蝕6
国王はブラックリリー公爵家が嫌いだ。公爵家は、竜さえ押さえていれば王家にどんな態度をとろうと許されると思っているようだ。そもそも竜などこの世に存在するのか怪しいし、未だに竜を守っているなどということは、はいそうですかとは信じられない。ただ全否定なのかといえばそうではなく、存在するかもしれないと頭の片隅で微かに思っていた。建国神話と建国時からある守り人職。これらは王の関与できないところで成立しているが、それ以外にもその可能性を示すものはある。カサブランカとリコリスの国境は山脈であり、公爵領は北西に、北東は王家の直轄地になっている。この直轄地は昔から材木の産地であり惑いの森のようなものはかなり昔に消失していた。王都は国の東寄りにあるわけだからカサブランカを侵略するのであれば、北東から侵入した方が効率がいい。しかし、国王がリコリスと同盟を結ぶ契機となった戦争は公爵領で起きている。凡そ10年前にも民兵に偽装したリコリスの小部隊が公爵領に侵入している。なぜ公爵領ばかりに侵入するのだろうか。このことを考えると、リコリスはカサブランカを取ろうとしているのではなく、竜を目覚めさせて国を混乱に陥れようとしているのではないかという疑念が生じる。それはそうとして、王はアストラガスとの戦争に乗じて小うるさい公爵を政治的に干すつもりでいた。それなのに近衛に混ざった腐った林檎のせいで台無しになってしまった。
夜分、マニサ侯爵は昏迷状態のメルトを公爵家へ帰した。公爵家相手にただで帰せるはずもなく、王の私的な謝罪文と王の私印を押した金額白地の慰謝料支払いを約束した証文を差し出した。しかし公爵の怒りは収まらない。「王はどれだけ我々を馬鹿にすれば気が済むのだ。竜を目覚めさせるくらい簡単なことだ。守り人がいなければどうなるか思い知るがいい!」
マニサ侯爵は跪いて許しを請うた。
メアリは公爵夫妻とマニサ侯爵のやり取りを盗み聞きしてメルトのベッドの脇に座っているマリアに報告した。
「メルティ様は近衛で貞操の危機に遭遇し、不埒な輩12人を一瞬で殲滅なさったそうです。やりました!」近衛嫌いになったメアリはウキウキと話した。
「は?貞操の危機?意味が分からないんですけど?」
「まぁ、お可愛らしいですからねぇ。お嬢様よりよっぽどピュアで女子。」
「何か言った?」「いいえ、何も申しておりません。」メアリは緩んだ顔を引き締めた。
「返り討ちにしたのなら、どうしてこんなことになっているのよ。」さっぱり訳が分からない。
「メルティ様は、猫についたノミかダニしか殺したことがございませんので。」
しかも水を張った容器に目の細かい櫛で梳き落としている。
まったく、どういうつもりで剣術を習っているのか。男のロマンが聞いて呆れる。
マリアは、はたと気づいた。「・・・私、この後の展開、完全に読めたわ。」
自分のせいでダニが死んだと大泣きしている未来が見えた。
「私もです。」メアリにも見えた。
翌日、昏迷から覚めたメルトは期待を裏切らない。
「うん?メルティ。そんなに辛いならお姉さまが時間を戻して記憶を消してあげましょうか?」「姉さまのバカぁ!」
マニサ侯爵は公爵のご機嫌取りに公爵家に通っている。ついでにメルトに会って王子の手紙を渡したかったが、会うことはできなかった。そのような中、公爵家の北領から急の知らせが来た。
――― リコリスより侵入者あり。只今竜の尾で交戦中。
公爵は思わず立ち上がった。
「馬鹿な、炎熱の門を突破したというのか!?」
守り人の住んでいる辺りの地形は、もともと平坦であったが、竜が暴れて山々と窪地ができたと言われている。惑いの森から守り人の住む谷に入る北側の入口は丁度竜の尾ように細長い峡谷になっていて、入り口付近に炎の結界が張られていた。
「炎熱の門の火力が弱まっているように見えます。魔法が解けかけているものと思われます。」
「敵の人数は?」
「森に隠れており正確にはわかりません。おそらくは200程だと思われます。」
「こちらの兵力は。」
「ディスポルム家と山岳部隊が現在戦闘中、援軍として3中隊を派遣しました。その他のご家門にも協力要請中です。」
山岳部隊は50人ほどである。山岳戦、森林戦は人数が多ければいいというものではないが、心もとない。ディスポルム家は火魔法の家系で炎熱の門の炎はこの家に由来する。
よりによってこんな時に!
公爵は腹立たし気に侯爵に言った。「王宮のせいで守り人が使いものにならない。もしもの時は協力をお願いしますよ。」
メルトはまだ幼く実戦投入できるとは思わないが、こうでも言わずにいられなかった。
リコリスは本当に気持ちが悪い。まるでこちらが動けないのを知っているかのようなタイミングでやってくる。前回の襲撃はエイリスが身重な時だった。
――― アーネストが死んでからもう10年にもなるのだなぁ。
公爵はマリアを連れてメルトの部屋をノックした。小さな返事が返ってくる。
メルトはカーペットの上で巨大な猫を抱きしめている。その様子はあまりにも幼い。
公爵は揺り椅子に腰かけて少し揺らしてみた。「そろそろ、大人の部屋を用意しないとな。」
メルトの目には何の感情も浮かばなかった。
「ところで、私は北領に至急帰らなければいけなくなった。君に話すべきかどうか迷ったが、知っておいた方がいいと思うんだ。」
メルトが不安そうに見つめる。
「惑いの森に敵が侵入した。守り人の谷が危ない。」
公爵は伝令が話したことをそのまま伝えるだけ伝えて部屋を出た。何かを期待してはいけない。まだ子供なのだから。
「姉さま、僕どうしよう。敵?僕は戦わないといけないの?」
竜の守り人は竜を操るものだとばかり思っていたが、本当に守るらしい。近衛の体を食い破る氷の刃が脳裏をよぎった。
「もし、あなたが戦うようなことになるとしたら、公爵家の兵団は壊滅したということだわ。大丈夫よ、みんな強いから。」マリアはできるだけ明るく言った。
壊滅。死んだ近衛の顔が見知った優しい人たちの顔に変わった。今でも時折訪れている美しい場所が壊されるかもしれないことにも胸が痛む。
「姉さま、僕、行こうと思う。」メルトの目が急にしっかりした。
「じゃぁ、お姉さまも行かないとね。」マリアはさも当然のことのように言って微笑んだ。
「なんで?」
「あなたは私がいないとダメでしょ?」当然。
「そんなことないもん!」「そんなことある!寧ろなかったことを上げてごらんなさい。」「うぐ。」
メルトはルルを連れてフルドラのところに行った。
「見るだけよ。」マリアが言う。フルドラの背中を覗いて竜の尾の様子を見た。
一面雪景色の中、火炎の門が赤々と燃えていた。門というより回廊と言った方がふさわしい長さがあった。
「もっと近づけない?」メルトが言った。
「は!?僕が断れないからって精霊使い荒すぎ!」フルドラはむくれた。
谷底には火炎の門を突破した敵との交戦の跡が残っている。峡谷の上は味方が取っており、魔法使いが3人がかりで門に火を足していた。敵は峡谷の上を取ろうと散発的に襲撃しているが、今は休みのようだ。
「ねぇ、あの門ってどういう仕組みで燃え続けているの?」門には魔法使いが常駐しているわけではないと聞いたので素朴に疑問だ。火を足すことならメルトにもできるけど、何年もメルトなしで燃え続けるなんて考えられない。可燃性のガスでも噴き出しているのだろうか。
「あの炎の中心にはメルティのお父様の剣があるのよ。」
「え!?」
「だからあの炎はあなたを傷つけないし、あの3人も傷つけない。」マリアはメルトの父方の親類だとそっと教えた。守り人は公爵家以外の影響を受けないように外戚関係が断たれている。メルトは3人をまじまじと見つめた。祖父と父と孫だろう。自分に似ているかと言えばよくわからない。メルトは母方の血の方が濃いらしい。
不意に敵の襲撃が始まった。メルトは思わず身を乗り出し、マリアは慌てて引き留めた。
火の魔法使いを兵士が守っている。見方は火の魔法使いを置いて進むことも退くこともできないでいる。火の魔法使いに敵が迫っている。
「ねぇ、姉さま、どうやってあの火は燃え続けているの?このままではよくない。」メルトはハラハラしながら聞いた。
マリアにもそれはわかる。こんな状況はいつまでも続けられない。戦場は上で剣は下にある。
「ねぇメルティ。あのくらいの炎なら作れるわよね?」「うん、問題ないと思う。」
「一瞬でできる?」「うん、大丈夫。」
「じゃぁ、ルルを炎から守ることは?」「絶対守るよ!」
「じゃぁ、谷底の剣を媒体にして火炎の門を復活させなさい。」「剣に秘密があるの?」
「行けばわかるわ、ルル!」
マリアの意を酌んだルルがフルドラの背から飛び出し本来の大きさに戻ると、メルトが飛び乗りマリアも飛び乗った。
「なんで姉さまも乗るんだよ!」
「前を向いてちゃんと掴まる。振り落とされるわよ。」
マリアはメルトの体に手を回して、ルルの横腹を蹴った。ルルは崖の岩棚を飛び移りながら器用に峡谷を降りていく。谷底には敵の遺体がいくつも転がっている。目の前の炎はメルトの炎と同じ。
――― 清祓の炎 メルトは自分の手に炎を作り中に飛び込んだ。メルトの炎と父の炎が混ざって自分の魔法になった。炎の中心で剣は地面に刺さっていた。手を守るバスケットヒルトが百合の花の透かし彫りになっていて美しい。10年近く野ざらしだったとは思えなかった。メルトとマリアはルルの背から飛び降り剣の前に立った。この剣を父が握っていた。触れたいと思うのと同時に、手を重ねることで剣に宿る父の記憶が消えてしまうのではないかと恐れた。
「メルティ?」
悠長にしている暇はない、ここは戦場だ。思い切って柄を掴み自分の火魔法を叩き込んだ。炎はぶわっと広がり、一気に峡谷の上まで這いあがった。
これでいい?マリアを見る。
するとマリアは、何を考えたのか同じように柄に手を伸ばした。
「あっつい!」マリアが叫ぶ。それはそうだろうと思わず笑った。が、マリアのしようとしたことが分かった。
「無理はしないで。何度でも来ればいいのだから。」メルトは柄の上に氷魔法をかけた手を置いてマリアがその上に手を重ねた。
「そうね、何度でも来ればいいのだわ。」マリアは時を止める魔法を剣にかけた。
次の瞬間、マリアの手から力が抜けて体勢を崩した。マリアの嘘つき。メルトは急いでマリアを抱えてルルの背に乗った。ルルは岩棚をぴょんぴょんと駆け上がる。峡谷の上にたどり着くと味方が気になって振り返った。魔法使いたちはもう味方を助けに走っていた。立ち止まるな、早く行け!そう叫ぶ声が聞こえた。
メルトは公爵邸に戻ると急いでみんなの助けを求めた。みんなは血の気の退いた顔のマリアを見て驚くが、それよりももっとメルトの豹変ぶりに驚いた。
「大丈夫。この戦闘、きっと勝つから。」メルトは自信満々に言った。
ついさっきまで、べそべそと泣いていたのはどこの誰でしょう?公爵家の雰囲気がどことなく明るくなった。
公爵家は守り人の谷を守り切った。
この日からメルトは変わった。魔法を隠すのを止めた。
近衛の稽古場で、魔法と剣で隊士たちをこてんぱんに打ちのめした。
「死なないようにすることの方が難しいや。」片足を倒れた兵士の上に載せて呟いた。
「化け物。」誰かが言った。
そんな言葉、もう笑って聞き流すことができる。「僕は魔法の使い手であることに誇りを持っている。僕は僕らしく生きることに決めたんだ。」
メルトは足下の兵士を蹴り飛ばすと王子を振り返った。
「ねぇ殿下、僕はまだ学生ですよね?学ぶものがない場所に来る必要、ないですよね?」




