の象嵌を施した背の高い長丸の鏡。
その前にマリアが座り、 侍女のメアリが髪を整えている。その他にも数人の侍女が、衣装の皺を見たり、宝飾の箱を開けたり、 静かな手つきで支度を進めていた。
近くのソファには、公爵夫人が腰掛けていた。
夫人の前の小卓には、薄くスライスされたレモンピールが銀の皿に並び、夫人付きの侍女が温めた茶器の具合を確かめながら控えている。
メルトが部屋に入ると、 夫人は満ち足りた笑みを浮かべて声をかけた。
「あら、お久しぶりね。
……見てごらんなさい。あなたのお姉さまは、ようやく我が家門の誇りになれましたの。
あなたも嬉しく思ってくれるでしょう?」
マリアがわずかに顔をしかめた。
「えぇ。おめでとうございます、公爵夫人。」
夫人は従順なメルトに、誇らしげな笑みを返した。
「うわぁ……姉さま、綺麗。」
メルトはマリアの側へ歩み寄る。
鏡の中には、白いドレスのマリアと、濃紺の軍礼服のメルトが並んで映った。
「……ありがとう。」
それだけ言うと、マリアは鏡から目をそらした。
思い出したように、マリアが手を伸ばす。
「これ……あなたにあげるわ。」
マリアが差し出した掌には、アクアマリンの一粒ピアスが載っていた。
二人で分け合った、片側のピアス。
「まだ、外さないで。」
メルトは言った。
マリアがメルトを見上げる。
「僕が姉さまを守るよ。」
メルトはピアスを手に取り、にっこり笑った。
顔を寄せて、白い耳にピアスを戻す。ラムネの瓶のような石が耳元で光った。
鏡の中で、二人の顔が並ぶ。
「……うん。やっぱり姉さまにはこれが似合うよ。」
夏の空の遠くの方、川の水の飛沫、暑い日に二人で食べた夏氷の色。メルトの色。
マリアは唇を噛みしめた。
「……ありがとう」
二人の雰囲気に、侍女たちがわずかに色めき立った。
夫人が鋭く声を上げた。
「ちょっと、メルティ。いくらあなたでも近すぎるのではなくて?」
メルトは、ぱっと距離を取って、反省の態度を示した。
「申し訳ありません。姉さまがあまりに美しかったものですから、つい。」
夫人は満足げに頷いた。
「ええ、そうでしょうとも。……でも、もう、あなたが触れてよい方ではありませんよ。」
あまりに“らしい”言い方に、メルトは思わず苦笑してしまった。
「じゃぁ、姉さま。北の丘でまた。」
鏡越しにマリアに挨拶をして部屋を出た。
*
北の丘の聖なる石の前に、銀の刺繍を施した白い礼服に緑のストールを掛けた王子と、 白いドレスに、公爵家に伝わる長いレースのベールを被ったマリアが並んで立った。
聖なる石をはさんで反対側には、祭壇が設けられ、大祭司が控えている。
祭壇の中央には王家の宝刀――竜殺しの剣が置かれ、剣の手前には、捧げ物として麦の穂が数本。端には細いガラスの花瓶のヤマボウシが淡く咲き、反対側には口の細い銀の水差しの聖水が置かれていた。
参列者は王族と高位官職者に限られ、メルトもそこに加わっている。
禁域を示す柵があったあたりには、柵の代わりに兵士たちが取り囲んでいる。
滅多にない慶事に、兵たちはどこか浮足立っていた。
メルトは周りを見渡した。こんな大勢の前で、大それたことをするのだと思うと、胸が、ぞくぞくと高鳴った。
ここにいる全ての人が敵になる。
でも、なんの問題もない。
マリアだけが味方であれば、それでいい。
――もし、マリアさえ味方にならなかったら?
それはそれで仕方がない。
笑える話だ。
大祭司が、太陽を模した金の杖をゆっくりと掲げた。
――さぁ、一世一代の大舞台が幕を開ける。
おかしい。もう13話。




