崩れた幻想
夕暮れが完全に溶け落ち、夜の静けさが街を包み込む頃、僕は自宅のドアを開けた。
「ただいま」
返事はない。暗闇が静かに静まり返っているのを見て、僕は小さく息を吐いた。玄関の電気は消えたままだ。兄さんは、今日もまだ帰っていない。
最近、兄さんの帰宅がめっぽう遅い。兄さんの通う高校の授業が終わるのは午後四時のはずだ。なのに、ここ最近の兄さんが家に帰ってくるのは、決まって夜の十時を回った頃だった。
(……やっぱり、受験勉強が本格化して図書室や塾で残ってるのかな)
あるいは――と、僕は靴を脱ぎながら少しだけ意地悪な想像を浮かべる。容姿端麗で文武両道、学校でも目立つ存在の兄さんだ。もしかしたら、彼女でもできたのかもしれない。僕を気遣って何も言わないだけで、放課後はデートでもしているのだろうか。それは決してあり得ない話ではなかった。
「はぁ……一人飯か」
電気をつけ、静まり返ったリビングで一人、昨日の残りのカレーを温めて食べる。食べ終えた後は、テレビをつけてソファに転がり、自堕落な時間を過ごした。画面の中では、今日も例の「連続殺人事件」について熱を帯びた報道が続いていた。
世間ではいつしか、この一連の事件を『赤髑髏事件』と呼ぶようになっていた。
画面が街頭インタビューに切り替わる。マイクを向けられた街の人々の意見は、真っ二つに割れていた。
『私は……逆に救われました。警察も手を出せなかった悪人が消えてくれたんです。今の日本には、ああいう存在が必要なんじゃないでしょうか』
『実際に殺されているのは罪のある奴らだけだろ? 義賊みたいなもんだよ』
殺人行為を肯定的、あるいは擁護するように語る人々。しかし、すぐに画面は別の街人の声を映し出す。
『どんな理由があろうと許されません。日本にはちゃんとした法があるんですから、法を守るべきです』
『他にやりようがあったはずです。法を無視して人を殺していい理由なんてない。あれはただの殺人鬼ですよ』
画面の向こうで激しく戦わされる議論を、僕は膝を抱えながらぼんやりと見つめていた。正論なのは、後者の意見だ。葵が言っていたことと同じ。法を外れた私刑なんて、許されるはずがない。
……でも。
あの地獄から救われた僕にとって、赤髑髏はただの悪魔には思えなかった。僕の心は、ずっと割り切れないまま揺れている。
カチャリ、と玄関の鍵が開く音がしたのは、時計の針が十時を指した頃だった。
「ただいま、優斗。起きてたか」
「おかえり、兄さん」
カバンを置いた兄さんに、僕はソファから声をかけた。疲れた様子も見せず、兄さんは優しい笑みを浮かべてリビングに入ってくる。
「ご飯、もう食べた?」
「うん、さっき食べたよ。兄さんの分は冷蔵庫にあるから、レンジで温めて」
「ありがとう」
兄さんは手際よくカレーを温め、テーブルについた。美味しそうにスプーンを動かす兄さんの背中を見ながら、僕はふと思い立って尋ねてみた。
「ねえ、兄さん。……『赤髑髏事件』って、どう思う?」
兄さんはスプーンを止め、少しだけ首をかしげてから僕を振り返った。
「赤髑髏?……そうだな。罪を裁くのは法だ。いくら悪人が相手だからって、あいつがやってるのはただの殺人だよ」
迷いのない兄さんの言葉に、僕は苦笑いを浮かべながら言った。
「そうだよね……。でも、世間じゃ『救われた』って言ってる人もいるみたいだけど」
「確かに、実際に救われた人もいるんだろうさ」
兄さんは静かにカレーを口に運ぶと、少し真面目な顔になって続けた。
「でもな優斗、私刑で殺人が軽視されるようになったら、巡り巡って人の命の価値そのものが低くなってしまう。理由があれば殺してもいいなんてことになったら、それこそ無法地帯だ」
「……うん、そうだね」
僕はそれ以上、何も言えなくなった。兄さんの言う通りだ。正論すぎて、何も言い返せない。けれど、胸の奥に冷たい塊が残る。もしあの時、赤髑髏が瀬戸大河を消してくれなかったら、僕は今こうして兄さんと会話することすらできていなかったかもしれないのに。
重くなりかけた空気を変えようと、僕は意図的に明るい声を張り上げた。
「あ、そうだ! 話変わるけど、兄さんはなんで最近こんな夜遅くに帰ってくるの? ……もしかして、彼女でもできた?」
「……はは、なんだよ急に」
「いいから教えてよ! 実際どうなの?」
「ああ、実はめちゃくちゃ可愛い彼女ができたんだよ」
兄さんは何でもないことのようにさらりと言った。僕の目が丸くなる。
「マジで!? 誰!? どこの子!? 僕知ってる人!?」
身を乗り出して食いつく僕を見て、兄さんは吹き出すように笑った。
「嘘だよ。ただ学校や図書館で勉強してただけだ」
「なんだよ……驚かせないでよ」
拍子抜けして肩を落とす僕を見て、兄さんは楽しそうに笑っていた。その後、他愛のない世間話を少しだけ交わし、僕たちはそれぞれの部屋へと戻って眠りについた。
◇
翌朝。
リビングのテレビをつけると、朝のニュース番組が慌ただしいトーンで速報を報じていた。
アナウンサーの引きつった声が響く。
『――本日未明、市内の住宅街で男性の遺体が発見されました。現場にはこれまでの事件と同様、赤いドクロのカードが残されており、警察は『赤髑髏』による連続殺人事件とみて捜査を始めています』
また、出たんだ。
僕は息をのんで画面を見つめた。だが、次のアナウンサーの言葉に、全身の血が引いていくような感覚を覚えた。
『しかし、今回の被害者について警察が過去の経歴や交友関係を極秘裏に調べたところ、事件に関わるような犯罪歴やトラブル、怨恨の線は一切見つかっておりません。警察は、赤髑髏が何の罪もない一般人を殺害した可能性も含め――』
被害者には、何の罪もなかった。
今まで「悪人だけを狙う」とされていた赤髑髏が、無差別に人を殺し始めたというのか?
「結局は、ただの殺人鬼か……」
いつの間にか僕の隣に立っていた兄さんが、冷ややかな声でポツリと呟いた。画面を見つめる兄さんの瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「……そうだね」
僕は掠れた声で答えるのが精一杯だった。
胸の中にあった「赤髑髏へのどこか淡い感謝」のようなものが、ガラガラと崩れ去っていく。ただの怪物が、街を徘徊しているだけなのかもしれない。
「よし、行こうか優斗。遅刻するぞ」
「うん……」
僕たちは二人で家を出て、いつも通りの通学路を歩き始めた。朝の眩しい日差しとは裏腹に、僕の心には、底の知れない不気味な影が落ちていた。




