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倒れた小瓶5

侯爵家の製薬会社の裏山、カタリナの家。

カタリナの三番目の兄エドモンド・マニサは、妹の家の扉をノックした。 いつもならすぐ返事が返ってくるのに、今日はいつまでたっても返事がない。

怪訝に思い扉を開けた瞬間、夏の籠った空気とともに、甘くねっとりした腐臭に襲われた。エドモンドは反射的に鼻を押さえた。

「……カタリナ?」

家はしんと静まり返っている。

LDKに足を踏み入れると、テーブルの上にカップが2つ置かれているのが目に入った。どちらも中身が乾き、縁に白い跡が残っている。

「……カタリナ?」

エドモンドは寝室のドアを開けた。 整ったベッドに、がらんとした余白が妙に気になった。

「……カタリナ?」

最後の部屋のドアを開けた。 部屋は薄暗く、窓は半分だけ開いていて、風が入るたびに天井から吊るされた薬草の束が揺れた。 壁に落ちた影も揺れた。

だが――

カタリナはいない。

エドモンドの背筋が、すっと冷たくなった。

「まずい……これは、まずい」

エドモンドは家から飛び出し、馬に飛び乗り、そのまま王宮の近くにある兄の教会へ向かった。

王宮の侍従長の部屋。

侍従長である父は書類に目を通していた。

「父上、少々よろしいですか」

祭司は何食わぬ顔で入ってきたが、声は固く低い。

「あの子が……山小屋から姿を消しました。エドが急ぎ知らせて来ました」

侍従長の手が止まり、血の気が引いた。

机の引き出しから、一通の書類を取り出す。

「……そういえば、王から病歴の申告を求められたことがあったな。側妃の幼少期からの記録を、と」

祭司は目を細める。

「いつです」

「かれこれ十日ほど前かな」

「なぜ、知らせてくださらないのですか!」

祭司は机に指を置き、コツコツと音を鳴らした。苛立ちが隠せない。

「病歴申告に、あの子の失踪。偶然にしては近すぎる。陛下は側妃の病歴どころか、何にも興味がなかったはずです。それなのに。何か切っ掛けがあったはず……」

侍従長が静かに言う。

「最近、側妃様に関わる事といえば……離宮の改装が進んでおらん」

祭司の指が止まった。

「……進んでいない?」

侍従長は続ける。

「家具の運び出しは終わったのだが……宮廷工房の職人が、正妃様の離宮で浮かべる遊覧舟の新調で手一杯でな。どうにも手が回らんらしい。まぁ、宮中ではよくあることだ」

祭司の瞳がわずかに揺れた。

――家具の運び出しが終わった途端、工事が止まった。

――運び出した物の中に“何か”があったか。

脳裏に、自分があの女に渡した小瓶が浮かぶ。

“これを使って既成事実を作るのだ。うまくやるのだぞ”

額に落とした、触れるか触れないかの口づけ。

“お任せくださいませ”

あの女は頬を染めて笑った。

祭司は唇を噛んだ。

「……まさか、あの小瓶を……そのまま放置していたのか」

侍従長の表情が険しくなる。

「小瓶?」

「あのクソ女!」

祭司は机を叩いた。

侍従長が低く問う。

「大丈夫だろうか」

祭司は短く言い切った。

「我等は疑われています」

侍従長は言葉を失った。

王が何を掴み、何を知らないのか――

その境界が、まるで霧の中だった。

数日後、祭司は側妃を伴い王の執務室を訪れた。

部屋の空気が張り詰めている。だが、陛下のご機嫌が悪いのはいつものことだ。

「――側妃様の離宮から出て来たあの小瓶の件で、申し開きがございます」

「ほう。」

祭司は淡々と続けた。 「側妃様が置いていたのは、侯爵家の製薬会社で作っております“ちょっとした睡眠補助薬”にございます。側妃様には、一時うまく眠れなくなった時期があり、侍医に相談のうえ、勝手ながらご用意いたしました。側妃様、あなたからも申し開きをなさいませ」

――さて、陛下は、この話にどれほど興味を示されるか。

「陛下ぁ……っ。わ、わたくしは……っ、ただ、眠れなかっただけなのです」

側妃が涙を零す。陛下の視線がすっと冷えたのが分かった。

――やはり、陛下の興味は他に移っておられる。睡眠薬などもう問題ではないのだ。

焦った側妃は声を張り上げた。

「だって、一年以上も放っておかれて。来てくださるようになっても、月に一度だけ。正妃様のところへは十日に一度。私の方が若くて美しいのに。悔しくて、悔しくて」

泣き崩れる側妃の肩に、祭司は優しく手を置いた。

「……大丈夫です。兄がついています」

「お兄様、私、どうしたら許していただけるでしょうか」

「お伝えすべきことを、きちんと申し上げるのです」

「眠れない夜が続いて、ただ、それだけで……。陛下に害を加えるつもりなんて本当に、微塵もございませんでした」

祭司は深く頭を下げた。

「陛下。愚かな妹ではございますが、悪意はございません。どうかお聞き届けを」

王はうんざりしたように息を吐いた。

「……もう、よい。下がれ。しばらく、私の前に顔を出すな。」

――やはり。

祭司は一度も振り返らず、静かに頭を垂れた。

扉が閉まった瞬間、側妃は祭司の袖を掴んだ。

「ミカ様……っ、ミカ様……! わ、わたくし……ミカ様のお望み通りに……できませんでした…… 申し訳ありません、申し訳ありません……!」

扉の前に立つ近衛が見ている。

「兄がついています。落ち着きましょう。さあ、帰りましょう」

祭司は側妃に寄り添い、廊下の角を曲がった。

人目が消えると、袖を払い、冷ややかに言う。

「あなたに期待した私が愚かでした」

側妃は息を忘れ、その場で凍り付いた。

祭司は見向きもせずに歩き出す。

――何か手を打たねばならない。

夜。 王の私室にて。

王は小さな卓に酒を置き、静かに杯を傾けていた。

メルトは寝室の端の簡易ベッドから、恨めしそうに覗く。

「……陛下、また飲んでおられるのですか」


「眠れん」


「お酒の飲みすぎは不眠の素だと聞きますよ」


「うるさいわい。大人には飲まんとやっておれんことがあるのだ」


王子が自分の子でないかもしれない――

こんなこと、口に出せるはずがない。


「……替え玉を、まだ疑っておられるのですか」


王の手が一瞬だけ止まった。

しかし答えず、静かに琥珀色の酒を注ぎ足す。


「……やっぱ、ダメか。」 メルトは小さく呟いて布団をかぶった。


王はその騒がしい塊を一瞥し、深く息を吐いた。


――言えるものか。こんな屈辱。


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