花嵐2
メルトがいないことに最初に気づいたのは、マリアだった。
ダイニングでは、冷めたスープやミートパイを前に、彼女は冷たい冷気を放っている。
「私の可愛いメルティを掻っ攫うなんて……嘗めたことをしてくれたものだわ。
いいかしら、ジョン? お父様が到着する前に、必ず私たちで解決しましょうね。」
北館の管理人ジョンは震えながら答えた。
「も、もちろんでございます……どうか安心して朗報をお待ちください。」
*
メルトは鉄格子の中で目を覚ました。
「これ何? どういうこと?」
鉄格子を掴んだ途端、強い吐き気がして蹲った。
檻の向こうに男が立った。
「ちょっと、薬が強すぎたかな?」
男は笑っている。
「汚さないでくれよ。臭いし面倒だからな。
あぁ、そうだ――これは何かだったな。
お前は俺たちの売り物で、しかももう売約済みだ。
大人しくしていろよ。傷はつけたくないからな。」
男は部屋の隅の机に戻り、一人でトランプを再開した。
公爵家の次は人身売買。この落差は何?
神様、僕の前世は地味で善良な小市民でした。
死んだら天国行きのはずですよね。
これはきっと何かの手違いだと思うので、
死ぬちょっと手前からやり直させてもらっていいですか。
もし僕が物語のヒロインだったなら、このシチュエーションは――
イタリアマフィアに扮した王子様がオークション会場に現れて、
「十億。何、足りない? じゃあ三十五億だ。」
バン! と札束の詰まったジュラルミンケースを開いて落札されるところだよ。
残念ながら僕はオークションすら掛けられないんだけど。
ぐすん。
「うるせぇよ。男がべそべそすんな。」
と怒鳴られた。
そんなこと言われても、僕は音楽を愛する軟弱男なんだ!仕方ないだろ。
僕は心の中で叫んだ。
「ほら、こっち来て座りな。」
後ろから優しげな声がしたので振り返った。
部屋の灯は、監守の手元のランタンのみで薄暗い。
薄暗い中、メルトと同じ立場の子供たちが幾人も力なく膝を抱いていた。
メルトは声のする方に行って壁際で膝を抱えた。
部屋の灯りは、監守の手元のランタンだけで薄暗い。
その薄闇の中に、メルトと同じ立場の子供たちが、幾人も力なく膝を抱えていた。
メルトは声のする方へ行き、壁際で膝を抱えた。
公爵家は僕を探してくれるだろうか。
いや、僕は公爵家の人間じゃない。期待はできない。
脱獄ってどうすればいいんだろう。
のこぎりで鉄格子を切断? そんなもの持ってるわけない。
それに僕はもう“売却済み”なんだから、切るより引き渡される方が早い。
檻の中から逃げるのは無理だ。
檻の外に出てから逃げる方がまだ現実的だ。
そんなことを一人であれこれと考えていた。
「ねぇ、あんたどこから来たの?」
優しげな声の主――マリアくらいの年の女の子が話しかけてきた。
公爵家の名前を出してはいけない気がして、
「山の向こうの……森?」
と実家を答えた。
「ははっ、惑いの森? まさかね。言いたくないならいいけど。
私はね、教会にいた孤児なの。祭司様のお使いの途中で捕まっちゃった。」
「祭司様はきっと心配しているね。」
「きっとね。他の子たちも心配してくれてると思う。……帰りたいなぁ。」
牢の中は饐えた匂いがする。
前世と現世を合わせれば僕はもう大人だ。
それなのに、自分より小さな子供を見捨てて一人逃げる算段をしていたことに、後ろめたさを感じた。
でも、こういうのはきっと上手くいかない。
川で溺れている人を助けようと飛び込むと、助けようとした人が一人死ぬみたいな。
ただ――
僕の前世の心残りは、きっとこういうことなのだ。
「ねぇ、逃げることってできないの?」
ひそひそ声で聞いた。
「できないよ。奴らの言うことを聞かないと、酷い折檻をされるんだから。」
「ねぇ、賭けてみない?
僕は“売却済み”で、傷つけたくないんだってさ。」
不敵に言ってみせた。
「どうするの?」
「こうするのさ。みんな乗ってよね。」
メルトは耳打ちした。
「ねぇ、おじさん大変大変、新入りがお腹が痛いって苦しんでるの。なんとかしてあげて。」
女の子は大きな声で助けを呼んだ。
「新入りって、あの貴族の餓鬼か?」
「黴てるパンを食べたちゃったみたい。」
「はぁ!?本当に貴族って馬鹿だな。いい値するんだからしっかりしてくれよな。」
監守は面倒臭そうに腰の鍵束から1本を取り出し、錠を外して檻の中に入った。
女の子が監守をメルトのところへ誘導し、周りの子供たちも心配そうに集まる。
監守が屈んでメルトを抱きかかえようと顔を近づけてきた、その瞬間――
思いっきり頭突きを喰らわせた。
「ぐっ・・・。」
悲鳴にならない悲鳴を合図に、子供たちが一斉に監守へ飛びかかった。
「日頃の恨み思い知れ!」
監守の鍵束を奪って牢を抜けた。
鍵束を奪い取り、牢を抜ける。
牢のある部屋と外界を隔てる扉が一つ。
この外がどうなっているか、誰も知らない。
そっと鍵を回し、おそるおそる扉を開けると、階段が現れた。
誰もいないことをいいことに、子供たちは歓声を噛み殺しながら階段を駆け上がっていく。
メルトは嫌な予感がした。
そんなにうまくいくはずがない。
階段の先に何があるか、もっと慎重に見極めなければいけないのに。
だけど、大きな声を出すわけにはいかない。
その時――
上の階で、怒声が響いた。
「お前ら、どうしてここに!」
階段の途中にいたメルトの耳に、椅子が床を引きずる音、誰かが立ち上がる気配、複数の足音が一斉に動く気配が、まるで“地響き”のように伝わってきた。
――見つかった。
一気に血の気が引いた。
マズい。僕の魔法で何とかしなくちゃ。
メルトは階段を駆け上がった。
酒場だった。
薄暗い灯りの中、大人たちが一斉にこちらを振り返る。
メルトは氷柱を作ろうとして構えた。
その瞬間――手に白熱灯のような光が宿った。
「おい、こいつ魔法が使えるぞ!」
ざわめきが走る。
光が点滅し、ふっと消えた。
「!? どうして……」
信じられない。
息をするように使ってきた魔法が、突如として使えない。
「驚かせやがって!」
大人たちが襲いかかってきた。
その瞬間――
店の扉が破られ、警官隊が突入した。
代官所管の警官隊。
もちろん、メルトを探して人身売買のアジトを虱潰しに探してきた部隊だ。
しかし、店は混乱し、誰も状況を把握できない。
「今のうちに逃げよう!」
女の子がメルトの腕を強く引いた。
二人は窓へ走り、ためらう暇もなく外へ飛び出した。
外に飛び出した瞬間、夜の歓楽街が広がっていた。
灯りが滲み、酒と香の匂いが混ざり合い、笑い声と喧騒が渦を巻いている。
「ここはどこだ……?」
メルトは立ち尽くした。
「ここは、ミラだよ。」
女の子は得意げに答えた。
「ミラ……? ……マリアの嘘つき。」
ミラは公爵領の中心街で、代官屋敷と教会しかない――
マリアはそう言っていた。
それは、彼女にとって“見るべきものが何もない”という意味だったのだろう。
だが、今目の前にあるのは、夜の光と欲望が渦巻く歓楽街。
誰を頼ればいい?
誰が信じられる?
「とりあえず逃げよう。私のいた教会が近くにあるの。」
土地勘ゼロのメルトには、ついて行く以外の選択肢はなかった。
*
教会は街の端にあり、外の喧騒が嘘のように静かだった。
ずっと走り続けてきた二人の息は荒く、鼓動が耳の奥で鳴っていた。
重い木戸をギギィと押し開ける。
正面の祭壇には宿り木のリースが掛けられ、蝋燭の火が揺れ、
一人の神官が厳かに祈りを捧げていた。
「祭司様、ローズが帰って来ました!」
女の子は嬉しそうに声を上げた。
神官はゆっくりと振り向いた。
慈悲深い笑みを浮かべながら――その目だけが、まったく笑っていなかった。
そして、静かに言った。
「飛んで火に入る夏の虫。」
なんだか様子がおかしい。悪役令嬢異世界転生ものって、もっとほんわかしているものじゃなかった?




