倒れた小瓶9
冬の初めのこと。
メルトは、王宮の正門の上の見張り通路で広場を見下ろしていた。
高所を渡る風は、まだ浅い冷気しか持たず、石壁に触れては小さく鳴り、耳元を静かに通り抜けた。
王宮前広場には、処刑のための刑壇が組まれて、民衆はその周囲を黒い波のように取り囲んでいた。
これからマニサ侯爵家の刑が執行される。
――来たくなかった。
王宮裁判記録官が、冬の空気を割るような明朗な声で読み上げた。
「罪状。
一、国王陛下を殺害しようとした罪。
二、侯爵領にて叛乱を企てた罪。
三、ブラックリリー公爵閣下を殺害しようとした罪。
四、側妃カタリナ様を殺害した罪。
五、有毒な薬物を違法に販売し、治安を破壊した罪。
六、宗教的権威を乱用した罪。
七、王家を欺いた罪。
八、側妃の身分を詐称した罪。
以上により、マニサ侯爵家全員を極刑とする。」
民衆がざわめく。とくに八つ目の罪――「側妃の身分詐称」に、どよめきが広がった。
他の罪とは毛色が違い、 どこか生々しいスキャンダルの匂いがする。
人々は互いに顔を見合わせ、 その意味を探ろうとしていた。
刑壇の上で、処刑人たちが一斉に剣を構えた。
冬の光を受けた刃が静かに白く光った。
「待ってください!」
民衆を押し分けて、一人の女性が刑壇へ手を伸ばした。
カタリナだった。
「カタリナ!? なんで……」 思わず声が漏れた。
カタリナが一人で来られるはずがない。 メルトは反射的にローズを探した。
すぐに、人込みから少し離れた場所で馬上のローズを見つけた。
「どうして……」
こんな状況では、カタリナをどうすることもできない。
――本当に?
養父の命を救った人を見捨てるのか。
――ローズにそう問われている気がした。
ローズはただ馬上からカタリナを見つめていた。
刑壇を守る兵士がカタリナを止めた。
「私は、カタリナ・マニサです。
家族が連座するなら、どうか、私も一緒にお願いします」
澄んだ声が響くと、一瞬で広場が静まり返った。
「ほう……」
王が、興味を含んだ声を漏らした。
「違う!」
大人しかった祭司が、弾かれたように立ち上がった。
あの人が取り乱すのを、僕は一度も見たことがなかった。
「気でも触れたか。妹は――私が手に掛けた!」
カタリナは震えながらも、まっすぐ祭司を見た。
「全部……全部、私のせいでしょ、お兄様。
私は外の世界が怖くて、何も学ばず、何も背負わず、 みんなが与えてくれた“優しい世界”にしがみついて、 ただ守られるだけの人生を生きてきた。
家の役にも立てない、何の役にも立てない。
私がちゃんと生きていれば、 誰かを替え玉にしてまで家を保とうとする必要なんて、きっとなかった……全部、私が弱かったせいよ。」
「知らない!陛下!信じないでください! この者はどうかしているのです!」
祭司は門の上に向かって叫んだ。
「大好きなお兄様。最後まで、お兄様と呼ばせてください。
私一人置いていかないで。」
祭司は取り繕えないことを悟った。
「私たちは、お前を裏山に閉じ込めたのだ。
外に出さず、世の中のことを何も教えず、学を与えず、
ただ新しい薬を生み出すように甘い言葉で安心させ、 嘘で囲い、 逃げられないようにお前の世界そのものを狭めた。」
カタリナが悲しそうに目を伏せた。
二人のあいだに、薄い冬の風がすっと流れた。
「陛下、全てお話しいたします。
妹は私たちに利用されただけの被害者です。
侯爵家から国母を出したい――しかし金蔓は手放したくない。
だから、この子の名だけを利用し、替え玉を立てて陛下を欺いたのです。
陛下。……どうか、この哀れな子にお慈悲を」
祭司は深く頭を垂れた。
広場が、固唾を呑んで王の言葉を待っている。
王は、薄い笑みを浮かべた。
「全部ではないだろう?
だが……まあよい。こちらも、すべてを白日の下に晒されては困るからな。」
広場の空気がわずかに揺れた。
「刑の執行を妨げるとは、王権の妨害だ。」
「陛下!」
祭司は思わず顔を上げた。
王は冷ややかに視線を落とした。
「その女を刑壇から遠ざけよ。王都への滞在も許さぬ。追放とせよ。」
兵士たちがカタリナを囲み、刑壇から引き離した。
カタリナは何度も振り返り、家族の姿を目に焼き付けた。
祭司は静かに微笑んで見せ、 国王へ向き直って深く頭を下げた。
王が軽く手を振る。
「執行せよ」
刃が振り下ろされた。
その瞬間、 冬の初めの空気が震え、マニサ侯爵家の名は、この国から消えた。
メルトの頬を涙が一筋伝った。
王が怪訝そうに聞く。
「何故泣く。あれはお前を殺そうとした者たちだぞ。」
「そうですが…… 交わした言葉の全てが嘘だったとは、思えませんから」
冬の風が、門の上を静かに通り抜けた。
まだ浅い冷気のはずなのに、胸の奥の穴へ落ちていき、そこだけ季節がひとつ深まったように寒かった。
*
広場のざわめきが遠ざかり、 王は執務室へ戻った。
冬の光が窓から薄く差し込み、 部屋の中の影を長く伸ばしていた。
扉が静かに叩かれる。
「陛下。……ご報告がございます。」
近衛長官が入ってきた。
深く頭を下げ、言葉を慎重に選ぶように口を開いた。
「ブレナン様の件……滞りなく終了いたしました。」
王は、いつもどおり淡々と答えた。
「うむ。確認する。」
近衛長官は一瞬戸惑いの表情を浮かべた。しかし反論はしない。
「承知いたしました。」
メルトは意味も分からず、王の後を歩いた。
いままで入ったことのない区画だった。
人気がなく、薄暗く、冬の冷気がしんと石壁に染み込んでいるようだった。
近衛長官が鉄扉を開けると、石壁がむき出しの部屋が現れた。
外の光は届かず、灯りは壁の小さなランプだけ。 影が重なり合い、空気が沈んでいる。
部屋には、滑らかに磨かれた腰の高さほどの石台が並んでいた。
その中の一つに、白布をかけられた台があった。小さな白い丘のようだった。
王はゆっくりと歩み寄り、布の端に手をかけた。
布が静かにめくられる。
メルトは息を止めた。
ブレナン王子が横たわっていた。
表情は穏やかで、まるで眠っているようだった。
その瞬間、メルトは理解した。 この部屋が何で、王子の身に何が起きたのか。
ほんの半年ほど前――
祭司様の腕の中で、琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見て、
あの子は、にっこり笑ってくれた。
どうして。
この子は何も悪いことをしていない。
どうして、カタリナは許されて、この子はダメだったの?
他に方法は無かったの?
「……これでよい。マニサの墓所に埋葬させよ。」
王は布を戻した。まるで書類を閉じるかのように事務的だった。
メルトは王の背中を見つめた。
何を考えているのかわからない。
王が歩き出す。メルトは動けなかった。
近衛長官がそっと肩に触れた。
「……大丈夫か。」
メルトは我に返り、王の後を追った。
心底、この世界が嫌になった。
*
その後、王が初めて正妃の離宮を訪れた日、メルトはまた離宮をそっと抜け出した。
マリアの庭を経由して、メレオロイデス教会へローズに会いに向かった。
「ローズ、ローズ!」
メルトが会いたいと思えば、ローズは必ず現れる。
「会いたかった、ローズ。」
「まぁ、嬉しい。」
「カタリナのこと、ありがとう。なんてお礼を言っていいか。」
「私は彼女を止められなかっただけ。本当に大切なものは人それぞれだから。」
ローズはメルトを湖のほとりに連れて行った。
カタリナとオスカーが掘り起こした薬草の根を水で洗っていた。
冬の初めの光の中で、二人とも穏やかな表情をしている。
メルトに気づいたオスカーが、水に濡れた手を振りながら言った。
「まーた、お前は辛気臭い顔してるな。ほら、こっちへ来い」
すごく温かくて、懐かしくて、堪えていたものが堰を切って溢れた。
メルトは思わずオスカーに抱きついた。
初めて出会った時はほとんど同じ身長だったのに、今ではオスカーがメルトの腕にすっぽり収まっている。
「オスカー……よかったね。本当に。
オスカーが一人になっちゃったら、僕、どうしようかと思ったよ。」
オスカーは少し驚いたように目を瞬かせ、 それから、ゆっくりメルトの背に腕を回した。
「また、借りができちまったな。」
「だったら、もう少しこのままでいさせて。
こんなこと、オスカーにしかできないから」
ローズがすぐ横から身を乗り出した。
「えー?ダーリン、私にすればいいじゃない。私、こういうの得意よ。」
たわわな胸のラインを強調してみせた。
「……それはちょっと」
「なんでよ。ダーリンは私の家族なんだから、こういう時は私も一緒よ。
……よし、もうこうなったら、えぇい!」
ローズはオスカーごとメルトを抱きしめた。
「こら、やめろ!俺の大切な羽が折れるだろ!」
オスカーが慌てて羽を庇う。
ローズはまったく気にしない。
「カタリナ、カタリナも早く!」
カタリナが声をあげて笑った。 メルトもつられて笑った。
「ローズは本当に変わらないな」
声に出して笑うなんて、 いつぶりだろうか。
カタリナとオスカーは引き続き教会に留まることになった。
*
メルトは、王宮に戻るためにトネリコの木を通り、マリアの庭のいつもの三又の枝に出た。
マリアがいた。
「うわ。どうしてここに」
不意打ちすぎて、踏み外しそうなほど驚いた。
マリアは、自分を素通りしてどこへ行っていたのか問い詰めようと近づき、泣きはらした目に気づく。
「……泣いていたの?」
「え!? な、泣いてないよ」
慌てて袖で目をこすった。
「嘘おっしゃい。お姉さまに隠し事なんてできると思って?」
「姉さまには敵わないな。でも、ほんとに大丈夫だから。」
本当は大丈夫じゃない。 でも、マリアに心配をかけたくないし、 弱い人間だと思われたくない。
ローズには泣き顔を見られても平気だったのに、不思議だ。
「ごめん、姉さま。今日は時間がないんだ。」
メルトは指先を一振りし、 白銀の滑り台を作った。
「僕、もう行くね。」
マリアは慌ててメルトの袖を掴んだ。
咄嗟に掴んだけれど、次の言葉を用意していなかった。
「……今日は、一緒に滑ってくれないの?」
マリアは顔を真っ赤にした。小さな子でもないのに、滑り台を一緒に滑ってほしいなんて。
「仕方がないなぁ。」
メルトは笑ってマリアに手を差し出した。
マリアはばつが悪そうに微笑み、手を取った。
「さぁ、行こう」
二人で螺旋の滑り台を滑った。 冷たい風がマリアの髪をふわふわと揺らし、髪がメルトの顔をくすぐった。
滑りながら、 マリアは言葉を探していた。
「また会いたい」と言って、メルトを困らせたくない。
「無理をしないで」と言っても、メルトに裁量はない。
「力になりたい」と言っても、マリアにできることはない。
滑り終えると、 マリアはそっとメルトの手を離した。
「……頑張ってね。」
メルトは、マリアらしくて苦笑した。
「ありがとう。姉さま。」
もう少し頑張れるような気がした。
*
メルトは王宮に戻った。
離宮へ向かい、とぼとぼと歩いていると、例の近衛が駆けて来た。
「リリー少将様、いた!
どうして離宮の外にいらっしゃるのですか。陛下がお怒りです。」
「申し訳ありません。」
「あれ、少将様、目が兎さんになってる。」
メルトは慌てて顔を背けた。
近衛はメルトの手を取ると両手で包み込む。
「……泣いていたんですね。
たまには、泣きたいときもありますよね。」
近衛は、周囲を気にするように声を落とした。
「そういう時は……私に言ってください。
離宮で、誰も来ない場所を知ってます。
それと、私の胸を使ってください。二人だけの秘密にしますから。
私は、その……少将様の味方です。ずっと」
はにかんで耳まで赤い。
メルトはさっと手を引き抜いた。
「……あ、ありがとう。でも平気。ほんとに平気。
あぁ、早く陛下の顔が見たいな。なんてね。」
近衛は少し残念そうな顔をしたが、「では、参りましょうか」と先を歩き始めた。
これで、倒れた小瓶の章は終わりです。
予定では次が最後の章です。きちんと終われるように頑張ります。




