倒れた小瓶5
侯爵家の製薬会社の裏山、カタリナの家。
カタリナの三番目の兄エドモンド・マニサは、妹の家の扉をノックした。
いつもならすぐ返事が返ってくるのに、今日はいつまでたっても返事がない。
怪訝に思い扉を開けた瞬間、夏の籠った空気とともに、甘くねっとりした腐臭に襲われた。
エドモンドは反射的に鼻を押さえた。
「……カタリナ?」
家はしんと静まり返っている。
LDKに足を踏み入れると、テーブルの上にカップが二つ置かれているのが目に入った。
どちらも中身が乾き、縁に白い跡が残っている。
「……カタリナ?」
エドモンドは寝室のドアを開けた。
整ったベッドに、がらんとした余白が妙に気になった。
「……カタリナ?」
最後の部屋のドアを開けた。 部屋は薄暗く、窓は半分だけ開いていて、風が入るたびに天井から吊るされた薬草の束が揺れた。 壁に落ちた影も揺れた。
だが――
カタリナはいない。
エドモンドの背筋が、すっと冷たくなった。
「まずい……これはまずい。」
エドモンドは家から飛び出し、馬に飛び乗り、そのまま王宮の近くにある兄の教会へ向かった。
*
王宮の侍従長の部屋。
侍従長である父は書類に目を通していた。
「父上、少々よろしいですか」
祭司は何食わぬ顔で入ってきたが、声は固く低い。
「あの子が……山小屋から姿を消しました。エドが急ぎ知らせて来ました」
侍従長の手が止まり、血の気が引いた。
机の引き出しから、一通の書類を取り出す。
「……そういえば、陛下から病歴の申告を求められたことがあったな。側妃の幼少期からの記録を、と」
祭司は目を細める。
「いつです。」
「かれこれ十日ほど前かな。」
「なぜ、知らせてくださらないのですか!」
祭司は机に指を置き、コツコツと音を鳴らした。苛立ちを隠せない。
「病歴申告に、あの子の失踪。偶然にしては近すぎる。
陛下は側妃の病歴どころか、何にも興味がなかったはずです。それなのに。
何か切っ掛けがあったはず……」
侍従長が静かに言う。
「最近、側妃様に関わる事といえば……離宮の改装が進んでおらん。」
祭司の指が止まった。
「……進んでいない?」
侍従長は続ける。
「家具の運び出しは終わったのだが……宮廷工房の職人が、正妃様の離宮で浮かべる遊覧舟の新調で手一杯でな。どうにも手が回らんらしい。まぁ、よくあることだ。」
祭司の瞳がわずかに揺れた。
家具の運び出しが終わった途端、工事が止まった。
運び出した物の中に“何か”があったか。
脳裏に、自分があの女に渡した小瓶が浮かぶ。
“これを使って既成事実を作るのだ。うまくやるのだぞ”
額に落とした、触れるか触れないかの口づけ。
“お任せくださいませ”
あの女は頬を染めて笑っていた。
祭司は唇を噛んだ。
「……まさか。あの小瓶を……そのまま放置していたのか。」
侍従長の表情が険しくなる。
「小瓶?」
「あのクソ女!」
祭司は机を叩いた。
侍従長が低く問う。
「大丈夫だろうか。」
祭司は短く言い切った。
「我等は疑われています。」
侍従長は言葉を失った。
だが、王が何を掴み、何を知らないのか――
その境界は、まるで霧の中だった。
*
数日後、祭司は側妃を伴い王の執務室を訪れた。
部屋の空気が張り詰めている。だが、陛下のご機嫌が悪いのはいつものことだ。
「――側妃様の離宮から出て来たあの小瓶の件で、申し開きがございます。」
「ほう。」
祭司は淡々と続けた。
「側妃様が置いていたのは、侯爵家の製薬会社で作っております“ちょっとした睡眠補助薬”にございます。側妃様には、一時うまく眠れなくなった時期があり、侍医に相談のうえ、勝手ながらご用意いたしました。
側妃様、あなたからも申し開きをなさいませ。」
――さて、陛下は、この話にどれほど興味を示されるか。
「陛下ぁ……っ。わ、わたくしは……っ、ただ、眠れなかっただけなのです。」
側妃が涙を零す。
陛下の視線がすっと冷えたのが分かった。
――やはり、陛下の興味は他に移っておられる。睡眠薬などもう問題ではないのだ。
焦った側妃は声を張り上げた。
「だって、一年以上も放っておかれて。お出ましくださるようになっても、月に一度だけ。
正妃様のところへは十日に一度。私の方が若くて美しいのに。悔しくて、悔しくて」
泣き崩れる側妃の肩に、祭司は優しく手を置いた。
「……大丈夫です。兄がついています。」
「お兄様、私、どうしたら許していただけるでしょうか。」
側妃は祭司に縋った。
祭司は、言い聞かせるように側妃の両腕を握った。
「お伝えすべきことを、きちんと申し上げるのです。」
「眠れない夜が続いて、ただ、それだけで……。
陛下に害を加えるつもりなんて本当に、微塵もございませんでした。」
祭司は深く頭を下げた。
「陛下。愚かな妹ではございますが、悪意はございません。
どうかお聞き届けを。」
王はうんざりしたように息を吐いた。
「……もう、よい。下がれ。しばらく、私の前に顔を出すな。」
祭司は静かに頭を垂れた。
――やはり。
扉が閉まった瞬間、側妃は祭司の袖を掴んだ。
「ミカ様……っ、ミカ様……! わ、わたくし……ミカ様のお望み通りに……できませんでした…… 申し訳ありません、申し訳ありません……!」
扉の前に立つ近衛が見ている。
「兄がついています。落ち着きなさいませ。さあ、帰りましょう」
祭司は側妃に寄り添い、廊下の角を曲がった。
人目が消えると、袖を払い、冷ややかに言う。
「あなたに期待した私が愚かでした。」
側妃は息をするのも忘れ、その場で凍り付いた。
祭司は見向きもせずに歩き出す。
――何か手を打たねばならない。
*
夜。 王の私室にて。
王は小さな卓に酒を置き、静かに杯を傾けていた。
メルトは寝室の端の簡易ベッドから、恨めしそうに覗く。
「……陛下、また飲んでおられるのですか。」
「眠れん。」
「お酒の飲みすぎは不眠の素だと聞きますよ。」
「うるさいわい。大人には飲まんとやっておれんことがあるのだ。」
自分の子でないかもしれない―― こんなこと、口に出せるはずがない。
「……替え玉だと、まだ疑っておられるのですか。」
王の手が一瞬だけ止まった。
しかし答えず、静かに琥珀色の酒を注ぎ足す。
「……やっぱ、ダメか。」
メルトは小さく呟いて、布団をかぶった。
王はその騒がしい塊を一瞥し、深く息を吐いた。
――言えるものか。こんな屈辱。




