倒れた小瓶1
石造りの牢は、夜の冷気をそのまま抱え込んでいた。今回メルトが入れられたのは、貴族用の拘留施設ではなく、 手加減のない本物の牢獄だった。外側に厚い鉄扉、内側にも鉄格子の牢扉があり、 鉄格子に触れれば、湿り気を含んだ冷たさと、ざらりとした錆が指先に残った。プライバシーが保たれている点は好ましい。おかげで安心してルルに包まることができている。二人はいつまでたっても母子猫。
人の声がして鉄扉の鍵を回す音がした。ルルは耳をぴんと立てると、メルトの下からするりと身を抜き、姿を消した。眠っていたメルトは突然枕を抜かれる形になり、石畳に落ちた。もう、痛いよ。
鉄扉が軋む音を立ててゆっくりと開いた。メルトは石畳に横たわったまま見上げた。ミカエル祭司が、いつものように穏やかな笑みを湛えて立っていた。
「リリー少将。ずいぶんと……困った状況ですね。」クスッと喉の奥で笑う。
「おかげさまで。」
「でも、あなたも少し軽率でしたね。逃げたりするから。」
「僕は……処刑されるのですか?」
「さぁ、どうでしょう。陛下がどのようにお考えになるかは、私には分かりません。でも、あなたは私の大切なお友達ですから、なんとか救って差し上げたい。
うーん、そうですねぇ。もし、私のお願いを聞いてくださるなら、陛下に善処してくださるようお話しいたしましょう。」
「お願い?」
「えぇ、大したことではありません。私の甥、ブレナン王子の近習護衛になっていただきたいのです。そうすれば、陛下に、あなたの助命をお願いしやすくなります。」
「僕には選択の自由がありません。」無理に選ぼうとした結果が今の状況だ。
「勿論、最終的には陛下がお決めになることです。私はただ、あなたの気持ちを聞いているだけですよ。」にこっ。
「ブレナン王子殿下には、まだお会いしたこともありません。」まだ赤子なので、会ったところでどう変わるというものでもないが、メルトはこの祭司が苦手だ。
「でも、ハロルド王子殿下は僕に夢を語ってくれました。すごく素敵な夢でした。」
「その夢は……あなたの命より重いのですか。」祭司には理解し難い。
「僕は争いごとが嫌いです。王になった方に仕えます。それがあなたのブレナン王子殿下でも。」
祭司は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そうですか。えぇ、あなたらしい答えですね。」
扉が静かに閉まった。
静寂が帰って来た。ルルがそっと姿を現し、 落ちたメルトの頬に鼻先を寄せる。
「……大丈夫。ちょっと痛かっただけ。」
次の日、祭司は王の執務室を訪れた。
扉の前で足を止め、中の気配にそっと耳を澄ませる。
「近衛兵の過失により、公爵は瀕死の重傷を負った。槍にジギタリス──狐の手袋の毒が塗られていた。こ、これではまるで私が仕組んだようではないか!」
王は感情が高ぶると言葉が詰まる。今は少々機嫌が悪い。
祭司は袖口を軽く整え、姿勢を正すと扉に向き直り、 静かに、しかしよく通る声で告げる。
「陛下。お時間を頂いてもよろしいでしょうか。」
「……入れ。」
王の机に、近衛騎士団の初動捜査報告書と、薬務院の毒物鑑定書が置かれていた。
「メルト・リリー子爵の処遇について、陛下は、どの様になされるおつもりでございますか?私は心配でなりません。」
王は書類から目を離し、何が言いたい、はっきり言え、と視線を向けた。
「あの者は、陛下のご命令に従いませんでした。制御できない力は、取り除くのが最善でございます。」
「処刑はできんぞ。関係者一切を罰しないというのは、ハロルドとの約束だからな。」
王子のメレオロイデス教会立て籠りの一件は、王子が、双方の陣営に分かれて戦った臣下と王軍を襲撃した民衆すべてを罰しないという条件を提示し、王は王子の帰城を条件を示し、和解が成立した。王は王子に大きな戦果を上げることを望んでいたが、これはこれで王子に対する世間の評価が上がり、そこそこ満足している。
「では、陛下のお近くから遠ざけるとか。そうですね、ブレナン王子の子守など丁度よいかもしれません。」
「なんだ、結局お強請りか。考えておく。」王は手元の書類に視線を落とし、短く言った。
祭司は嬉しそうに礼を述べ、静かに退室した。扉が閉まった瞬間、その笑みは跡形もなく消えた。
その日の執務を終えた王は、誰にも告げずに地下牢へ向かった。石段を降りるたびに、冷えた空気がゆっくりと濃くなっていく。
前回は逃げられたが、今回は逃げ場を塞ぎ、勝ち筋も立っている。思い描いた通りに事を運び、その通りに勝つ。これほど愉快なことはない。
牢番の城衛兵が重い鉄扉を開けた。
湿った空気が揺れ、薄暗い牢の奥で、メルトはゆっくりと顔を上げた。
「そんなに怖い顔をするな。お前を罰するつもりはない。ハロルドとの和解の条件だからな。」
「……でも、迎冬祭の日も、僕を始末しようとなさったではありませんか。」
「はて、生け捕りにせよとは命じたが。混沌とした状況下では、そのような手違いも珍しくはあるまい。」
無抵抗の意思を示しても、抜き身で襲いかかってきたのに、手違い?本当だろうか?
「公爵が刺されたのは近衛の過失だと報告を受けている。それと、公女が魔法で公爵の傷を癒した、とも書かれていたな。公女が魔法を使えるとは初耳だ。」
「使えません。公爵様を救ったのはメレオロイデス教会の聖女です。」メルトは即座に言い返し、王を睨みつけた。
王は小さく息を吐く。「そのことは、まぁいい。だが、その毒はお前を狙ったものではないのか?」
「……僕もそう思います。」
「知りたくはないか。公爵をそのような目に合わせた奴が、誰なのか。」
メルトは息を呑んだ。こんなことを言われて、否と言えるはずがない。
メルトはゆっくりと息を吸い、まっすぐ王を見上げた。
「僕を、陛下の盾にしてください。」
王の口元がわずかに緩む。「うむ。上出来だ。」
王自ら格子扉を開けた。
「出よ。今からお前の居場所は私の隣だ。」
翌朝。まだ夜の気配が残る王の寝室で、侍従がメルトの顔に容赦なく濡れタオルを落とした。24時間王の警護をするメルトの寝床は、寝室の出入り口横をパーテーションで仕切っただけの狭い一角だ。
「ひゃっ……つめ……!」
「起床の時間です、近習殿。」年上の侍従キリアンが淡々と告げた。
その横で、新人侍従のリオが小声で囁いた。「……おはよう、メルティ。」リオは、わざとらしくニヤついている。
王の身支度に遅れないように、リオとキリアンは淡々と作業を進める。髪を整え、服を着せ、帯剣させ、最後に香水を一吹きすると、フローラルな香りがふわりとメルトに落ちた。
「うっ……く、臭くないです。」咽せそうになるのを涙目になって我慢した。
リオは噴き出しそうになるのを必死でこらえるが、キリアンは無表情のまま頷いた。
「当たり前です。陛下の纏う香りですから。」
そんなこと言われても、臭いものは臭い。
食事は王と同じテーブルで摂るようになった。目の前で毒見が行われる。自分たちの世話をする侍従から品数に応じてランダムに毒見役を選び、その場で食べさせる。公爵家では、このような習慣はなかった。ハロルド王子とみんなで食べていた昼食もこのようなことはしていない。初めて目にした時は、酷く恐ろしかった。
王の執務室には銀色の小魚の入った水槽がある。王が喉が渇くと、書記官が銀のカップに水を注ぐ。王はそのカップを手に水槽の前へ歩み寄り、静かに一滴、魚たちの上へ落とした。ある日のこと、王がカップの水を傾けると、小魚たちがぷかっと浮かんだ。
またある日、王が執務室から隣の閣僚会議室に移動するときに、廊下ですれ違った侍従が書類を落とした。侍従は書類を拾うふりをして、隠し持っていた剣で王を背後から襲った。
またあるの日、王が馬車のタラップを降りているときに、馬車を引く馬を抑える馬丁が王を襲った。
日々、気の休まる時がない。
王は10日に一度、正妃の離宮に行く。
離宮の庭はオレンジ色の光に沈みかけていた。湖面は細かな波を立て、沈む陽を砕いて煌めかせている。湖畔の白亜のテラスで、王妃がハープを弾いていた。王は少し離れた場所で音楽に耳を傾け、王子は王妃の隣で湖を眺めている。ふと視線の端に動く影を見つけた。回廊の影をメルトがゆっくり歩いていた。メルトとは時折顔を合わせるが、短い挨拶を交わすことしかできない。
「メルトーッ!」
大きな声が湖面に響き、鳥が一羽飛び立った。王妃が驚いて手を止め、王も顔を向けた。
王子は両手をブンブン振りながら叫んだ。「ちょっと、こっちにおいでよ!」
メルトは駆け寄り、王妃の前で小さく頭を下げた。陽の中で見るメルトの顔は、思ったよりも白かった。
「お久しぶりね、メルティ。」王妃は優しく微笑んだ。王は静かに視線を向けるだけで何も言わない。
王子は王妃のハープを指さした。「母上が弾いた曲、覚えているだろう?」
王妃も頷く。「ヘレンたちと4人で合奏していたわよね。懐かしいわ。」
「久しぶりに弾いてみないか?君は奏でることが好きだろう?」王子はメルトの笑顔を期待した。昔、王女たちの部屋で見せていたような。
メルトはハープを見た。夕陽が弦に反射し、細い光の線が揺れている。
「……できません。」
「どうして?」
「……申し訳ありません。もう、しばらく楽器には触れておりません。とてもお聴かせできるものではありません。」
王子は酷くショックを受けた。
いつもメルトから大切なものを奪うのは自分だ。そして最も望まないことを強いて、毎度、取返しがつかなくなってから気がつく。
「ごめん、メルト。」
「殿下が謝ることではありません。」
メルトは作り笑いをして、軽く会釈をして立ち去った。
――― 私は、どうやったら彼に償うことができるだろうか。
新章開幕!最初から暗っ!気楽に読める溺愛系の悪役令嬢ものが書きたかったはずなのに、どうしてこうなっちゃったかな。




