倒れた小瓶8
開けた牧草地の中央に、一本の大きなシカモアの木が立っていた。
幹は両腕をまわしても届かないほど太く、 広がる樹冠は大きな日傘のように青空を切り取り、 風に揺れるたびに陽光を砕き、地面へ細かな影をこぼしていた。
根元には膝丈の三角柱の道標があり、 風化した石に簡素な文字で 北は王都345マイル、東はメレオロイデス教会5マイル、南はマニサ侯爵領50マイルと刻まれていた。
祭司は、この三叉路で側妃とブレナン王子の馬車を待つことになっていた。
束ねた髪と白い長衣は風に揺れ、
銀のストールは薄く光を返し、
艶消しの銀の鞘に収まった細身の剣は、ただ白衣の陰で沈んでいた。
空はまだ青いが、夕暮れの気配がほんのりと溶けていた。
祭司が父の謀の失敗を知ったのは、 王宮近くのリミン教会へ兵士が逃げ込んできたからだった。
祭司は報せを受けると同時に侯爵家のタウンハウスへ急使を走らせ、 側妃にブレナン王子を連れて一刻も早く侯爵領へ逃れるよう伝えた。自らは従者と僅かな護衛を連れて侯爵領へ向かい、 道中の馴染みの馬屋を巡り、側妃の馬車の替え馬を手配しながら進んだ。 そうして祭司は、この三叉路まで来た。
この先の川を渡った地点まで、侯爵家の兵が迎えに来ている。
東を見れば、遠くにメレオロイデス教会の建物群が白くぼんやりと浮かんでいる。
二十年近く前、祭司もあの場所で過ごしていた。
あの頃は、何者にもなれない自分に常に虚しさを覚えていた。
どれほど優秀だと言われても、父の後は継げず、 同じ神職でありながら大祭司にはなれず、 王族でありながら王にはなれない。
それから月日が流れ、今では大祭司の仕事の重要な一角を奪い、兄弟よりもはるかによい地位と名誉と力を持ち、自分が王になることはできないが――玉座に届くかもしれないところまで来た。
当時は嫌いで仕方がなかったメレオロイデス教会を見ても、今では何とも思わない。
祭司は、側妃と王子を乗せた馬車を、じりじりしながら待ち続けた。
遠くの地平に、細い埃の帯が立った。
目を凝らすと、豆粒ほどの点が揺れながらこちらへ向かっている。
馬車の運転は脱輪しそうなほど荒っぽい。その後方には、より広く濃い土煙が上がっていた。
「追手だ。号笛を吹け。」祭司は命じた。
従者は首からぶら下げている細い金属笛をつまみ上げ、鋭い音を牧草地に響かせた。
祭司も従者も馬に跨った。
川向こうにいた侯爵家の兵が動き出す。
侯爵家が王子の護衛のために用意した兵は、騎兵30と歩兵50だった。
王が放った追手は騎兵50。先遣隊を兼ねた精鋭だった。
侯爵家の騎兵は、馬車を視認すると直ぐに状況を把握し、馬車を逃がすべく追手に突っ込んだ。
青灰色の侯爵家の騎兵が横列で突っ込んでくるのを見て、深紅の王の騎兵は縦深へと陣形を変えた。
祭司は顔をしかめた。
突破を狙う形だ。 侯爵家の騎兵30では正面から受け止めきれない。
次の瞬間、 王の騎兵が槍を構えて、 侯爵家の横列へと突っ込んだ。
槍と槍が交錯し、乾いた金属音が牧草地に散った。
ぶつかった瞬間、横列の中央がわずかに沈み、 馬体同士が押し合う鈍い衝撃が地面を伝った。
一頭がよろめき、肩が揺れ、列の形が崩れかける。それでも騎兵たちは必死に踏ん張り、槍を押し返そうとする。
だが、縦深の勢いは止まらない。 押し返す力より、押し込む力の方が強い。
裂け目が生まれ、そこへ王の騎兵が食い込んだ。
中央が割れた。
突破されたのだ。
王の騎兵は突破した勢いのまま馬車を包囲していく。
馬車は行く手を阻まれ減速する。
侯爵家の騎兵は王の騎兵を追いかけるが、 包囲の輪はすでに形成されつつあった。
侯爵家の歩兵は間に合わない。
――やむを得ない。
侯爵家の正当性の最後のよりどころは王子だ。
祭司は自ら剣を抜いた。
剣は細身の直刀で、柄頭には、百合と細身の剣を組み合わせた侯爵家の紋章が刻まれている。
刃は木漏れ日の中で冷たく光った。
祭司は、従者と僅かな護衛を連れて、包囲が閉じきる前のわずかな隙に切り込んだ。
騎兵が槍を向ける。
祭司は馬体を斜めに滑らせるように動かし、すれ違いざまに剣で槍柄を叩いた。
乾いた音が響き、槍が揺れる。 騎兵の体勢が一瞬崩れた。
祭司はさらに深く踏み込んだ。従者と護衛も、細い裂け目を押し広げるように進む。
内側から祭司たちが、外側から侯爵家の騎兵が、 馬車の進路を開けようとすれば、道はまだ作れるはずだった。
だがその時、歩兵が戦場に雪崩込み、人の波が馬車を押し留めた。
馬車は完全に動きを失った。
歩兵は王子を確保したあとの防御としてなら役に立つが、この状況では返って邪魔だ。
祭司は強く歯噛みした。
敵を振り払いながら、この行き詰まった状況をどう切り開くか考えていると、 馬車のドアが開いた。
「ミカ様!」
祭司は舌打ちした。
敵の包囲の中、外に出ようなどと愚の骨頂だ。
「ミカ様……っ、ミカ様……! わ、わたくし……また、ミカ様のお望み通りに……できませんでした…… 申し訳ありません、申し訳ありません……!」
側妃は震える手で王子を差し出した。
「どうかこの子を連れて逃げてください。」
――それが最善だ。
祭司は王子を受け取った。
王子は母と離れることを悟ったのか、 戦場の喧噪に怯えたのか、 一際大きな声で泣いた。
歩兵は次々と倒れ、祭司を包囲する王の兵が増えていく。
逃げ道は狭まり、王子を片腕で抱え、もう片方の腕で剣を振るった。
弄ぶように繰り出された騎兵の槍の柄が祭司の肩口を掠め、束ねた髪がほどけた。
髪は白衣の背へ流れ落ち、風に揺れて影を散らした。
祭司は、側妃とともにシカモアの木の下へ追い込まれた。
――もはやこれまで。
祭司は馬から降りた。
木と馬を防御壁にして、王子を側妃に預けると剣を握り直し、 二人を庇うように前へ出た。
王の騎兵も下馬し、槍から剣に持ち替えて、じわじわと距離を詰めた。
「まさか王子を殺せとは命じられてないだろう。武器を捨てよ。」
王の騎兵は槍を向けたまま、短く答えた。
「殺す命は受けていない。 だが、生け捕りにせよとは命じられている。あなた様も含めて」
側妃は譫言のように繰り返す。
「ミカ様……申し訳ありません、申し訳ありません……」
祭司は王の騎兵たちをまっすぐ見据え、静かな声で言った。
「ならば武器を捨てよ。王子の安全が第一だ。そうすれば私も剣を捨てる。」
向けられた槍の穂先は微動だにしなかった。
側妃はまた同じ言葉を繰り返した。
「……申し訳ありません、ミカ様。申し訳ありません……」
≪内偵報告書(抜粋)≫
内偵が寄付者を装って孤児院に潜入し、 側妃様が在籍していた可能性のある十年分の過去帳を調査した。 しかし、侯爵家に奉公に出た経歴を持つ女児は記載されておらず、 帳簿に改ざんの痕跡も認められなかった。
そこで、十年分の過去帳に記載された女児の名前と就労先をすべて書き写し、 行方不明者を含めて追跡調査を行った。 聞き取りは難航したが、 過去帳に記載がなく、侯爵家と深い関わりがあったと推測できる女児について、 二名から証言を得た。
一人目:エッダ(28歳・元孤児院在籍者/商家奉公後に結婚し現在は主婦)
商家に奉公するため孤児院を退所。 その後、商家に出入りしていた木工職人と結婚し、 現在は王都郊外の住宅街で親子3人で暮らしている。
以下、聞き取りの記録。
内偵は愛想のよい笑顔を浮かべて名乗った。
「私、マニサ侯爵家のリミン教会で孤児院の活動報告をまとめている者です。 侯爵家の慈善事業の実績を整理するよう命じられておりまして、 当時の思い出などを伺えればと参りました。」
「あぁ、懐かしいですね。少しだけなら構いませんよ。」
玄関先で、エッダはふっと目を細めた。
遠くで近所の奥さんたちの笑い声がしていた。
「何か心に残っていることはございますか?お友達の話など。」
「侯爵家といえば……アリアのことですね。」
その名は過去帳のリストにはなかった。
内偵は注意を払う。
「アリアさんとは?」
「私の親友だった子よ。物静かで優しくて、ものすごく歌が上手いの。
どれくらい上手いって、侯爵家に楽師見習いとして引き取られるくらい。
夜、二人で布団にもぐって遅くまで話したっけ。 今でも覚えてる。
あの子、祭司様との歌のレッスンの話を嬉しそうにするのよ。あれは絶対恋をしていたわ。
……まるでシンデレラストーリーでしょ?
今はどうしているのかしら。お妾さんにでもなってたりして。
アリアのこと、ご存じありませんか。」
「……いえ、私は最近教会に参りまして、侯爵家の内部のことまでは存じ上げません。」
エッダは少し残念そうに微笑んだ。
「それは残念。でも、いつかアリアに会ったら、 エッダは幸せにやっていると伝えてください。」
奥の部屋から小さな足音がした。
「ママ、誰とお話しているの?」
「あらあら、起こしてしまったかしら。……あの、もうよろしいかしら。」
「はい。ご協力ありがとうございました。」
二人目:フリーダ(32歳・元孤児院在籍者/王立劇場所属歌手・芸名クリスティーナ)
王立劇場の人気歌手で、孤児院出身であることを公表している。
以下、聞き取りの記録。
王立劇場の裏口で、内偵は舞台化粧を落としきらないまま出てきた女性に声をかけた。
「あの、クリスティーナさんでいらっしゃいますか。」
「そうだけど。サインなら今日はもうしないわよ。」
「それは残念です。ご挨拶が遅れました。
私、マニサ侯爵家のリミン教会で孤児院の活動報告をまとめている者です。
侯爵家の慈善事業の実績を整理するよう命じられておりまして、 当時の思い出などを伺いたく参りました。」
その瞬間、フリーダの表情が変わった。
舞台の華やかさがすっと引き、代わりに昔を思い出すような影が差す。
「ああ……私は孤児たちの希望の星だものね。」
「当時のご様子や、お友達のことなどを伺えればと。」
フリーダは横の壁にもたれ、腕を組んだ。
「私がこうしてこの舞台に立っていられるのは、あの孤児院のおかげ。」
「アリアという名前に聞き覚えはありませんか。」
フリーダの片眉が、不愉快そうにぐいっと上がった。
「知っているも何も、あの子のせいで今の私があると言ってもいい。
……アリアは地味な子だった。栗色の髪をひっつめて、こげ茶の瞳も伏せがちで、いつも自信なさげにうつむいてばかり。
でも…… あの夜のことは、今でも忘れられない。」
フリーダはゆっくり語り始めた。
「理事長室で、祭司様が椅子に腰かけリュートを弾き、 その傍らでアリアが歌っていたわ。
机には金糸で縁取られた赤い半幅のクロスが敷かれていて、
ランプの火が揺れるたびに金糸が小さく光って、まるで部屋全体が時を止めたみたいだった。
普段は俯いてばかりいるあの子が顔を上げて、瞳は灯火を映して輝いて……
声は澄んだ泉のように透き通って、まるで別人みたい。
私なんかよりずっと綺麗だった。」
祭司の名を口にする前に、フリーダの表情がわずかに揺れた。
「祭司様は……今もお美しいけれど、あの頃はまた別の美しさがあったわ。
暗いこげ茶色の髪が光の加減で深い黒にも見えて……
横顔なんて彫像みたいに整っていて。ランプの光が頬の線をなぞると、影まで美しかった。
あの人がリュートを弾く姿は、まるで物語から出て来たみたいよ。」
フリーダは苦笑した。
「そんな祭司様と並んだアリアは……もう“選ばれた子”ね。
あの夜から、あの子は少しずつ変わっていった。
自分に自信を持つようになって、どんどん綺麗になって……嫌な女になったわ。
でも、それは当たり前よね。」
肩をすくめる。
「正直、悔しかったわ。 自分の歌声には自信があったし、あの子が来るまでは私が一番だった。
でも、あの子は私よりうまかった。だから選ばれなくて当然。
それでも悔しかった。だから自分で勝ち取ったのよ、この場所を。」
フリーダは胸を張った。
「でも……どうしてあの子の名前を聞かないのかしら。
あれだけ歌えたのに、あれだけ愛されていたのに、私の方が有名になってしまうなんて……皮肉ね。」
<総括>
二名の証言はいずれも、過去帳には記載されていないものの、侯爵家と関わりを持った「アリア」という女児の存在を示している。
側妃様とは、髪色・細身の体躯・美貌といった外見的特徴に一定の一致が見られるが、来歴の空白が大きく、同一人物であるとの確証は得られなかった。
――以上。
「アリア。」
祭司は、振り返ることなく、後ろの側妃に呼びかけた。
「はい、ミカ様。」
「こちらへ。」
側妃は王子を抱いたまま、ふらつく足取りで祭司のそばへ寄った。
泣き腫らした目には、ただ祭司だけが映っている。
祭司は左手で胸元から小さなものを取り出し、寄ってきたアリアの腰を支えた。
「もう、お前にできることはこれだけだ。」
手にしたものを口に含むと、 祭司は深く、ためらいのない口づけを与えた。
儀式のように静かで、長い一瞬だった。
次の瞬間、アリアの呼吸が乱れた。
王子を抱いたまま、力が抜けるように膝が崩れ、 祭司の腕の中へ沈んでいく。
アリアは最後の力で王子を祭司へ差し出した。
祭司は王子とアリアを抱えたまま、地面へと重心を落とす。
ほどけた髪が前へ落ち、二人の世界が閉じた。
アリアは祭司の腕の中で、かすかに微笑んだ。
「ミカ様……嬉しい……」
その声は、木の影に吸い込まれるように消えた。
私の祭司様愛は伝わったかな。
今回はマリー・アントワネットの逃亡劇、ヴァレンヌ事件に着想を得ています。あと50マイル行けば逃げ切れたのにというところを真似ています。ヴァレンヌ事件では戦闘は行われていません。ルイ16世は自国民を傷つけることを好まなかったからとか。それなのに処刑されてしまって可哀そうです。
リュートは洋ナシ型のギターみたいな楽器です。貴族の嗜みとして好まれた宮廷楽器です。




