倒れた小瓶7
離宮の庭にて。
池の岸辺にはクチナシが白い花をつけ、甘い香りを風に乗せている。 その奥にはノリウツギが淡い円錐の花を揺らし、さらに奥ではヤマボウシの白い苞が 木漏れ日の中で星のように浮かんでいた。
メルトは、どうにか離宮を抜け出せないかと、庭のあちこちをそっと探っていた。
庭は外の林へ自然に溶け込むように造られている。 黒い鉄柵は高木の影に隠れ、その内側には中木の生垣が帯のように続き、 手前には低木がまばらに植えられていた。 ところどころ、高木の枝が水面へ張り出し、離宮からの視界を遮っている。
門からも十分に離れたその一角で、 クチナシの影と張り出した枝がちょうど良い目隠しになっている場所を見つけた。
メルトは生垣の枝をそっとかき分けた。 思ったよりしっかりしている。
しゃがみ込み、下の方を覗くと、木と木の境目に辛うじて通れそうな隙間があった。
「リリー少将、そこで何を?」
「うわぁっ!?」
振り向くと、王妃担当の近衛が二人。
「えっと……猫がいたような気がしたのですが、気のせいでした。」
「猫ですか。それはいけませんね。見つけ次第、二度と入り込まないように教育してやりませんと。」
キリリッ。
教育!? 一体何を――
メルトは喉の奥で言葉を飲み込んだ。
近衛が去ったのを確認すると、 さっきの隙間に急速冷凍の魔法を流し込み、一息に潜り込んだ。
細い枝はパキパキと折れた。しかし、太い枝は折れず、マントが引っ掛かった。
仕方なく思いきり引っ張ると、びりっ、と派手な音がした。
生垣を抜けるとすぐに黒い鉄柵が現れた。鉄柵の縦桟は細く、蔦の模様の飾りが巻きつき、先端は小さな槍のように尖っている。
近くに人がいないことを確認すると、縦桟を火魔法で少し広げ、なんとか通り抜けた。
思ったより時間を食ってしまった。
「フルドラ、フルドラ、ここを通して。姉さまの所へ。」
「はいはーい。僕はいつも素通りだね。まぁいいけどさ。」
「いつもありがとう。フルドラのことも大好きだよ。」
「……そう?」
まんざらでもなさそう。
*
メルトはマリアの庭の扉をノックした。
そっと扉が開き、夕日の光が二人の間に流れ込む。
メルトは手を差し出した。
「遅くなってごめん。さぁ、海を見に行こう!」
メルトの髪が夕日で金色に染まっている。
マリアは、ふっと目を細めた。
「何も慌てて見に行く必要はないわ。もっと時間があるときで構わないわ。」
「そんなこと言わずに、さぁ。」
メルトはマリアの腕を引っ張って、トネリコの木へ連れて行った。
「フルドラ、海が一番きれいに見える場所へ。」
二人で、フルドラの背に飛び込んだ。
*
海を見下ろす丘に立つトネリコの木の上に出た。
海はきらきらと光り、 夕日のオレンジ色が世界をそっと包み込んでいた。
心地いい風が二人の髪とトネリコの葉を揺らす。
「うわぁ……綺麗ね。」
マリアは思わず声を漏らした。
「ほんと綺麗だね。僕、この世界で初めて海を見たよ。」
メルトは、銀鱗を撒き散らしたような海原を見つめながら小さく笑った。
マリアは笑ってメルトの髪についた葉っぱをそっと取った。
「あらあら、なんだかボロボロね。
服は泥だらけだし、マントは破れて……頭には葉っぱまで。 まるで野良猫ね。」
メルトは裂けた裾を見て肩を落とした。
「……あちゃ。キリアンとリオに怒られる。」
侍従の顔を思い浮かべた。
マリアがくすっと笑うと、 メルトもつられて笑った。
風がさらさらと吹き、二人の髪とトネリコの葉をもう一度揺らした。
その風に押されるように、二人はもう一度海へ目を向けた。
「......ありがとう。こっそり来てくれたのでしょ。あまり無理をしないで。」
「うん。そうだね。
でも、この約束だけは破りたくなかったんだ。」
マリアはそっと笑い、 メルトも同じように笑った。
風が二人の笑顔を優しく撫でていった。
二人は、オレンジ色にきらめく海とその空気を、胸の奥に深く刻んだ。
この世はこんなにも美しい――心からそう思えた。
二人だから、そう思えた。
*
次の日。王宮前広場は、朝の光に静かに満ちていた。
観衆は息をひそめて、閲兵式の開幕を待っている。
正門の白い石のアーチには王家の旗が掲げられ、 その左右に国旗が寄り添うように並んでいた。
王とハロルド王子はその旗を真正面に仰ぎ見て立ち、 メルトは半歩後ろに控えていた。
王の前には兵の列が幾重にも重なり、 鎧の光が層になって揺れている。 兵士たちは一様に赤い儀礼用の外套を肩に垂らし、その赤が鎧の上で静かに揺れていた。
風が、竜と剣と王冠の紋章が描かれた旗を膨らませるたび、竜の体が波打ち、まるで静かに息をしているように見えた。竜は、初代王が剣で討ち倒した王権の証だ。メルトの胸に、かすかな不安がよぎった。
式次第に従い、侍従長が宝剣を捧げ持ち、王の前に跪いた。
朝の光を受けて、薄紅を帯びた金の鞘が静かに輝く。
竜の血しぶきを思わせる赤い石と、竜の鱗のような青い石が控えめに光り、柄頭には竜の目を象った赤い宝石が沈んでいた。
侍従長の手は、震えていた。
王が柄に手を伸ばす。
侍従長が鞘を少し回し、角度を整える。
その瞬間―― 侍従長は鞘を抜いた。
銀の剣身が朝の光を鋭く返し、 王の胸元へ向けられる。
メルトは反射的に前へ出た。 氷の盾が瞬時に生まれ、侍従長の一撃を受け止めて砕け散る。
その割れ目をすり抜けるように、メルトは自らの剣を抜き、 次の太刀を受け止めた。
侍従長が剣を抜いたのを合図に、 彼の息がかかった兵士が一斉に動き出す。
王の馬の位置、動線、護衛との距離――
すべてが侍従長の決めた配置のとおり。
王の周囲に控えていた近衛が王の退路を塞ぐように体勢を変えた。
侍従長に取り込まれている。
メルトは即座に王の周りを分厚い氷の壁で覆った。
異変に気付いた前列の近衛たちは、王を守るために 隊列を離れて王へ向けて踏み込んだ。
王子も剣を抜き、王の退路を切り開くように剣を払う。
観衆が叫び声を上げた。
侍従長は笑いながら刃を押した。
「やはり、君は邪魔だ。
なんの思想信条も持たず、力だけは無駄に強い。
そこにいるのも、ただ流されただけのこと。
自分でも害悪だと思わないか。
こんな、他人の話を聞こうともしない王を守る必要があるのか。
私なら、もっとましな政治ができる。 ――我等の側につけ。」
侍従長の声が、耳元で絡みつくように落ちてくる。
メルトは歯を食いしばり、押し込まれる刃を必死に受け止めた。
「……侍従長…… あなたは僕に、忠誠を語っていたではないですか……」
昔の光景が蘇り、喉が詰まる。 息が震え、刃の重みが腕を軋ませる。
「メルト、聞くな!」
王子が叫び、横から侍従長の剣線を断つように踏み込んだ。
「どけ、この出来損ないが!」
侍従長の宝剣が王子に向けて跳ね上がる。
その瞬間、メルトは氷柱を放った。
鋭い氷が侍従長の脇腹に突き刺さり、血が散る。
それでも侍従長は怯まない。 痛みを無視し、宝剣をそのまま振り下ろした。
王子は素早く剣を払い上げ、侍従長の刃を弾く。
続けざまに踏み込み、次の一撃へ移ろうとした、その刹那―― 近衛が咄嗟に侍従長の前へ飛び込み、王子の剣線を遮るように刃を交錯させた。
甲高い金属音が重なり、戦況が一気に乱れる。
侍従長側についた兵、王と王子を守ろうとする兵、迷って動けない兵―― 陣形は一瞬で崩れ、誰が敵で誰が味方か判別できない乱戦へと変わっていく。
刃が四方から入り乱れ、 王子とメルトは侍従長の姿を見失った。
そのとき―― 王宮の門が勢いよく開き、城内に残っていた兵士たちが広場へ雪崩れ込んだ。
彼らは普段の戦闘服に胸当てのみ身に着け、儀礼用の赤い外套をまとっていない。
その瞬間、敵味方の区別がはっきりした。
「王を守れ!」
王宮兵の声が広場に響いた。
乱れていた剣線が一気に整理された。王子とメルトの周囲に味方の壁が形成された。
侍従長側についた兵たちは押し返され、 戦闘服の兵が左右から挟み込むように包囲し、侍従長の退路を断った。
「侍従長、捕縛!」
王宮兵の声が広場に響き渡り、辺りが一瞬しんと静まり返った。
その静けさの中で観衆は現実を受け止め、緊張がとけるように、喧噪がゆっくりと戻った。
メルトが王の氷の壁を取り払うと、王は広場の惨状を見渡し、低く、押し殺した声で言った。
「じ、侍従長だけではない。
……お、王の権威を汚した者を、決して許さぬ。」
王の怒りは、侍従長だけに向けられたものではない。
その奥には――側妃の替え玉事件、侯爵家、祭司、薬、そして“本当のカタリナ”の影が確かに含まれている。
メルトの胸の奥がひやりとした。
本物のカタリナが逃げ切れるかどうか。その運命が決まろうとしていた。




