蝕6
国王はブラックリリー公爵家が嫌いだった。
公爵家は竜さえ押さえていれば王家にどんな態度を取ろうと許されると思っている――
そう見えて仕方がない。
そもそも竜など本当に存在するのか怪しい。
未だに竜を守っているという話も、はいそうですかとは信じられない。
ただ、完全に否定しきれない理由もあった。
建国神話と、建国時から続く守り人職。
それらは王の関与できないところで成立している。
さらに、リコリスとの国境は山脈で、公爵領の北西側ばかりが侵入を受けてきた。
十年前の戦争も、民兵に偽装したリコリスの小部隊の侵入も、すべて公爵領だ。
なぜ公爵領ばかりなのか。
このことを考えると、リコリスはカサブランカを取ろうとしているのではなく、
竜を目覚めさせて国を混乱させようとしているのではないか――
そんな疑念が生じる。
それはそれとして、王はアストラガスとの戦争に乗じて、公爵を政治的に干すつもりでいた。
なのに、近衛に混ざった腐った林檎のせいで、すべて台無しになってしまった。
*
夜更け、マニサ侯爵は昏迷状態のメルトを公爵家へ送り届けた。
ただで返すわけにはいかず、王の私的な謝罪文と、王の私印を押した金額白地の慰謝料証文を差し出した。
しかし、公爵の怒りは収まらない。
「王はどれほど我々を侮れば気が済むのだ。
竜を目覚めさせるなど造作もない。
守り人がいなければどうなるか、思い知るがいい。」
その言葉に、侯爵は跪いて許しを請うた。
メアリは、公爵夫妻とマニサ侯爵のやり取りを盗み聞きし、メルトのベッド脇に座るマリアへ報告した。
「メルティ様は近衛で貞操の危機に遭遇し、不埒な輩十二人を一瞬で殲滅なさったそうです。やりました!」
近衛嫌いになったメアリは、妙に嬉しそうだ。
「は?貞操の危機?意味が分からないんだけど?」
「まぁ、お可愛らしいですからねぇ。お嬢様よりよっぽどピュアで女子。」
「何か言った?」
「いいえ、何も。」
マリアは呆れたようにため息をついた。
「返り討ちにしたのなら、どうしてこんなことになっているのよ。」
「メルティ様は、猫についたノミかダニしか殺したことがございませんので。」
しかも水を張った容器に、櫛で梳き落としている。
どういうつもりで剣術を習っているのか。
マリアは、はっとした。
「……この後の展開、完全に読めたわ。」
自分のせいでダニが死んだと泣き出す未来が見えた。
「私もです。」メアリも同じ未来を見た。
翌日、昏迷から覚めたメルトは期待を裏切らなかった。
「うん?メルティ。そんなに辛いなら、お姉さまが時間を戻して記憶を消してあげましょうか?」
「姉さまのバカぁ!」
マニサ侯爵は、公爵の機嫌を取るために公爵家へ通っていた。
ついでにメルトへ王子の手紙を渡したかったが、会うことはできなかった。
その夜、公爵家の北領から急報が届いた。
――― リコリスより侵入者あり。竜の尾にて交戦中。
公爵は思わず立ち上がった。
「馬鹿な、炎熱の門を突破したというのか。」
守り人の谷へ続く北側の峡谷は、竜が暴れた跡だと言われ、入口には炎の結界――炎熱の門が張られている。
「火力が弱まっているように見えます。魔法が解けかけているものと思われます。」
「敵の数は。」
「森に隠れて正確には不明ですが、二百ほどかと。」
「こちらは。」
「ディスポルム家と山岳部隊が戦闘中。援軍として三中隊を派遣しました。他家にも協力要請中です。」
山岳部隊は五十名。心もとない。
炎熱の門を維持するディスポルム家が前線にいるのも痛い。
公爵は侯爵を睨んだ。
「王宮のせいで守り人が使いものにならない。もしもの時は協力をお願いしますよ。」
メルトはまだ幼く実戦投入はできない。だが、こうでも言わずにいられなかった。
リコリスは本当に気味が悪い。こちらが動けない時ばかり狙ってくる。
前回の襲撃はエイリスが身重の時だった。
――― アーネストが死んでから、もう十年か。
公爵はマリアを連れてメルトの部屋をノックした。
小さな返事が返る。
メルトはカーペットの上で巨大な猫を抱きしめていた。あまりにも幼い姿だった。
公爵は揺り椅子に腰を下ろし、軽く揺らした。
「そろそろ、大人の部屋を用意しないとな。」
メルトの目には何の感情も浮かばない。
「私は北領に至急戻らねばならなくなった。君にも伝えておくべきだと思ってね。」
メルトが不安そうに見上げる。
「惑いの森に敵が侵入した。守り人の谷が危ない。」
公爵は伝令の内容だけを告げ、部屋を出た。
何かを期待してはいけない。まだ子供なのだから
「姉さま、僕どうしよう。敵?僕は戦わないといけないの?」
声が震えていた。
近衛の体を食い破った氷の刃が脳裏をよぎる。
守り人は竜を操る者だと思っていた。本当は、竜の眠りを守るために戦うらしい。
「もし、あなたが戦うようなことになるとしたら、公爵家の兵団は壊滅したということだわ。
大丈夫よ、みんな強いから。」
マリアはできるだけ明るく言った。
けれど“壊滅”という言葉が、メルトの心に深く刺さった。
死んだ近衛の顔が、北領でお世話になった優しい人たちの顔に変わった。
今でも時折訪れる美しい場所が壊されるかもしれない。
胸がぎゅっと痛んだ。
「姉さま、僕、行こうと思う。」
メルトの目が急にしっかりした。
自分が動かなければ、誰も守れない。
恐怖の奥に、静かな決意が灯った。
「じゃぁ、お姉さまも行かないとね。」
マリアは当然のように微笑んだ。
「なんで?」
「あなたは私がいないとダメでしょ?」
「そんなことないもん!」
「あるわよ。なかったことを上げてごらんなさい。」
「うぐ。」
メルトはルルを連れてフルドラのもとへ向かった。
「見るだけよ。」マリアが言う。
フルドラの背から竜の尾を覗くと、雪景色の中で火炎の門が赤々と燃えていた。門というより、長い回廊のようだった。
「もっと近づけない?」
「は!?精霊使い荒すぎ!」フルドラはむくれた。
谷底には突破した敵の遺体が散らばり、峡谷の上では味方が火の魔法使いを守りながら、三人がかりで炎に火を足していた。
「ねぇ、あの火ってどうやって燃え続けているの?」
メルトは素朴に尋ねた。
「あの炎の中心には、あなたのお父様の剣があるのよ。」
「え!?」
「だからあの炎はあなたを傷つけないし、あの三人も傷つけない。」
マリアはメルトの父方の親類だとそっと教えた。
守り人は、公爵家以外の影響を受けないよう外戚との接触を断たれていた。
不意に、敵の襲撃が始まった。
火の魔法使いに敵が迫っている。
「ねぇ、姉さま、どうやってあの火は燃え続けているの?このままではよくない。」
メルトはハラハラしながら聞いた。
マリアにもそれはわかる。
戦場は上で剣は下にある。
このままでは門が崩れる。
「メルティ。あのくらいの炎なら作れるわよね?」
「うん、問題ない。」
「一瞬で?」
「できる。」
「ルルを守れる?」
「絶対守る。」
「じゃぁ、谷底の剣を媒体にして火炎の門を復活させなさい。」
「剣に秘密があるの?」
「行けばわかるわ。ルル!」
ルルは本来の大きさに戻り、メルトとマリアを乗せて峡谷を降りた。
谷底には遺体が転がり、炎は、メルトの炎と同じ色をしていた。
――― 清祓の炎。
メルトは自分の手に炎を作り、そのまま火の中へ飛び込んだ。
父の炎と自分の炎が混ざり、ひとつの魔法になった。
炎の中心で、剣は地面に突き立っていた。
百合の透かし彫りのバスケットヒルトは、十年近く野ざらしとは思えないほど美しかった。
メルトとマリアはルルの背から飛び降り剣の前に立った。
触れたい。
でも触れれば、剣に宿る父の記憶が消えてしまう気がした。
「メルティ?」
悠長にしている暇はない。ここは戦場だ。
メルトは思い切って柄を掴み、火魔法を叩き込んだ。
炎はぶわっと広がり、一気に峡谷の上まで這い上がった。
「これでいい?」
マリアを見る。
マリアは何を思ったか、同じように柄に手を伸ばした。
「あっつい!」
思わず笑ったが、マリアの意図に気づいた。
「無理しないで。何度でも来ればいい。」
メルトは柄に氷魔法をかけ、その上にマリアが手を重ねた。
「そうね。何度でも来ればいいのだわ。」
マリアは時を止める魔法を剣にかけた。
次の瞬間、マリアの手から力が抜けた。
メルトは急いで抱え、ルルに飛び乗った。
峡谷を駆け上がると、火の魔法使いたちは味方を助けに走っていた。
「立ち止まるな!早く行け!」
叫びが響いた。
メルトは公爵邸に戻ると急いでみんなの助けを求めた。
みんなは血の気の退いた顔のマリアを見て驚くが、それよりも、メルトの変わり様に驚いた。
「大丈夫。この戦闘、きっと勝つから。」
メルトは自信満々に言った。
ついさっきまで、べそべそと泣いていたのはどこの誰でしょう?
公爵家の雰囲気がどことなく明るくなった。
*
公爵家は守り人の谷を守り切った。
その日を境に、メルトは変わった。
もう魔法を隠さない。
近衛の稽古場で、魔法と剣を合わせて隊士たちを次々と打ち倒した。
「死なないようにする方が難しいや。」
倒れた兵士の上に片足を置き、静かに呟いた。
「化け物。」
誰かが言った。
そんな言葉、もう笑って聞き流せる。
「僕は魔法の使い手であることに誇りを持ってる。僕は僕らしく生きることに決めたんだ。」




