エピローグ(中編)
やっとここまで書きましたが、すみませんまた文章の量が増えすぎまして結局エピローグは三つに分けて投稿しました。
エピローグ(中編)
昭和二十年(一九四五年)二月十六日、硫黄島周辺の海上は無数とも言える数の米軍艦艇に埋め尽くされた。
リッチモンド・ターナー中将指揮下の5個任務部隊は第五艦隊より抽出された精鋭部隊であった、彼らは上陸支援の為、海上より砲撃と艦載機による攻撃で事前の航空偵察で明らかに成っていた地上の攻撃目標を次々破壊した。
その準備攻撃は三日間に渡って行われ、この間に反撃を行った摺鉢山周辺の海軍管轄の海岸重砲陣地は位置を特定され瞬く間に砲撃を受けて破壊、全滅させられた。
戦後公開された当時の記録に拠れば、米太平洋艦隊司令部は硫黄島攻略に掛かる日数を五日と見ていた。
上陸支援の為の砲爆撃に三日、その後の上陸と占領に有する日数を五日、想定外の事態により手間を掛ける事を考慮して十日から二週間を攻略日程としていた事になる。
その根拠について、資料は次の内容を記していた。
先ず第一に攻略対象の硫黄島が面積二四平方km、海岸線長二二km程度の小島であること、そしてこの島の特性として活動中の火山島であることが上げられている。この事から地下に防御施設を構築することが困難と断定しその為に施設は地表に有ると判断、航空機により発見は容易であるとして、海上や艦艇による砲撃や艦載機の攻撃により破壊は容易であるとしていた。
続いて、同島を守備する人員については、指揮官は中央より左遷された人物であり、彼が指揮する守備隊も各地の敗残兵の寄せ集めで一万にも満たない人員であり士気が低いと判断、精鋭の海兵師団三個、総数六一〇〇〇の兵力を持ってすれば五日で攻略を完結することは容易である、或いは完遂しなければ成らないとされていた。
こうした米軍側の事情に対して、日本側にもこの島を失う訳にいかない理由が存在した。硫黄島が米軍に奪われれば本土を攻撃範囲に収める重爆撃機群に対する防御の最前線拠点を失うこととなり更に同島が敵の出撃拠点となれば本土防衛にとって深刻な脅威となるからである。
故にそこには名将と称されて良い指揮官と精鋭分隊が配属され事と成った。
守備隊指揮官栗林忠道陸軍中将指揮下の精鋭第一〇九師団を中心とした陸海2万は硫黄島に到着すると昼夜を分かたず陣地構築に邁進し、島中の地下に坑道を張り巡らせ、島全体を要塞と化して米軍を待ち構えて居たのだ。
先に記したように三日間の準備攻撃の後、米海兵隊が上陸用舟艇による上陸を開始したが
散発的な遭遇戦以外に戦闘は無く、日本側の数が一万以下との判断も有って、海岸の重砲陣地の反撃が唯一の組織的反撃との見方が現地の指揮官の間で共有化され、既に日本軍には反撃の戦力は無く、早々に千鳥飛行場も占領が完了したことから当初の予定通り五日で占領が完了するとの見通しを立てスプルーアンス大将は第54と58任務部隊に対して二月二十日をもって沖縄方面へ移動するように命じた、この結果、硫黄島周辺から大半の高速戦艦と護衛空母を除いた空母機動艦隊が姿を消すことと成った。
ハワイの太平洋艦隊司令部から見えれば、硫黄島攻略はその後に控えている日本本土への進攻の第一段階である沖縄戦に比較して重要性が高い作戦では無かった、沖縄戦では当然ではあるが何かと対立する陸軍との共同作戦と成る、それを考えると戦力を沖縄へ集中させる必然性が有った。
そうした事情から出された判断であったが、それは大きな誤りであった。
後に言う『米海軍司令部による太平洋戦争最大の誤断』によって航空機による上空援護を失った艦隊をその翌日には日本軍の航空隊がによる急襲が行われた。
横須賀を飛び立った陸海航空隊の混成部隊は八丈島を経て硫黄島近海に夕刻に到着、島周辺に遊弋する戦艦を含む艦隊には目もくれずその後方に控えたていた輸送船団へ向かった。
当時、米海軍は硫黄島攻略に必要な物資を満載させた輸送船団を引き連れていたのだ、海兵隊六一〇〇〇名分に必要な物資である、当然半端な量ではない。
低空から進入した陸海航空隊の各機は第一目標を護衛空母と護衛駆逐艦に定めていたと言われている。この二種の艦は対潜戦闘を主任務とする艦艇であった(今回、護衛空母は対地攻撃も担当していたが)。
つまり、航空隊の任務は彼らの耳を奪うことであったのだ、やがて混乱に乗じる形で船団内に侵入に成功した潜水艦からの雷撃が行われた。
この襲撃で輸送船の半数が失われ、米上陸部隊は一気に窮地に追い込まれる事と成る。
言うまでもなく米軍は当時としては世界も例外的とも言える機械化が進んだ軍隊である、それは陸軍だけではなく海兵隊も同様であった、移動用のジープやトラック、兵員輸送車や戦車などの移動手段や戦闘車両だけでなく、携帯火器も同様に機械化或いは自動化がされていた。
M1ガーランド半自動小銃やトンプソン短機関銃などを持つ米軍の歩兵の火力は自動化により、ボルトアクション式の三八式或いは九九式歩兵銃を持つ帝国陸軍の歩兵に比べて遥かに高い、しかし、この火力の高さは時には弱点にも成る、つまり補給が確実に成されない場合はあっという間に戦力を失うことに成るのだ。
この時の硫黄島上陸軍の状況が正にそれであった。
日本軍の守備隊は米上陸軍が飛行場に達するのを待って反撃を開始した、通常の日本軍からは想像しがたい密度で配置された速射砲や機関銃はそれまでの米軍の海空からの支援攻撃にもほとんど無傷で残されており、慎重に隠蔽された射撃壕から一斉に火を吹くことと成った。
速射砲が上陸途中の水陸両用トラックを穴だらけにし機関銃がそれから逃れて浜へ逃げようとした兵を薙ぎ払う、後方から発射された迫撃砲や重噴進弾が浜や未だ海中の車両や兵士たちを頭上から襲う。やっとの思いで上陸させたM4シャーマン戦車は兵士たちの盾となる前に高射砲の平射により浜辺から碌に進まない内に破壊されて動きを止めた、こうした被害の内で特に深刻であったのは噴進弾の一発が上陸させた物資の集積所に落下、全てを吹き飛ばす結果と成ったことであった、ここで先の問題に行き着く。
その集積所には食料や携帯火器の補充用弾薬が荷揚げされていたが誘爆で殆どが消し飛んだのだ、後方から届くはずの弾薬や食料といった物資は既に海中に没していた。
予期せぬ猛攻と敵地で兵糧攻め遭う形になった米海兵隊は三月十日に戦闘継続を断念、急ぎ撤退を開始し米軍の硫黄島攻略は挫折する結果と成った。
以後、帝国陸海軍はこの硫黄島を強固に守備、対米重爆撃機に対する重要な防御拠点として活用していた。
それ故に、我々はここ硫黄島に居たのだ。
二度とこの本土防衛の要となる島が奪われない為に。
そして、昭和二〇年(一九四五年)四月、私は硫黄島を遥かに望む高みに居た。
南方海上を警備中の徴用哨戒艇から警報が有って、我々が硫黄島基地の千鳥第二飛行場から飛び立って既に二〇分、飛行帽に組み込まれた空中電話の受聴器は硫黄島基地からの各種情報を明瞭に伝えてくれた。
それに拠れば、接近中の敵機はマリアナ諸島を飛び立ったと見られる重爆撃機の大編隊であった。
昭和十九年(一九四四年)六月のマリアナ沖海戦で米軍に奪われたマリアナ諸島の内、グアム、サイパン、テニアンの各島は現在日本本土を爆撃する重爆撃機の出撃拠点と成っていた。
「ツルギ、ツルギ。我アズサ一番。
敵機見ユ。」
先陣の部隊より敵機を視認出来た旨の報告受聴器に流れると、彼方にポツポツと小さな黒い点が見えてきた。
彼方に見える敵の編隊は大きく二つに別れて進軍してきていた。一つは高度一〇〇〇〇メートル付近を飛んでいた、もう一つは七〇〇〇メートル付近を飛行中であった。
数は上方の敵がおよそ三〇、下方が五〇と言うところか、合計八〇の大編隊だ。
「我アオイ一番,敵機見ユ。」
私もそう硫黄島の地上指揮所へ報告して、空中電話の周波数を隊内用に切替えた。
「敵機が来る、おそらく上の編隊はB-29で下のはB-32だ。
俺たちは上のB-29のお相手をする。
行くぞ!」
そう一言口にして私はスロットルを開け操縦桿を僅かに引いて機体を上昇させた。
そうしながらも周囲への注意は怠らない、左右と上方下方、そして後方に視線を向ける。そのついでではあるが、後ろを振り返って見ると後続の三機も編隊を崩すこと無く追従して来る。先ずは及第点だろう。
邀撃に発進した約四〇機の戦闘機の内、一〇機ほどが同じく高度を上げている、全て私の搭乗機と同じ〈震雷〉であった、残りの〈瞬雷改〉は高度をそのままとして比較低高度を飛ぶB-32を目標とする為に接近中であった。
やがて小さな点でしか無かった敵機の姿が次第に大きくなってきた。
私が目標としたボーイングB-29(超空の要塞)は一言で言えば美しい飛行機であった、滑らかで表面に無駄な凹凸がなく、操縦席も機首の風防と一体化して段のないスムーズな外見をしていた。
更に長大な主翼に搭載された強力な四基の発動機はそれぞれ二基の排気タービン過給器を持ち(一機で計八基の過給器があることになる。)高度一万メートルを七トンの爆弾を搭載して400km/h近い速度で飛行が可能であった、内部の居住区画は与圧されており電熱服や酸素マスクが不要という我々から見れば夢の飛行機であった。
しかし、さしもの米国に取ってもこの重爆撃機の開発は苦難の連続であったと言われている、特に高速と高高度飛行を可能とする発動機の開発には時間が掛かり、初期の試作機が尽く発動機からの発火等で墜落していることからもその重大さは判るであろう。
本来、この機体は出力四千馬力のプラット・アンド・ホイットニーのR-4360ワスプ・メジャークラスの発動機が必要とされていたが開発が遅れて暫定として現実的な性能のライトR-3350が使用された経緯が有った、それ故R-3350では性能的にやや無理が有った、但し、このR-3350も我が国レベルでは簡単に開発できる代物ではないし、当の米国においても開発に多くの時間が掛かり、最終的にB-29・B-32とも実戦への投入が大きく遅れる結果と成ったのである。
一方のコンソリデーテッドB-32(ドミネーター)であるがこちらは革新的なB-29の開発が失敗に終わった時の保険的機体で、比較的に保守的な設計思想で造られている、B-29よりも一回り小さい機体は、速度・高度・航続距離・爆弾の搭載量においてもB-29を大きく下回った機体である。
正直、B-24の海洋哨戒型であるPBY4Y-2〈プライバティア〉の改良版とも言えるこの機体はB-29に比べると大きく見劣りする機体でありB-29が順調に生産されていたら陽の目が当たる事の無かった機体であったといえる。
実際に戦場で使われた際にも与圧機能の低さからB-17やB-24と然程変わらぬ装備で搭乗しなければ成らない為に搭乗員からは頗る不評であったと言う話で、高度も上げられない事から日本機の餌食に成る例が多かった機体である。ただし、これはB-29との比較での話であり、この機体も決して容易に撃墜出来る機体ではなかった事は言っておこう。
対する我が軍の邀撃機は、我々が搭乗する高高度戦闘機〈震雷〉が十二機、〈瞬雷改〉正式名称〈瞬雷三二型〉の二四機が敵機を迎え撃つべく硫黄島を発進していた。
〈震雷〉は先の〈瞬雷〉を基本に高々度戦闘を行える戦闘機として、陸海軍共同で開発し立川飛行機で設計開発され、量産を中島飛行機が請け負う形で生産されていた最新鋭の戦闘機であった。その為、陸軍でも六式戦闘機キー94〈大鷹〉の名称で本土防衛の切り札として正式採用されていた。
この機体の技術的特徴はハ-四五(海軍名称「誉」・離昇出力2000hp)よりも大型で高出力のハ-四四(海軍名称「輝」・同2200hp)に排気タービン過給器と中間冷却器を装備した型を搭載していた。機体は〈瞬雷〉をそれを大きく成ったハ四四に合わせて拡大した形状となっていた。
全長十四m、全幅十四m、全備重量六五〇〇kg、三〇ミリ・二〇ミリ機銃各二門は日本機としては破格の大きさと重量、武装と言って良い機体であった。
胴体部の特徴としては機体下部に排気タービンと中間冷却器を載せ操縦席に低圧とは言え与圧と暖房がされてることだった。意外であるが立川飛行機はキ-77やロ式等の高々度研究機を帝大と共同で開発研究してきた経緯あって与圧式操縦席の導入が可能であった。
主翼は〈瞬雷〉とほぼ同型で前述の通り三〇ミリ二門と二〇ミリ二門の重武装であった。
日本機としては珍しく高々度での戦闘が可能な機体であったが、残念ながら量産が始まったばかりで数が少なく、硫黄島には本土防衛の先鋒としての役目から二〇機近い数が配備されていた。
そして、その〈震雷〉の数の不足を埋めるべく量産されたのが〈瞬雷三二型〉通称〈瞬雷改〉であった、〈瞬雷改〉の特徴は現用の機体に最低限の改造を行って一応の高々度戦闘能力を持たせた点であった。
〈瞬雷〉の発動機は離昇出力1500hpの金星六二型であるが、これに排気タービン過給器を取り付け(機首の左舷側下部)て高々度性能を底上げし、高々度での機動性を確保するために主翼長を左右に50cmづつ計1m伸ばして対応するなどの改造が成されている。
この二機種の邀撃機が迫り来る敵機を迎え撃とうとしていたが、当然彼らはやられに来た訳ではない。
そこには招かざる客が居た。
さて硫黄島攻防は完全に史実とは違います、まあ有ったら良いのになって感じですが変えすぎると自分の中で問題があって中途半端ですが、これで勘弁して下さい。
ここで新兵器が色々と出てきています、本当は新型潜水艦も出す予定だったのですが少し割愛した関係でカットしました。
この後で短編で書ききれなかった新兵器関連の話を書く予定ですのでお楽しみにお待ち下さい。
何か毎回❝次回で終わります❞詐欺をやっているみたいで心が痛いですが次回で天魔は本当に完結の予定です・・・・たぶん。
今回もお読み頂き有難う御座います、エピローグ第三弾は一両日中に投稿予定です。誤字脱字がありましたら一報お願いします。感想もお待ちしています。




