トネリコの木1
王都で、メルトは公爵夫妻に大切にされている。それは間違いなく幸せなことなのだ。幸せなことなのだが・・・。
この国カサブランカ王国には王と議会が存在している。王は、王権は神から与えられたものだと昔を懐かしみ、議会は国民に義務を課すには国民の承諾がいると主張した。ブラックリリー公爵家は建国の功績により爵位を得ていたが、王族ではなく、無給で法務大臣を奉職し、法務大臣は議会の議長を兼任することとなっていた。王権と議会の対立は権力分立を採用する国家の必然であり、公爵家が微妙な立場に立たされることもまた必然である。
メルトは、本邸に来てすぐに、公爵と公爵家お抱え弁護士から母の遺言公正証書、預金証書、貴族登録証明書、魔法使用者登録証明書を見せられた。預金証書について、弁護士は、リリー家は竜の守人として王宮から代々職務手当を受けていると説明した。遺言公正証書には公爵を後見人に指名するとあり、貴族登録証明書には公爵を後見人として子爵位を相続した旨が記載されていた。
メルトはこの世界で実際に竜を見た記憶はない。しかし、もし竜の守人が名目だけのお飾りの職ではなかったとしたら、王属の竜の守人が公爵家の支配下にあることは何かしら政治的な意味が付加されてくる。
公爵家の長男セオドアは、公爵とともに王城近くのシティハウスを拠点としている。その公子が、メルトに挨拶をするため本邸を訪れた際に、こう言った。「君の聖獣は何故そんなに小さいんだ。それでは君の魔法はたかが知れている。君の家は家職だけを全うし、その他全てを当家が引き受ける、そういう約束なのにどういうつもりだ!」
竜の守人が魔法が使えないことは想像以上に深刻な問題だった。メルトは誰にも知られてはいけないと思った。幸か不幸か、メルトは公爵とマリアの前で魔法を使っている。誰かにバレないうちに何とかしようと心に誓った。
僕はあまりにも魔法の知識がなさすぎる。救いを求めて図書室に行った。魔法コーナーはあまり大きくはない。そこから1冊「魔法入門」を手に取った。この本は厚さ5cmほどあり、追い込まれた状況になければ決して手に取らない。目次を見ると、
第1章 魔法を学ぶ前に(1)魔法なんてこわくない。(2)魔法の歴史と基本原理
第2章 原則としての魔法(1)魔法とは何か(2)魔法を確保するために
第3章 いろいろな魔法
第4章 魔法の行使
第5章 魔道具について
よし、これにしよう。
自室に持ち帰って2週間かけて読み、理解できたことは以下の5点である。
1,この世界には、前世で存在する生物の外に魔獣、聖獣と妖精、精霊がいて、全ての生物は、量の違いはあれど、体内で魔法の素を生成している。特に魔獣、聖獣と妖精、精霊は魔法の素を生成する量が多く、自己消費を越えた分を体外に放出している。
2,魔法を使える人間は、体内で魔法の素を沢山生成できる人間か、あるいは外界から多量の魔法の素を吸収し体内に保持することができる者であり、ほぼ遺伝で決まっている。
3,魔法を確保するためには、十分な睡眠とバランスのよい食事、適切な運動により健康を保つことが大切である。魔獣、聖獣又は妖精、精霊など魔法の素を多量に生む存在を近くに置くことも有効だ。
4,魔法の行使は、魔法の素を消費し、代わりに何かを生み出す行為である。
5,遺伝で持ち合わせていない種類の魔法は自前の能力を工夫して生み出すが、補助として魔法陣を利用することが一般的である。ただし、魔法使用者登録をしていない者が、魔法具を使い魔法陣を作出し魔法を使うことは国法で禁止されている。
マリアの部屋の前にはマリア専用の庭がある。それが今はメルトの庭ともなっている。本邸の庭は広々とあるが、誘拐事件の再発を恐れ、メルトの行動範囲は背の高い貝塚伊吹の生垣で囲われた箱入り娘用の庭に制限された。ただ、サッカーコートくらいの広さがあるので、窮屈さはない。
この庭の端にトネリコの大木がある。邸が坂の上にあるので、この樹に登ると町を一望することができた。難しい本を読んだ後の頭がジンジンする時に、ここで風に吹かれるのは最高に気持ちよかった。
マリアは今お行儀の先生の授業を受けている。僕も受けろって?それはそうなんだけど、段階ってものがある。マリアの授業を僕が受けても基礎がなってないから付いて行けない。まだ僕は、マリアや公爵夫人から指導を受けるくらいが丁度いいのだ。
「あーあ、わからない。肝心なことがわからない。」トネリコの太い枝にうつ伏せにもたれかかり手足をぶらぶらさせる。樹下でルルが揚羽蝶を追いかけているのが見える。
猫じゃなくって聖獣だって。ちょっと猫より大きいかなとは思うけど、モフモフだよ?セオドアの言葉が頭の中で自動再生された。
「仕方ないだろ?何も知らされてないんだから。母様が早く死んじゃったのが悪い。全部母様のせい。」ぶーぶーぶー垂れた。
「ねぇ、君暇なの?」
上から声が降ってきた。
「うわっ!?」木から滑り落ちそうになった。声のした方を見ると、同じ年頃の子供が同じように木の股に座っていた。
「いつからそこにいたの?」
「ずっといたけど?」
「ずっと?もしかして僕の独り言聞いてた?」
「ふふっ。ちょっと聞こえたかも。」
「うぉお、聞かなかったことにしてください。」
「はは、じゃぁ聞かなかったことにしてあげる。その代わり僕の話し相手になってよ。」
「いいけど、暇なの?」
「君と同じでね。以前は近くに友達がいたんだけど、みんないなくなってしまったよ。」
「ふーん。それは寂しいね。僕も似たようなものだからいいよ。僕はメルト。君は。」
「フルドラ」
フルドラは僕がどこから来たのかや、住んでいた森の様子を尋ね、この場所も昔は同じような森だったと話した。
「あっ、もうお迎えが来たよ。またね。」フルドラは言った。
軽やかな足音がして「メルティ、そろそろお部屋に入りなさい。」マリアが迎えに来た。
町はオレンジ色に染まっていた。夜景も美しいだろうが降りられなくなっては大変だ。
「はーい、姉さま。」
じゃぁまたねと振り返ると、風がザーと吹いて木の枝が大きく揺れた。フルドラの姿はもうない。
「あれ?」
「メルティ、早くしなさーい。」
「はーい、今行きまーす。」
今日の夕食の主菜は骨付き肉だった。また小難しいものを持ってくる。これはきっと公爵夫人の深謀遠慮だ。フォークで肉を押さえて、まるで手術をするかのように慎重に骨と肉の境目にナイフを入れる。
木登りをして、美味しいごはんを食べて、僕はとっても健康的な暮らしをしている。聖獣だって傍にいる。それなのにどうして魔法が使えないんだ?やっぱり入門書じゃ足りない。別の本を読まなければ。
「メルティ、メルティ。難しい顔をしてどうしたの?ソースが鼻についているわよ。」
はっと我に返る。
「メルティ、他人や食事を前にして他の事に気をとられるなんて感心しません。」
「申し訳ありません。」しゅん。
「上手く食べられないのかしら。仕方がないなぁ、お姉さまが、あーんしてあげます。」また始まった。
「こら、マリア、端無い。あなただってまだまだなのだから、私がやります。メルティ、はい、あーん。」
モラハラかパワハラだと思う。
「ねぇ、お母さま。最近メルティの元気がない気がします。それでね、もうすぐメルティの誕生日でしょ?ガーデンパーティを開いてあげたらどうかしら?」
もう夏の盛りだ。
「ガーデンパーティ?」とメルト。
「いいわね。公爵家がメルティを得たことを大々的に公表するいい機会だわ。」と公爵夫人。
「楽しいわよ。」とメリア。
「わぁ、僕楽しみです。」にこっと笑顔を作っておく。
食事が終わると、そのまま図書室に行って「実用魔法読本」を借りて帰った。
僕に与えられた部屋は、セオドアとマリアが昔使っていた子供部屋だ。白を基調にした壁紙には太い水色の線と細い金色の線、薄紫のヒースの花の列が交互に描かれていて、石灰岩の白い暖炉、木製の子供用の揺り椅子とベッドがあり、部屋全体が可愛らしかった。マリアは、もと自分の部屋だったせいか、まるで自分の部屋のように出入りした。ノックはない。名前を呼びながら入って来て、今はベッドに腰かけて僕の風呂上りの髪を梳かしている。
「ねぇメルティ。庭の木のところで、誰かとお話ししていなかった?」
「フルドラだよ?」
「誰かしら?」マリアの手が止まった。
「友達になったんだ。」
「もしかして赤い帽子を被ってる?」
「そうだよ。姉さまも知ってる?」
「駄目よ、メルティ!」僕の両腕を掴み体の向きをぐるんと変えた。
「それは森の精霊、連れていかれるわ。」真面目な顔で言っている。
精霊がどういうものかわからないが、フルドラは普通の人間に見えた。これについては、ルルの件からわかるように、僕は違いの分からない男なので、精霊なのかもしれない。精霊だとしても庭は森ではないし、どこかへ誘われたりはしていない。
「ただ話しをしただけだし、ずっとあの場所にいるみたいだから、連れてはいかれないと思う。」
「だったらお姉さまに紹介しなさい。お姉さまが見極めてあげます。」
メルトのリラックスタイムがさらさらと音を立てて消えた。
フルドラは、メルトが愚痴を言っているときに現れる。愚痴を言うために木に登っているようなものだけど。
今日は、朝から商人が来てガーデンパーティー用の服飾品選びをしたので、そのことを愚痴った。最初は、日にちがないので、僕の服は既製品をサイズ調整しようという話だった。それがマリアや公爵夫人のドレスと合わせたデザインがいいということになり、マリアや公爵夫人がそれぞれの着たいドレスを持ってきて広げ、最終的には、やっぱり全員分仕立てようということになった。それから、生地選び、デザイン決め、採寸、靴、装飾品、髪型まで延々と続いた。今も続いている。疲れて逃げてきてしまった。
フルドラは、非日常は楽しいものだと言った。そしてフルドラにとってもメルトの愚痴は非日常で楽しいのだと。だったらもっとネタを集めないといけない。
「お迎えが来た。」
「ねぇフルドラ、姉さまを紹介したいんだけど。」と言って、マリアに視線を移した。
ざざっと木の葉が擦れる音がした。振り返るともうフルドラはいなくなっていた。
「マリアはいい子なんだけどな。」一見きつそうに見えるけど。一見じゃないかも。
フルドラが知らないうちにフルグラに。