トネリコの木1
王都で、メルトは公爵夫妻に大切にされていた。
それは間違いなく幸せなことなのだ。幸せなことなのだが――。
カサブランカ王国は、王と議会の二つの柱で成り立っている。
王は古い秩序を重んじ、議会は民の承諾を重視する。
ブラックリリー公爵家は建国の功績で爵位を得た家だが王族ではなく、
法務大臣として議会の上院を束ねる立場にあった。
そのため、公爵家はいつも王権と議会の狭間に立たされていた。
メルトは、本邸に来てすぐに、公爵と公爵家お抱え弁護士から、母の遺言公正証書、預金証書、貴族登録証明書、魔法使用者登録証明書を見せられた。
リリー家は竜の守人として王宮から代々職務手当を受けていた。遺言書には公爵を後見人に指名するとあり、貴族登録証明書には公爵を後見人として子爵位を相続した旨が記載されていた。
メルトはこの世界で実際に竜を見た記憶はない。
竜の守人が名目だけの役職でないのなら、王属の守人が公爵家の完全な後見下にあるという事実は、政治的に重い意味を持つだろう。
公爵家の長男セオドアが本邸を訪れた際、
「君の聖獣は何故そんなに小さいんだ」と言った。
「それでは君の魔法はたかが知れている。
君の家は家職だけを全うし、その他全てを当家が引き受ける――
そういう約束なのに、どういうつもりだ。」とも。
竜の守人が魔法が使えないことは想像以上に深刻な問題だった。
誰にも知られてはいけない。
幸か不幸か、メルトは公爵とマリアの前で魔法を使っている。
誰かに気づかれる前に、何とかしなければならない――
メルトはそう心に決めた。
*
僕はあまりにも魔法の知識がなさすぎる。
救いを求めて図書室へ向かった。
魔法コーナーは小さい。その中から、厚さ五センチもある『魔法入門』を手に取った。
追い込まれていなければ絶対に選ばない本だ。
第1章 魔法を学ぶ前に(1)魔法なんてこわくない。(2)魔法の歴史と基本原理
第2章 原則としての魔法(1)魔法とは何か(2)魔法を確保するために
第3章 いろいろな魔法
第4章 魔法の行使
第5章 魔道具について
よし、これにしよう。
自室に持ち帰り、二週間かけて読み込んだ結果、理解できたのは次の五つだけだった。
1,この世界には魔獣・聖獣・妖精・精霊が存在し、すべての生物は体内で魔法の素を生成している。
特に魔獣、聖獣と妖精、精霊は魔法の素を生成する量が多く、余剰分を外へ放出している。
2,魔法を使える人間は、魔法の素を多く作れるか、外界から大量に吸収して保持できる者で、ほぼ遺伝で決まる。
3,魔法を確保するには、睡眠・食事・運動など健康が重要。魔獣や聖獣など魔法の素を多く生む存在を近くに置くのも有効。
4,魔法の行使は、魔法の素を消費し、代わりに何かを生み出す行為である。
5,遺伝で持ち合わせていない種類の魔法は工夫と魔法陣で補う。ただし、魔法使用者登録をしていない者が、魔道具で魔法陣を作るのは国法で禁止されている。
*
マリアの部屋の前には、彼女専用の庭がある。
今はそれが、メルトの庭にもなっていた。
本邸の庭は広いが、誘拐事件の再発を恐れて、メルトの行動範囲は背の高い貝塚伊吹の生垣で囲われた“箱入り娘用の庭”に限られている。
とはいえ、サッカーコートほどの広さがあるので窮屈ではない。
庭の端にはトネリコの大木が立っていた。
邸は坂の上にあるため、この木に登れば町を一望できる。
難しい本を読んで頭がジンジンする時、ここで風に吹かれるのは最高だった。
今、マリアはお行儀の先生の授業を受けている。
僕も受けろと言われればその通りなのだが、段階というものがある。
マリアの授業に出ても基礎がなっていないから付いていけない。
まだ僕は、マリアや公爵夫人から少しずつ教わるくらいが丁度いい。
「あーあ、わからない。肝心なことがわからない。」
トネリコの太い枝にうつ伏せになり、手足をぶらぶらさせる。
樹下ではルルが揚羽蝶を追いかけていた。
猫じゃなくて聖獣だって。
ちょっと猫より大きいかなとは思うけど、モフモフだよ?
セオドアの言葉が頭の中で自動再生される。
「仕方ないだろ? 何も知らされてないんだから。
母様が早く死んじゃったのが悪い。全部母様のせい。」
ぶーぶーぶーと文句を垂れた。
「ねぇ、君、暇なの?」
頭の上から声が降ってきた。
「うわっ!?」
木から滑り落ちそうになり、慌てて枝をつかむ。
見上げると、同じ年頃の子供が、いつの間にか木の股に腰かけていた。
景色に溶け込むように、そこに“いた”。
「いつからそこにいたの?」
「ずっといたけど?」
「ずっと? もしかして僕の独り言聞いてた?」
「ふふっ。ちょっと聞こえたかも。」
「うぉお、聞かなかったことにしてください。」
「はは。じゃあ聞かなかったことにしてあげる。
その代わり、僕の話し相手になってよ。」
「いいけど……暇なの?」
「君と同じでね。
前は近くに友達がいたんだけど、みんないなくなってしまったよ。」
「ふーん。それは寂しいね。僕も似たようなものだからいいよ。
僕はメルト。君は?」
「フルドラ。」
フルドラは、僕がどこから来たのか、どんな森で暮らしていたのかを尋ね、この場所も昔は同じような森だったと、どこか懐かしそうに話した。
「あっ、もうお迎えが来たよ。またね。」
軽やかな足音がして、
「メルティ、そろそろお部屋に入りなさい」
とマリアが迎えに来た。
町はオレンジ色に染まっていた。
夜景も美しいだろうが、降りられなくなっては大変だ。
「はーい、姉さま。」
じゃあまたね、と振り返る。
その瞬間、風がザーッと吹き、木の枝が大きく揺れた。
フルドラの姿は、もうどこにもなかった。
「あれ?」
「メルティ、早くしなさーい。」
「はーい、今行きまーす。」
*
今日の夕食の主菜は骨付き肉だった。
また小難しいものを持ってくる。
これはきっと公爵夫人の深謀遠慮だ。
フォークで肉を押さえ、まるで手術でもするかのように慎重に骨と肉の境目へナイフを入れる。
木登りをして、美味しいごはんを食べて、僕はとても健康的な暮らしをしている。
聖獣だって傍にいる。
それなのに、どうして魔法が使えないんだろう。
やっぱり入門書じゃ足りない。
別の本を読まなければ。
「メルティ、メルティ。難しい顔をしてどうしたの?
ソースが鼻についているわよ。」
はっと我に返る。
「メルティ、他人や食事を前にして他の事に気を取られるなんて感心しません。」
「申し訳ありません。」しゅん。
「上手く食べられないのかしら。仕方がないなぁ、お姉さまが、あーんしてあげます。」
また始まった。
「こら、マリア、端無い。あなただってまだまだなのだから、私がやります。
メルティ、はい、あーん。」
モラハラでパワハラだと思う。
「ねぇ、お母様。最近メルティの元気がない気がします。
それでね、もうすぐメルティの誕生日でしょ?
ガーデンパーティを開いてあげたらどうかしら?」
「ガーデンパーティ?」とメルト。
「いいわね。公爵家がメルティを得たことを大々的に公表するいい機会だわ。」と公爵夫人。
「楽しいわよ。」とマリア。
「わぁ、僕楽しみです。」
にこっと笑顔を作っておく。
食事が終わると、そのまま図書室へ行き、『実用魔法読本』を借りて部屋に戻った。
僕に与えられた部屋は、セオドアとマリアが昔使っていた子供部屋だ。
白を基調にした壁紙に水色と金色の線、薄紫のヒースの花の列が交互に描かれている。
白い暖炉、木製の揺り椅子、子供用のベッド。
部屋全体が可愛らしかった。
マリアは、もと自分の部屋だったせいか、
まるで自分の部屋のように出入りする。
ノックはない。
名前を呼びながら入ってきて、今はベッドに腰かけて僕の風呂上がりの髪を梳かしている。
「ねぇメルティ。庭の木のところで、誰かとお話ししていなかった?」
「フルドラだよ?」
「誰かしら?」
マリアの手が止まった。
「友達だよ。」
「もしかして赤い帽子を被ってる?」
「そう。姉さまも知ってる?」
「駄目よ、メルティ!」
マリアは僕の両腕を掴み、体ごとマリアの方へ向けさせた。
「それは森の精霊、連れていかれるわ。」
真面目な顔で言っている。
精霊がどういうものかわからないが、フルドラは普通の人間に見えた。
これについては、僕は、ルルが猫か聖獣かも見分けがつかないので、精霊なのかもしれない。
精霊だとしても庭は森ではないし、どこかへ誘われたりはしていない。
「ただ話しをしただけだし、ずっとあの場所にいるみたいだから、連れてはいかれないと思う。」
「だったらお姉さまに紹介しなさい。お姉さまが見極めてあげます。」
メルトのリラックスタイムは消えた。
*
フルドラは、僕が愚痴を言っているときに現れる。
愚痴を言うために木に登っているようなものだけど。
今日は朝から商人が来て、ガーデンパーティー用の服飾品選びをした。
そのことを愚痴った。
最初は、日にちがないから僕の服は既製品を調整するだけのはずだった。
それが、マリアや公爵夫人のドレスと合わせたデザインがいいという話になり、
二人がそれぞれ着たいドレスを持ってきて広げ、
最終的には「やっぱり全員分仕立てよう」ということになった。
そこから生地選び、デザイン決め、採寸、靴、装飾品、髪型――
延々と続いた。今も続いている。
疲れて逃げてきてしまった。
フルドラは、非日常は楽しいものだと言った。
そして、メルトの愚痴も彼にとっては非日常で楽しいのだと。
だったらもっとネタを集めないといけない。
「お迎えが来た。」
「ねぇフルドラ、姉さまを紹介したいんだけど。」
そう言ってマリアに視線を移した瞬間――
ざざっと木の葉が擦れる音がした。
振り返ると、もうフルドラはいなかった。
風だけが枝を揺らしていた。
「マリアはいい子なんだけどな。」
一見きつそうに見えるけど。
一見じゃないか。
フルドラが知らないうちにフルグラに。




