倒れた小瓶4
メルトは、カタリナとオスカーの住む野の近くのトネリコの木から飛び降りた。
「ルル、僕を運んで!」
呼びかけると、手の甲の紋章が水色の光を放った。 雪の結晶の模様がドクンと脈打ち、その中心から小さな白猫が浮かび上がる。 猫はぐうっと伸びをして「ニャー」と鳴き、手の甲から跳び降りた。飛び散る氷の欠片が光を乱反射する。散光の中で一気に巨大化し、どしんと香箱座りのルルが現れた。
メルトが首筋によじ登ると、ルルは久しぶりの外を満喫するように地面を蹴った。
グワングワンと身体が揺れる。メルトの深藍のマントがはためく。景色は線になって、あっという間に、野の端にある二人の家に着いた。
ドンドン「オスカー、カタリナ、いる?」 ドンドンドンドン!
「はいはーい、今行きまーす。」脱力しそうなカタリナの声がした。
「いらっしゃい、冬の妖精さん。まぁ。なんて大きな猫ちゃんかしら」
「オスカーは?オスカーもいる?」
オスカーがフライ返しを手に顔を出した。夕飯の準備の途中らしい。
「うわぁっ、その巨大猫どうにかしろ!やだよ、また狩られるのは!」 羽をかばうように背中を丸め、フライ返しを盾にした。
「この前のお礼がしたいんだ。お願い、二人とも僕についてきて」
「どこに行くんだよ」
「ローズのところ」
「あぁ、お前と影結びされてる姉ちゃんか。何しに?」そう 言いながらも、距離を取り続けている。
「影結び?何それ。それより時間がないんだってば。後で話すから早く!」
メルトが腕を掴むや否や、 オスカーはフライ返しを振り回しながら大騒ぎした。
「ちょっ、まだ炒め物してんだけど!?うわあああ巨大猫くるな!!」
そのままルルに放り上げられ、公爵邸を経由してメレオロイデス教会へ運ばれていった。「やめろ落ちる落ちる落ちるぅ!」……もう、うるさい。
*
メレオロイデス教会のトネリコの木に出ると、メルトは叫んだ。
「ローズ、ローズ!」
メルトとローズは影法師を結ばれた仲なので、メルトが会いに来れば、ローズにはすぐにわかる。
「あら、ダーリン。また会いに来てくれたの? 嬉しい♡」
ローズは、後ろの二人など見えていないかのように、メルトを抱きしめた。
「この前はありがとう。それで、またお願いがあるんだ」
「なーに?」
メルトはカタリナとオスカーへ視線を向けた。
「二人を匿ってくれないかな。どこにしようか考えたら、真っ先にローズの顔が浮かんで」
……うん?僕って、困ったらいつもローズのところに来てるかも。
「困ったときに思い出してくれるのは嬉しいけど……理由を聞かせて?」
「それは……言えない。二人にも、なぜここに連れて来たかは教えられない」
理由を知って匿ったらローズも罰を受けるかもしれないし、カタリナにも知られたくない。
あれ?ローズを巻き込むことになるって分かっているのに、僕はどうして来ちゃったんだろう。
「ねぇ、ダーリン。何か危ないことしてない?」 ローズが顔を覗き込む。
うっ、鋭い。
「やっぱり迷惑だったね。ごめん、聞かなかったことにして」
そうだよ、ダメだよ。これは僕だけの秘密にしなくちゃ。
「ごめん二人とも、もう一度僕についてきて」メルトはローズに背を向けた。
ローズはメルトの気持ちが離れていくのを感じて、慌てて腕を掴んだ。
「ダーリン?」
「は、はい」
「……もう、そんな顔しない。そういう時は……まず私でしょ? 仕方ないな。教会は困った人が縋る最後の寄る辺よね。 だったら私は、ダーリンの最後の寄る辺でいさせてよ。ね、私、頼りになるでしょ?」
ローズはいつだって頼りになる。 だから、つい甘えたくなってしまうんだ。
「本当に、いいの?」
「もし、私に何かあったら……ダーリンは私のことも助けてくれる?」 ローズは上目遣いでそっと尋ねた。
「ローズは公爵様の命の恩人だもの。必ず助けるよ」
公爵様を救ったのは直接的にはオスカーの薬だけど、 ローズがいなければ正しい解毒剤をもらえなかったと思っている。
「もう。ちょっと違うんだけど……まあ、いいわ。秘密の共有ね。
そうね、丁度、薬師がほしいと思っていたところだし」
「ありがとう、ローズ。本当に助かる」
助かるのは本当。でも、ローズの気持ちを利用しているみたいで落ち着かない。
――「君さあ……何も言わずに出て行ったくせに、こういう時だけ“フルドラ、フルドラ”って呼ぶんだよね。ほんと、扱いが雑」フルドラの言葉を思い出した。
フルドラならともかく、ローズにまで。 僕って、……こんなタイプだったっけ。
メルトは、モヤモヤを追い払うように頭を振ると、二人へ向き直った。
「オスカー、カタリナ。しばらくここに隠れていて。ほとぼりが冷めたら迎えに来るから。ローズ、ふたりのこと……頼むね」
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。そのまま、メルトはトネリコの木をくぐった。
*
メルトはトネリコの木を通り抜け、マリアの庭の三又の枝に出た。
「……メルティ。」
頭上から声が落ちてきた。見上げると、マリアが三又の枝の少し上で幹に背を預けて座っていた。
「姉さま!?どうしてここに?」
「あなたがトネリコの木を使うと必ずここに出るでしょう?」マリアは枝を軽く揺らしながら言った。
「そうだけど、危ないでしょ。」
「いずれ森で暮らすのだから、このくらい平気よ。ところで、どこへ行ってきたの?」
「ロー……。いえ、秘密です。」慌てて口を押えた。
「へぇ、ローズさんのところ。何しに?」
「秘密です。でも、やましいことは……してるか?してるなぁ」何から何までやましいことばかり。
「メルティ?」マリアはひらりと三又の枝に降り立ち、すっと距離を詰めてくる。
逃げ場がない。メルトの視線が一瞬泳いだ。
「ごめん、姉さま。僕、急いで王宮に戻らないといけなくて。そうだ、取り敢えずここから降りよう。ね?」
メルトが指先を一振りすると、細かな氷晶がぱっと舞い上がった。氷の粒は光をまとって降り注ぎ、幹に巻き付き、結氷し、白銀の帯を広げるように枝から地面へと滑らかに伸びて―― きらめく雪の滑り台が姿を現した。
「ほら、姉さま、来て。」メルトはマリアに手を差し出した。
しかし、マリアはその手を取らない。
「うん?」
俯いて、消え入りそうな声で言う。「……帰ってきて。」
メルティがいなくなってから、私の世界は全然楽しくないの。窒息寸前。
それなのに、髪型も、服も、匂いも、あなたにあった私の名残が、次々と上書きされていく。全部替わってしまったら、あなたはきっと戻ってこない。
だから帰ってきて。
「そんなこと……できるはずがない。」
「お母様が酷いことを言ってごめんなさい。お母様は反省しているわ。だから。」
「ううん。公爵様をあんな目に遭わせて、戻れるはずがないよ。」
「お父様も今はもう元気よ。だから。」
「そうか。それはよかった。……姉さまも元気?」
元気じゃないと答えたら、帰ってきてくれる?言葉にしようとしたが、熱いものがこみ上げてきて、声にならなかった。
マリアが泣きそうな顔をしたので、メルトはその腕を強引に引っ張って、一緒に滑り台に飛び込んだ。
「きゃっ!」マリアが悲鳴を上げる。
「うわっ、お尻が冷たい!」
メルトが笑うと、マリアもつられて笑った。
「よかった。やっと笑ったね」
メルトはマリアを立たせ、 えいっと枝に飛びつき、反動をつけていつもの三又の枝へ戻った。
「それじゃぁ姉さま、またね。……今度はちゃんと会いに来るよ」
メルトは遠くのものを見るような目でマリアを見つめ、あっという間にいなくなった。
「……今度って、いつよ」
ついさっきまで感じていたメルトの気配が、すっと消えていく。
消えたあとの寂しさは、以前よりもずっと堪えた。
*
メルトは王宮のトネリコの木に出た。
「姉さま……元気なかったな」
トネリコの木を振り返る。帰りたいけど、帰れない。
指先に残っていた温もりが、王宮の空気に触れてすっと消えた。
「……今度は何の落とし物にしようかな」
「リリー少将!そろそろお戻りください。」近衛が遠くで叫んだ。
「はーい。今行きます!」
*
王の執務室にて
主席書記官アラステアは、分厚い封筒を机に置いた。 封蝋には情報局の印が押されている。王は黙って顎を引いた。
「……裏山の調査報告です」
アラステアは淡々と封を切り、数枚の紙を広げた。
「侯爵家の製薬会社の裏山に潜入した内偵が、 側妃様がかつていたと思われる療養小屋らしきものを発見しました。」
紙を一枚、王の前に滑らせる。
「室内には薬の原材料が多く保管されていました。侯爵家の製薬会社との関わりは明白です。 衣装箪笥には成人女性の衣服が仕舞われていました。華美ではありませんが、庶民にしては仕立てが良い。推定年齢は二十代から四十代。すべて同一人物のものと思われます」
アラステアは手元の紙を一枚めくる。
「作りかけの料理が鍋の中で冷えて固まっていました。食器は二人分。状況から考えて、つい最近まで誰かが生活しており、何かの理由で、取物も取り敢えず立ち去った――そうとしか思えません」
メルトの背筋に冷たいものが走った。
王の眉がわずかに動く。
「側妃が、そこにいたのか」
「侯爵家と関わりの深い誰かはいたでしょう。しかし、衣装箪笥の中身は側妃様のお召し物とは明らかに傾向が異なります。側妃様がそこで暮らしていたとは考えにくいです。
そして、この時期に姿を消したことは、偶然とは思えません。我々の動きを察知し、本物を隠したと見るのが自然ではないでしょうか。」
王は鼻で笑った。
「奇跡は起きた、か。おっとりした可憐な少女がいたのだな」
アラステアは頷いた。
「医師と乳母の証言も総合いたしますと、 現在の側妃様は――替え玉の可能性が高いと言わざるを得ません」
室内の空気がわずかに冷えた。
本物は既に侯爵家により隠された。
「……では、側妃は一体誰だ」
補佐書記官コーマックが、ためらいがちに口を開いた。
「侯爵家が長年運営している孤児院があります。身寄りのない子供を保護し、読み書きや音楽を教える慈善事業です。孤児院出身者は身元が弱く、外部との接触も少ないものです。侯爵家の内部に引き取っても不自然ではありません」
アラステアは王の目をまっすぐ見た。
「替え玉に仕立てるなら―― 最も扱いやすいのは、孤児院の出身者です。 まずは、そこを洗うべきかと」
王は深く息を吐いた。
「……侯爵家は皆で私を欺いていたということか」
「真実を確かめます、陛下」
アラステアは静かに頭を垂れた。
―― どうかカタリナが見つかりませんように。




