エピローグ(前編)
すみません、体調不良により一週間ほど何も出来ずここまで更新がずれ込んでしまいました。
更に悪い癖で話が長くなってエピローグが二話に成ってしまいました。
エピローグ(前編)
遙かなる天頂を目指して私は蒼空を駆け上った。
操縦席の防弾ガラス越しに見える空が、最初は靄が掛かった白っぽい青から次第に青が濃さを増してゆき、やがて青は蒼へと色合いを変えてゆく。
計器盤の高度計へ目を向けると間も無く予定高度の八〇〇〇メートルへ達するところだった、私は操縦桿を押して上昇姿勢の機体を水平飛行へと移行させた。
予定高度で水平飛行に移ったのを確認してスロットルを少し引いて発動機の出力を下げて五〇〇km/hの巡航速度に機速を落とした。
機体の高度と進路、速度を固定させて、後続を待つ間に私は周囲を見回した。視界を遮るのは風帽の枠のみ、澄み渡った蒼空に見えるのは同じようにこの空に足を踏み入れた友軍機の姿だけだった。
高度八〇〇〇メートルの世界、そこは清明なる世界、人跡を残すことは許されない神の領域であった。この空間に何の装備もなく人が立ち入れば一分と意識を保つことは出来ない、そしてやがて死が誘う世界に召される事になる。
実際に高度八〇〇〇メートルでは気圧は概算であるが地表の約三割に過ぎない、そうなれば当然我々に必要な酸素も三割となる、更に気温は零度を大きく下回る氷点下三五度と成るのだ。
とてもではないが人が生存できる場所ではない。
故に、航空機がこのような高高度を飛行する時には、必ず欠乏する酸素を補うマスクとボンベ(帝国陸海軍では酸素ビンと呼称する)、氷点下三五度を下回る低温に耐えるための電熱服などの装備が必要であった。
当然、そう言った装備は私がこれまでに搭乗してきた零式艦戦や局地戦闘機〈蒼電〉等にも常時使用されており、それを着けての戦闘は負担では有ったが必須の装備であり、その故障は戦闘以前に命を失う可能性の要因となっていた。
だがこれらの装備によって高々度における航空機の運用の問題が全てが解決されるかと言えば答えは❝否❞である。
搭乗員以外にも高高度に於いての空気の薄さが問題となるモノが有ったのだ。
搭乗員と共に希薄な空気が問題となるモノ、それは航空機にとって必要な推力を与える発動機であった。
航空機用の発動機は、形式を問わず燃料と空気を必要とする内燃機関である、それはレシプロであろうと燃焼エンジン(ジェットエンジンの当時の名称)であろうと、星形空冷であっても水冷(液冷)であっても、日本の〈栄〉やアメリカの〈ツインワスプ〉であってもその原理は変わることがない。
しかし、その必要な空気が上昇して高度を上げるに従って薄くなるのだ、単純な例だが 高度五〇〇〇メートルの空気は一般に地表の半分と言われている、従って燃焼に必要な酸素も半分となればいくら燃料が有っても出力を出すことは不可能である。
そこで登場するのが「過給器」と呼ばれる部品、正確には補機である。原理は意外と単純で薄くなった空気を遠心圧縮機で加圧して地上と同じかそれに近い条件として出力を維持しようというものであった。
一般に過給器と言った場合は発動機の出力軸から動力を得て加圧する機械式過給器を指す、これは既に第一次大戦時より登場している技術あった。
その為、我々が使用した零式艦戦の〈栄〉や〈蒼電〉の〈魁〉にも当然搭載されていた、これらの星形発動機では後方基部に設けられている例が多くこれらも例外では無かった。
この過給器にも幾つかの形式があり、性能諸元の中に一段一速や一段二速と書かれているのがそれである。
ただこれにも問題、或いは限界が有った。それは圧縮機を出力軸から歯車を介した動力で駆動しているため少なからぬ出力損失が有ったことと、その歯車が重く発動機の重量を増加する結果と成ってることであった。
加えて我が国の圧縮機は英米独のそれに比べて効率が悪いといった事実も有って、高高度での発動機の出力不足は大戦全期わたる技術的問題であった。
勿論これにも解決策はある。
発動機内で燃焼を終えて排出される排気ガスには意外なほど力がある。それは航空機、特に戦闘機では排気管をエンジンカウルの後ろから進行方向後方に向けて設置し、推進効果を狙う推力式単排気管と呼ばれる装備が有る、つまりそのくらい強力な力を持っている言っていいだろう。
その排気ガスを使って圧縮機を回すようにしたのが、「排気タービン過給器」と呼ばれる補機であった、聞き慣れない名称だが現在では「ターボチャージャー」と呼ばれて軽自動車にまで搭載されているお馴染みの装備である。
この排気タービン過給器は、圧縮機の動力として排気ガスを使用しているで出力的損失は少ない、加えて多数の歯車を有しないので重量的にも好都合である。
しかし、ここにも問題は有る、実は我が国では大戦末期までほとんど排気タービン過給器は研究用或いは開発段階の物しか無かった。
対して米軍はお馴染みのB-17やB-24と言った重爆撃機やP−38やP-47等の高高度戦闘機に戦前より大量生産されて装備されていた、ここれは我が軍にこの点でも大きな遅れを有していることを示していた。
主な問題は排気ガスで加熱され高温となる排気タービンが使用に耐えられる物が作れないことに有った。
それでも我が国の技術者達は血の滲むような苦労の末、何とか使用に耐えられるタービンの開発に一応の成功をおさめる事ができた。
今、技術者達の血の結晶は、我が愛機に高度八〇〇〇メートルに於いても戦闘に充分な出力を与えてくれていた。
やがて後続の三機が私の乗機に追いつき編隊を組んだ。
今一度、操縦席から周囲を見渡し視線を下方へ向けた。足元に広がる海もまた空と同じように蒼く幾つもの雲の塊を浮かべいていた、既に私達が離陸した硫黄島は足元に小さくなり、今は遥か後方へと姿を消していた。
昭和二〇年(一九四五年)四月、私は硫黄島を遥かに望む高度八〇〇〇メートルに居た。
昭和十七年(一九四二年)十二月のテ号作戦に於けるショートランド泊地上空の戦闘で負傷した私は怪我の治療と機能回復の為に内地へ帰還を命じられた。
私は上官である小橋中尉を敵の攻撃から守る為に盾となり、敵の銃撃に我が身を晒す事と成った。
敵弾は私の愛機の至る所に弾痕を穿ったが当然操縦席周辺にも多数が着弾している。
不幸中の幸いと言うべきか、〈蒼電〉には基本と成った陸軍の二式戦闘機〈鍾馗〉の時代より装備されていた装甲板は背後を覆っていた、これと機体の構造材に阻まれ怪我の多くは跳弾や着弾した際の衝撃で発生した破片による裂傷が中心であった、しかし、それでも装甲板を貫通した銃弾の一発が私の左上腕を砕き、風帽の破片が左目に突き刺さる致命傷を与えていった。
その怪我は重篤であったと言う、特に左腕上腕部の複雑骨折は負傷の直後に処置にあたってくれた海軍病院船の軍医のおかげで切断を免れたと聞いている。
左目の怪我は失明は免れたが視力の回復が思わしくなく慎重な治療と機能回復が必要とされ内地への送還と相成った次第である。
私はその後、内地で療養と機能訓練に専念したが軍医より搭乗許可が降りたのは戦傷を受けて半年の後の事であった
漸くの軍務への復帰、しかし、戦傷が癒えたばかりで体力が著しく落ちていた上、戦場から離れて半年で感も鈍っていたことから、私は実戦部隊ではなく教育隊への教員配置となり霞ヶ浦飛行隊へ配属と成った。
教員として搭乗員を目指す若者を指導教育する仕事はやり甲斐はあっやが、けっして楽では無かった、従来より我帝国陸海軍は搭乗員育成に当たって少数精鋭行ってきた。要は大量の搭乗員を抱えるだけの財政的余裕が無かったからであるが、戦争の激化とそれに伴う搭乗員の消耗により大量の搭乗員を育成する必要性に迫られた時、これまでの育成計画は破綻し急ぎ新たな搭乗員を育成してゆく必要に迫られ事と成った。
その結果、訓練に当てられる時間は年を追うごとに短くなって行き。かつては不適任とされた資質の者まで搭乗員として採用されており、正に粗製濫造と言う感があった。
我々教員や教官は、それで良しとは出来ず少しでも力を付けて生き残り国の為に働けるようにと指導したが、その時間があまりに足らなかった、生き残れるよう充分力を付けさせたいと言う思いと、一刻でも早く戦地に送り出し苦戦する仲間たちを支えたいとの思いが、ぶつかり合い葛藤する日々が毎日続いてたと記憶している。
しかし、教育隊での教員生活も半年余りで終わりを告る事と成った、実戦部隊への異動の辞令を受けたのである。
移動先は以前、私が所属していた二〇四空であった。
古巣に戻り、念願の実戦部隊への復帰かと思った私であったが、与えられた任務は日本本土から島伝いにトラック諸島、或いはラバウルまで機体を運ぶ仕事であった。
当時は、帝国陸海軍がガダルカナル島から撤退し更に進攻を目論む米軍を中心とする連合国軍と戦線を縮小して立て直した我が陸海軍の激戦が繰り広げられていた頃で南方の戦線では一機でも多くの戦力が一日も早く補充される事を望んでおり、これに応える形で一刻も早く戦闘機を送り届ける必要に迫られていた。
となれば手っ取り早いのは日本軍機独特の長い航続距離を活用して直接戦場まで送り届けると事だ。
勿論前例が有り、それには私も関わっていた、本作第一話で記したように過去には本土から直接零式艦戦隊が硫黄島、トラック島を経てラバウルまで進出していた。
つまり私はその経験を買われたらしい。
そして二〇四空は度重なる戦力の消耗を回復するため本土へ戻ってきており、部隊の補充と再編と途上であり戦場へは出れない状態であった、だが切迫した情勢は悠長に回復を待つ時間を与えあず、錬成の途中の搭乗員を活用しての機体運搬任務の様な洋上での長距離飛行を体験させる調度良い機会とされたのである、と言っても経験が浅い搭乗員(ジャクとも言われる。)のみにこの任務を行わせるのには不安が有った、そこで経験者を含む熟練搭乗員をその指導員として組み込むまれたわけである、教員の経験者で実際に本土からラバウルまで飛んでいる私はその最適任者としてお声が掛かったと言うのが事実であったようだった。
実際に私達が担当したのは、本土からトラック諸島までの運搬であり、その多くは零式艦戦であった、もっともこの時の零式艦戦は第三世代である五四型で、外見的特徴は発動機が一五〇〇馬力の金星六二型へと換装されたため機首の7、7ミリ機銃を廃止しされてカウルの形状が大きく変わっていた、翼は三二型乙で使用された短縮翼で翼端は丸く整形されているのが三二型との相違点だった。
武装も変わっていた、廃止された機首の七、七ミリ機銃に代わって十二、七ミリを翼内に増設していが、対戦闘機用として翼内砲を一二、七ミリ四門にした物も造られている〈五四型甲)。
同時に防御力の向上も図られており防弾板と防弾ガラスと自動消火式の燃料タンクが一部使用されていた。
こうした性能向上の新型零式も、敵が強力なF6F等を投入しこちらの損害が大幅に増えて搭乗員の質的低下が顕著になった事で有効に使用されたとは言えない状況成っていた。
この運搬任務は長距離飛行が必要でジャクには荷が重い任務であり、敵襲も少なからず有った事から私が担当した一ヶ月の間にも相当数の犠牲が出ていた。
ただ私には戦場間近へ行くことから搭乗員仲間と顔を合わせる機会も有ることからそれなりに充実した一ヶ月と言えた。
私は、この一ヶ月の運搬任務の後、奇しくも二〇四空でブイン時代に世話になった小福田少佐に引き抜かれる形で空技廠の審査部へと移動となった。
少佐が私を引き抜いたのは、〈蒼電〉へ実戦において搭乗しなおかつ戦闘経験が有るという点で、私が担当することと成ったのは、〈蒼電〉の後継機である新型局戦の試製〈瞬雷〉であった。
この機体も〈蒼電〉同様、立川と中島飛行機の合作で今回は新型艦戦の零式艦戦五四型でも使用された金星発動機に排気タービン過給器を装備した六二型ルを搭載した高高度戦闘も考慮された機体で、武装は九九式二〇ミリ2号機銃四門と強力で防弾装備も完備とまでは言わないまでも充実したものに成っていた。
しかし、この機体の開発には予想通りに問題が多発した。
特にアキレス腱と成ったのが、前述の高高度用の装備である排気タービン過給器でっあた。
今日ではターボチャージャーとして自動車ではお馴染みの装備では有ったが、当時の日本では使用経験が少なく開発に苦慮していた、何しろ高温になるタービンを長時間稼働することが出来なかったのだ。
結局、私が試験官を務める間にこの問題を解決することは出来ず、過給器の装備は先送りされ最初に開発された〈瞬雷〉一一型では通常の金星六二型一四〇〇馬力が装備されることと成った、それでも局地戦闘機としては充分な戦力と成った為に既に老いが見える〈蒼電〉に変わって実戦配備と成った。
問題の過給器はその後も開発が続けられ、最終的に過給器を整備しやすい場所、主翼の後方、操縦席の後方下部へ設置して交換を容易とする苦肉の策を取ることで一応実戦での使用が可能としたが、既に次期局地戦闘機の開発が始まっており、これらの技術は次に活かされる事と成った。
前述の通り米軍は早くからこの排気タービン過給器付きの機体を運用しており製造、使用、整備の経験が豊富であった、彼らがそれを可能としたのは過給器を消耗品とみなして壊れなく作ることよりも整備と交換を容易とし事にあったと言われている。
こうして私が戦場の外縁をウロウロとしている間にも戦場において我が軍は守勢に立たされており。
昭和十九年(一九四四年)になると、その攻撃対象は南洋の本拠地であるトラック諸島と園周辺の島々にまで広がり、同年二月には敵艦載機の猛攻により壊滅的被害を受け絶対防衛圏であった内南洋の安全も脅かされる事態までに追い込まれていた。
こうした絶対防衛圏の危機的状況を打破すべく同年六月に開始されたあ号作戦において発生したマリアナ沖海戦に於いても劣勢を翻すことは出来ず、逆に新鋭装甲空母「大鳳」を始め、歴戦の空母である「翔鶴」「飛鷹」、ミッドウェーを生き延びた「飛龍」とその準同艦で竣工したばかりの「雲龍」と多数の艦載機が失われ実質的に空母機動部隊は壊滅した。
この海戦によって失われた多くの搭乗員の穴埋めとして私も空技廠の開発要員から実戦部隊への移動が命じられ皮肉なことに第一線への復帰が叶うことと成ったのである。
しかしながら、我帝国陸海軍の必死の抵抗も虚しく、その後も米軍の進攻の勢いは止まることは出来なかった。
昭和二〇年(一九四五年)二月十六日、日本本土攻略の第一歩とも言うべき硫黄島に対する米軍の侵攻作戦が開始された。
前書き通りに、体調不良による発熱で執筆に集中できずズルズルと更新が遅くなってしまい申し訳無かったです。加えて一両日の寒さで縮こまっていたのも理由の一つなんですが我ながら年食ったな~って思っています。
さて次こそ真の最終話です、ちょっと待って下さいね。
ここまでお読み頂きありがとうございます。誤字脱字が有りましたら感想ヘでも構いませんので一報下さい。勿論感想、批判、意見大歓迎です。




