はじまり
水たまりに映る自分の顔は、相変わらず冴えない。
白﨑優斗という人間には、輝かしい特技なんて一つもなかった。テストの点はいつも学年の真ん中、運動神経も平均的。そんな僕の唯一の取り柄は「優しいこと」だと、死んだ両親は生前笑っていた。
でも、その優しさは、中学時代の僕を地獄に突き落とす原因にしかならなかった。
「おい、もっと声出せよ。聞こえねぇんだよ!」
泥の混じった水たまりに、同級生の男子が生け贄のようにひざまずかされていた。その前に立っていたのは、クラスの絶対的な支配者・瀬戸大河だ。周りを囲む取り巻きたちが、嘲笑いを浮かべてスマホのカメラを向けている。
見過ごせばよかった。誰もがそうしているように、下を向いて通り過ぎればよかったのだ。だが、僕は足を踏み出してしまった。
「かわいそうだから……もう、やめなよ」
静まり返る下駄箱の前。瀬戸がゆっくりとこちらに振り向いた。その顔に浮かんでいたのは、底知れない悪意と、プライドを傷つけられた者の怒りだった。
「優斗ぉ……お前、俺に説教してんの?」
次の日から、標的は僕に変わった。
毎日、殴られ、蹴られ、教科書を破られた。クラスメートは次の犠牲者になるのを恐れて目を背け、親友だと思っていた奴すら僕を無視した。教師たちに助けを求めても、瀬戸の家が地元の政財界に太いパイプを持つ大金持ちだと知ると、誰もが保身のために見て見ぬふりをした。
「卒業するまでの我慢だ……あと少し耐えれば……」
僕は自分の部屋で膝を抱え、歯を食いしばりながら痛みに耐え続けた。
そんな僕を唯一、本気で心配してくれたのが、一歳上の兄・蓮だった。
容姿端麗で、勉強も運動も学年トップクラス。両親を交通事故で亡くしてから、僕らは二人きりで身を寄せ合って暮らしていた。僕にとって兄は、唯一の誇りだった。
「優斗、その顔……どうした」
ある夜、僕の頬の腫れと服の汚れを見た兄の顔色が途端に変わった。兄は青筋を立て、拳を血がにじむほど強く握りしめた。
「誰だ。誰にやられた」
「……転んだだけだよ。本当になんでもないから」
「嘘をつくな!!」
怒声が狭い部屋に響いた。兄は僕の肩を掴み、必死に感情を押し殺しながら言葉を絞り出した。
「俺があいつらをボコボコにしてくる。どこに住んでる」
「ダメだよ! 行っちゃダメだ!」
僕は泣きながら、兄の腰にしがみついた。瀬戸の家に手を出せば、警察沙汰になり、兄の輝かしい将来まで潰されてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
「僕が弱くてごめんなさい……僕のせいだから! だからお願い、兄ちゃんは手を出さないで……!」
僕の必死の言葉に、兄は動くのをやめた。部屋の中に、僕のすすり泣く声だけが響く。
兄は悔しそうに唇を噛み締めると、ポケットから小さな御守りを取り出し、僕の手の中に強く握らせた。
「……何もできなくて、ごめんな」
兄の絞り出すような声と、握りしめられた手たたみの温もり。その優しさが嬉しくて、僕は涙を流しながら御守りを強く抱きしめた。中には翡翠色の石が入っていた。
◇
変化は唐突に訪れた。ある日を境に、瀬戸大河が学校に来なくなったのだ。
後から知った理由は、あまりにも衝撃的だった。瀬戸とその両親の計三人が、自宅で惨殺されたという。
ニュースは当初「金目当ての強盗殺人」と報じていたが、捜査が進むにつれ、瀬戸家の裏の顔――巨額の脱税、脅迫、暴力団との黒い交際――が次々と暴露された。世間の風向きは一変し、警察も「怨恨による復讐」へと見方を改めた。
世間を恐怖させ、同時に熱狂させたのは、その鮮やかすぎる殺人手法だった。
強固なセキュリティと巡回警備員を誇る瀬戸家の屋敷に、指紋ひとつ残さず侵入し、家族全員を完璧に処刑してみせたのだ。現場に残されていた唯一の痕跡は、血のように赤いドクロが描かれた一枚のカードだけ。
僕は正直、ざまあみろと思った。少しの恐怖と、それ以上に悪夢から解放された歓喜が僕の胸を満たした。それからの中学生活は嘘のように穏やかで、僕は死に物狂いで勉強し、兄と同じ高校へと進学した。
今の僕は、平和な高校生活を謳歌している。そして何より、僕には気になっている女の子がいた。
「白﨑くん、おはよう!」
教室の入口で、一ノ瀬葵が弾けるような笑顔で手を振ってくれた。
明るく美人で、何より強い正義感を持つ彼女は、クラスの誰もが惹きつけられる太陽のような存在だった。彼女と一言挨拶を交わすだけで、僕の心は跳ね上がった。
だが、僕らの平穏な日常の裏で、世間はある「怪事件」の話題でもちきりだった。
瀬戸一家の事件以降、全国で罪人ばかりを狙った連続殺人が続いていたのだ。法で裁かれなかった悪人、権力で罪を揉み消した者たちが、次々と暗殺されている。犯人の手掛かりはゼロ。判で押したように現場に残されるのは、あの「赤いドクロのカード」だけだった。
「ネットでは『現代の必殺仕事人』なんて持て囃されてるけど……私は絶対に許せないな」
放課後、葵はニュース映像が流れるスマホを見つめながら、強い眼差しでつぶやいた。夕暮れの教室で、彼女の横顔が赤く染まっている。
「どんな悪人であっても、私刑なんて殺人と変わらないよ。法の外で人を裁く権利なんて、誰にもないはずだもの」
「そうだね……」
僕は葵の真っ直ぐな言葉に小さく頷いた。確かに葵の言う通りだ。
だが、あの地獄から救われた僕には、その犯人を悪だと割り切ることはどうしてもできなかった。
カバンの中にある、あの日の御守りにそっと触れる。
もしもあの犯人が現れなかったら、僕は今、ここにいなかったかもしれないのだから。




