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第1章 第3部:初めての仕事

固い握手を交わした後、俺たちは再び席についた。途端に、恐ろしいほどの沈黙が部屋を包み込む。本当はもっと彼女と話したかった。だが、言葉がまったく出てこない。『くそっ、俺は会話の仕方すら忘れたのか?』と心の中で自分を責めた。まあ、仮に喋る勇気が出たところで、何を話せばいいのかすら分からなかったのだが……。

しばらくすると馬車が止まり、扉が開いた。

「お嬢様、屋敷に到着いたしました」

重厚な鎧に身を包んだ騎士が、とても丁寧な口調で告げる。それを聞いたリアンは席を立ち、俺を見つめて言った。

「ワタル、着いたわよ」

「あ、うん……」

彼女が先に降りたのだが、少し解せなかったのは、あの騎士が彼女の手を取ってエスコートしたことだ。まあ、ただの礼儀なのだろうが、なぜか無性にイラッとしてしまった。

妄想はさておき、馬車から降りて最初に受けたのは、目を射るような眩しい太陽の光だった。思わず目を細める。視線の先には巨大な建築物がそびえ立っていた。最低でも10階建てはある大屋敷に、綺麗に剪定された木々が並ぶ広大な庭園。実家がたった2階建てで、ささやかな裏庭しかなかった俺にとって、その光景は圧倒されるのに十分すぎた。

「うわぁ……」

思わず声が漏れた。マジでビビった、本当に。

見とれている場合ではない。リアンとあの鎧騎士はすでに玄関へ向かって歩き出していた。置いていかれるわけにはいかない。後ろを歩いて追うことにした。横を歩いて追い抜いたら、空気を読めない馬鹿だと思われるだろう。

後ろをついていきながら、時折あちこちを見回した。リアンが振り返り、俺を見てなぜか驚いたような顔をした。途中で迷子にでもなって、探しに戻る羽目になると思っていたのだろうか。まあ、彼女がどう思っていようと気にしない。悪く思われていようが良く思われていようが、可愛い女の子に意識されているだけで十分だ。

玄関へ向かう間、あの騎士の重々しい足音が響き続けていた。大げさではなく、一歩踏み出すたびに耳元で爆弾が弾けるような音だ。それに、奴の身長は最低でも2メートルはある。俺の知る限り、こういう鼻につく奴はファッション誌に出てくるようなイケメンで、礼儀正しくてエレガントを気取っているに違いない。なぜかそういう奴らが無性に腹立たしかった。偽善者っぽくて、本性を隠している気がするからだ……まあ、根っこでは自分をゴミクズみたいに思っているんだろうが。

我に返ると、正面玄関のすぐ手前に誰かが立って、優雅にお辞儀をしているのが見えた。メイド……? オレンジ色のショートヘアの綺麗な女の子が、綺麗なメイド服を着て玄関で待っていた。『この世界にもそんなものが存在するのか?』と疑問に思ったが、彼女はなぜかとても真面目な表情をしていた。

「お帰りなさいませ、リアン様……お客様をお連れですね」

そう言って、彼女は俺に視線を向けた。

「ええ、この人はワタル。今日からここで働くことになったの」

それを聞いたメイドは表情一つ変えず、言葉を受け止めた。そして、俺にはどこか白々しく思える態度で言った。

「それは良いお考えですね、お嬢様」

「そうでしょう? さて、彼のお仕事について少し準備をしましょうか」

「承知いたしました、お嬢様。よろしければ、夕食の準備はできております」

リアンは頷き、俺たちは中へ入った。外観だけでも言葉を失うほどだったが、内装はさらに凄まじかった。玄関に入ると巨大な彫像が鎮座し、チェス盤のような柄の床が続く長い廊下、そして左右には巨大ならせん階段が伸びていた。

階段を上り、たぶん最上階まで向かった。どの階も迷路のようで、部屋や美しい絵画、その他の装飾品がぎっしりと並んでいた。正直、俺の知らないものや見たこともない高級品ばかりだった。中流階級の俺にとって、これほどの贅沢は日常とかけ離れすぎていて、エレガントな家具の名前すら分からないのが当たり前だった。

少し歩いた後、ひと際目立つ大きな観音 headless の扉の前に着いた。騎士は手際よく扉を開け、俺たちを中へ促した。そこは書斎だった。巨大な執務机、その背後にある巨大な窓、中央には対面式のソファと白いテーブル、周囲の棚には本がびっしりと詰まっていた。

「ワタル、かけてちょうだい」

リアンに言われ、素直にソファに腰掛けた。彼女は執務机につき、その右隣にあの騎士が控えた。だが、俺を最も唖然とさせたのは、その騎士が兜を外した瞬間だった。

威張ったイケメンが出てくるかと思いきや、そこにいたのは極端に短い紫髪の女性だった。鋭い緑色の瞳は、誰をも射殺しそうな雰囲気を纏っている。『な、なんだって……!? あの重装甲は一体何のためだったんだ……?』と、あまりのベタな展開に困惑した。

その衝撃が冷めやらぬうちに、リアンが口を開いた。

「さて、ワタル。この屋敷はどうかしら?」

「あ……正直、こんな贅沢な場所は生まれて初めて見ました」

恐れおおい気持ちと驚きで声が引きつったが, 嘘偽りのない本音だった。

「そう?……ふふ、気に入ってくれたなら良かったわ。玄関にいた女の子は見かけたかしら?」

「あ……はい、扉のところにいたメイドさんですね。彼女が何か?」

「メイド……聞き慣れない言葉ね。彼女はアリア、この屋敷で唯一の奉公人よ。包み隠さずに言うと、他の使用人たちはみんな辞めてしまってね。今はアリア一人で屋敷全体の世話をしているの」

なるほど、話の行き先が見えてきたぞ……はぁぁ、もっと楽な仕事かと思ってたのに。まあ、今の俺に文句を言う立場なんてないよな。

「分かりました。使用人の仕事なら、俺にもこなせそうです」

俺はやる気をアピールしようと、勢いよく立ち上がって言った。申し訳なさそうに切り出した彼女に気を遣わせたくなかったのだ。

「あら、察しがいいのね。それと紹介しておくわ、私の隣にいるのはエグネス。私の専属騎士であり、この屋敷の護衛よ」

俺はただ頷いた。専属騎士? 女の人が? へえ……まあ、近いうちにその称号は俺が奪ってやるけどね、見てろよ。まあ、今のところはただのしがない使用人だけど。

簡単な自己紹介が終わると、リアンはアリアを呼び寄せた。アリアはすぐにやってきた。リアンは彼女に告げた。

「アリア、今日からワタルと一緒に働いてもらうわ。いいかしら?」

「はい、お嬢様のお言いつけ通りに」

アリアが答えた。

「完璧ね。あとは手続きだけかしら」

そう言うと、リアンは引き出しから契約書らしき紙を取り出した。

「ワタル、雇用の正式化のためにこれにサインをしてちょうだい。衣食住の提供と、あなたの働きに応じた給与を支払うわ。これでいいかしら?」

うわぁ……こういうリアルな金や契約の話になると、一気に気が重くなる。なぜか気まずいのだ。でも、今の俺にとっては願ってもない幸運だ。

「はい、充分すぎる条件です。あ……どこにサインすればいいですか?」

「ええ、こちらの欄よ」

最後に紙にサインした記憶といえば、あの『赤点(落第)通知書』だった。あの時は全く集中していなかったが、今は違う。問題は、この異世界で日本語の名前を書いても誰も読めないということだ。

「あの、すみません……俺、この国の文字が書けなくて……ごめんなさい」

穴があったら入りたいほど気まずかった。素晴らしい提案をされた直後に、難題を突きつけられたような気分だ。

「あら、それは困ったわね。ふむ……そうだわ、指印(血判)にしましょう。それで構わないかしら?」

指印? ああ、それならできる。だが、次に起きたことは予想外だった。リアンは引き出しから針を取り出し、俺の親指を要求した。血でサインするのだ。仕方なく指を差し出した。刺された瞬間はめちゃくちゃ痛かった。表面上は澄ました顔をしていたが、心の中では泣いていた。

「よし、これで終わりよ。もう日が暮れるわね、仕事は明日から始めてちょうだい。今はゆっくり休んで。あ、言い忘れていたわ、アリアから制服を受け取ってね。それじゃあ、退室してちょうだい」

「ありがとうございます……あ、リアン様」

「ん? 何かしら?」

「あ……いえ、なんでもないです」

「そう? なら下がっていいわよ。アリア、彼を案内してあげて」

「はい、お嬢様。失礼いたします」

アリアはそう言うと、俺に向き直った。

「ワタル様、こちらへどうぞ」

「あ、はい」

あぁぁっ、何やってんだ俺は! お礼を言いたかったのに怖くて言えなかった。なんで俺はこうなんだ……。

書斎を出てアリアの後をついていく。俺はさっきの不甲斐なさを一人で猛烈に後悔していた。アリアはそれに気づいたのか、声をかけてきた。

「どうかされましたか、ワタル様?」

声は親切だったが、どこか作り物めいていた。あらかじめ決められた台詞を読んでいるような感じだ。

「あ、いや、なんでもないよ」

俺はそう答え、彼女は小さく頷いた。

これ以上暗い顔をするのはやめようと思い、場を和ませるために話しかけてみた。

「これから同僚になるんだよね? まさか『新入りいびり』とかしないよね……?」

冗談っぽく言おうとしたのだが、その時の俺の頭ではそれが限界だった。

「はい、同僚です。ですが、最後のお言葉の意味が分かりかねます。申し訳ありません」

やっぱり真面目だな。この世界にも新入りに対する洗礼みたいなものはあるだろうが、言い方が違ったのかもしれない。

「あー、なんて言えばいいのかな。先輩が後輩にするイタズラとか、そういうやつのことだよ。分かる?」

「ああ……申し訳ありませんが、そのようなご期待には添えかねます」

またしてもあのビジネスライクな態度だ。正直ちょっと寂しかったが, どうしようもない。俺たちは無言で廊下を進んだ。

到着したのは、巨大なクローゼットのような場所だった。部屋一つ分が丸ごと衣裳部屋になっており、中央には大きな鏡があった。アリアが先に入り、俺のサイズに合う制服を探すと言った。俺の身長は高くも低くもない、170cmくらいだ。

しばらく待つと、彼女は執事服を2着持って戻ってきた。

「サイズが合いそうなのはこの2着だけです。ご試着なさってください。私は外でお待ちしております」

「あ、ありがとう」

服を置いて彼女は部屋を出て行った。俺は学校の制服を脱ぎ、下着姿になった。鏡を見ても大きな傷跡はなかった。以前自分で付けた……まあ、あの傷跡は消えていた。どうでもいい、未練なんてないしな。ただ、みんながなんであんなことをするのか試してみたかっただけだ。

1着目を試着してみた。悪くはないが、ズボンがぶかぶかだった。次に2着目を着てみる。今度はズボンがぴったりだったが、上着が大きすぎた。アリアを呼んで別のを探してもらおうかとも思ったが、1着目の上着と2着目のズボンを組み合わせてみた。鏡を覗き込み、つぶやく。

「……意外と似合ってるかも」

実際、悪くなかった。こんな服を着たのは生まれて初めてだったが、悪くない気分だった。

着替えが終わったことを伝えるため、部屋を出た。アリアはドアの脇に立っていたが、目を閉じていた。立位のまま寝落ちしかけているようだ。

「アリア、起きて」

手を振って彼女の意識を戻そうとした。しばらくして彼女は目を開けた。本当に限界まで疲れているようだった。俺の姿を見ると、彼女は疲れた目を擦りながら言った。

「よくお似合いです」

「そうかな……? あ、あのさ、すごく疲れてるように見えるよ。良かったら今から手伝おうか? マジで気にしないで」

俺だってたまには素直に優しくなりたいのだ。今回は本気だった。可哀想になるくらい彼女は疲れ切っていた。

「……お気になさらないでください。お嬢様は明日からとおっしゃいました。私はそれに従います」

頑固だな。だが、言い出したからには引く気はない。見捨てるなんて後味が悪すぎる。

「ここで手伝わないなんて、男がすたるよ。別に君のために心配してるわけじゃなくて……あ、そうだ! 効率を上げるためだよ! どう?」

「コウリツ……ですか?」

「そう、効率! この広い屋敷でメイドは君一人だろ? 今から俺が手伝えば作業が倍の速さで終わるし、リアン様だって効率が上がったら喜ぶはずだ。違ったら指摘してくれて構わないよ」

我ながら完璧な論理展開だ。

「……一理ありますが、しかし……」

「決まりだ! それにほら、もうコスプレ……じゃなくて制服も着てるし!」

断られる前に言葉を遮った。本気で手伝いたかったし、無駄な押し問答をしている暇はなかった。

「よしっ。あ……でも正直言うと、俺、家事のことなんてさっぱり分からないんだ。図々しいかもしれないけど、手取り足取り教えてもらえるかな……?」

それも本音だった。勢いだけで押し切ったものの、実際の作業となると自信がない。本気だからこそ、ヘタに失敗して迷惑をかけるより、最初から謙虚に教えてもらった方がいいと判断したのだ。

「奇妙な方ですね。手伝うとおっしゃったのに、何もご存じないなんて」

「うぐっ……返す言葉もないよ。無知でごめん。でも嘘じゃないんだ、本気で基礎から学びたいと思ってる」

「……仕方ありませんね。随分と熱心なご様子ですし……参りましょう」

彼女はくるりと向きを変えた。

ついていきながら、最後の言葉の意味を考えていた。よく分からないが、とにかく本気で取り組む姿勢は伝わったらしい。

案内されたのは巨大な厨房だった。どこかレトロで古風な作りだったが、この屋敷の例に漏れず無駄に広かった。

「ひとまず、お嬢様の夕食のお給仕を手伝っていただけますか?」

最初から難しいことをさせられるより、基本から入れるのはありがたかった。難易度が上がるのはこれからだ。その時は全力でやるつもりだ。

アリアから料理の乗ったトレイを受け取り、彼女の後をついて食堂へ向かった。できる限りエレガントに見えるよう、トレイを両手で慎重に持った。

食堂の中央、巨大なテーブルの主席にはリアンが座っており、その隣にはあの紫髪の騎士がいた。リアンは俺の姿を見ると驚いたように言った。

「あら、ワタル。随分と張り切っているのね。もう働き始めるなんて」

「はい……」

そう言われても、なんて返せばいいのか分からず、気まずく頷くことしかできなかった。

アリアがメインディッシュを給仕し、俺も彼女の動作を完コピして真似た。アリアはリアンの左側に立ち、俺はその隣に並んで静かに控えた。沈黙が重苦しかったが、これが仕事というものだろう。リアンが食事を終えると、席を立ってアリアに言った。

「今日も美味しかったわ、ごちそうさま。アリア」

「勿体なきお言葉です、お嬢様」

アリアは深々と一礼した。その後、リアンは紫髪の騎士を連れて食堂を後にした。俺には一言も声をかけてくれなかったのが少し寂しかったが, 仕方ない。

「食堂の片付けを手伝ってください」

アリアが皿を下げながら言った。俺も言われた通りテキパキと動いた。テーブルを綺麗にした後、厨房へ戻ると、彼女は俺に指示を出した。

「食器洗いは任せてもよろしいですか? 私は他の用事を済ませてきます」

「うん、任せて」

彼女は部屋を出て行った。幸いなことに、流し台の構造は俺の知っているものと似ていた。皿を洗いながら考えた。誰かに指示されるということが、今の俺にはまるで夢のように思えた。虐げられたいわけではない。マニュアル通りに動けばいいという状況が、ただただ心地よかったのだ。俺は自分で考えるより、指示に従う方が楽な性分なのだろう。

洗いが終わると、ちょっとした達成感が湧いてきた。皿もカトラリーも、自分の顔が映るくらいピカピカに磨き上げた。手を洗っていると、アリアが戻ってきた。

「終わられたのですね。よろしければ、私たちも食事にしましょうか」

そう言われるまで、食べるという行為すら頭になかった。この世界に来てから見るもの全てが刺激的で、お腹が空いていることすら忘れていたのだ。だが、断る理由もない。俺はテーブルについた。アリアはリアンたちと同じ料理を盛ってくれた(すごく美味そうだった)。彼女も自分の分を盛り、向かい合って座った。二人は無言で箸を進めた。

驚いたことに、アリアはあっという間に平らげてしまった。俺がまだ半分しか食べていないというのに。慌てて俺も口に押し込んだ。食後、お互いの皿を洗った。その頃にはすっかり夜が更けていた。

「お部屋へご案内します」

彼女の後をついていった。案内された部屋は、他の豪華な部屋とは打って変わって非常にシンプルだった。ベッド、机、そして服をしまう棚があるだけだ。

「ここがあなたの部屋です。毛布は机の上に置いてあります。廊下のつきあたりには浴室がありますので、ご自由にお使いください。何か質問は?」

「ううん、ないよ。ありがとう……あ、ご飯、すごく美味しかった」

なぜ最後にそんなことを言ったのか自分でも分からなかったが、口から出てしまった。彼女は小さく頷き、ドアを閉めた。

さて、やるべきことは決まっている。ベッドに入り、明日に備えて笑顔で寝るだけだ。偽りの笑顔かもしれないが、他に選択肢はない。

ベッドに倒れ込んだ。マットレスの上にはまだ掛け布団もシーツもかかっていなかった。勢いよく飛び乗ったせいで、マットレスから埃の舞う煙が上がった。

「ゲホッ……めちゃくちゃ古いな……」

確かめてみると、案の定埃まみれだった。こんなところで寝たくはないが、背に腹は代えられない。窓を開け、クソ重いマットレスを抱えて外に突き出し、下に落とさないよう祈りながら力任せに叩いて埃を払った。準備を整え、執事服を脱いで下着姿になった。机の上の小さなろうそくを吹き消し、布団に潜り込んだ。案外、心地よかった。

目を閉じて眠ろうとしたが、一向に眠気が来なかった。3時間以上はそうしていただろうか。いつでも自分の部屋で目が覚めるんじゃないかという感覚が消えなかった。だが、肌に触れる質感も、空気も、全てがリアルすぎた。

眠れないので、今日起きた出来事を頭の中で整理してみた。まず異世界に召喚され、謎の連中に拉致され……そして人生最高のヒロイン、リアンに救われた。彼女は俺を死の危機から救い、屋敷で働くことを提案してくれた。それが今だ。そして俺は眠れずに思い出話に浸っている。客観的に見ればめちゃくちゃな一日だが、筋は通っている。俺は異世界にいて、家にはいなくて、今夜はとても長くなりそうだ。

ふと、昨日の夜のことを思い出した。あの時も、赤点(落第)の通知を受け取って帰宅し、厚かましくもベッドに入ったものの、今と同じように全く眠れなかったのだ。

自分の将来はどうなるんだろう、と考えていた。世界が終わるわけじゃないが、俺の人生はまた一歩遅れた。別に成功したいという野望があるわけじゃない。安定した仕事と、小さな部屋と、インターネットさえあればそれで満足だったのだ。もっと酷い思考に陥った時は、逃亡することすら考えた。深い森の奥へ行って横たわり、餓死するまで放置するか、小さな小屋を建てて孤独にじじいになるまで生きるか。まあ、食料やネットのない不便さを考えたら、最初の「そのまま腐っていく」選択肢の方がマシに思えた。ハハッ、追い詰められると俺はいつもこんなくだらないことばかり考える。

でも、本当のところを言えば、今の状況には満足しすぎていた。俺をこの世界に召喚してくれた誰かに感謝したいくらいだ。この世界に対する愛おしさのようなものが湧き上がってくる。不思議だが、本当にそう感じていたんだ。

……と、思い出に浸っていたら、猛烈に尿意が襲ってきた。アリアの言葉を思い出す。トイレは廊下の突き当り、階段の近くにあると言っていたな。俺は立ち上がり、学校の制服を羽織って、暗闇の中を裸足で歩き出した(靴をどこに置いたか見えなかったのだ)。

廊下に出ると、月光が足元を照らしていた。しかしふと思った。異世界のトイレってどうなってんだ……? もう限界だったので、背に腹は代えられずドアを開けた。

ドアを開けると、まばゆい光が視界を埋め尽くした。天井から吊り下げられた石が発光し、電球の代わりを果たしているようだった。中に入って驚いた。ボロい便所を想像していたのに、まるで高級ホテルのようなラグジュアリーな空間だったのだ。便器もエレガントで、現代のものと変わらなかった。一息ついて用を足した。終わると、小さな光のフラッシュとともに排泄物が消え去った。最初はビクッとしたが、すぐに感動が押し寄せた。

「すげえ……これって魔法か?」

すっきりしたところでトイレを出た。大きな窓から見える景色に見とれてしまった。異世界の美しい月が、庭園を青く照らしていた。昼間は気づかなかったが、裏庭には花や木々に囲まれた巨大な迷路が広がっていた。

あまりの心地よさに、しばらくそこに佇んでいた。だが部屋に戻ろうとしたその時、かすかな音が耳に届いた。

「……メロディ……?」

窓から見下ろすと、花壇の近くのベンチにアリアらしき人影が座っていた。目を凝らしてみると、確かに彼女だった。彼女は笛のような楽器(この世界独自の楽器かもしれない)を口に当て、奏でていた。月光に照らされた彼女の姿は、息をのむほど絵になっていた。

俺は音色に集中した。音楽の知識なんてないが、聴くのは大好きだった。アニメソングだろうが洋楽だろうが関係ない。自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、俺は彼女を近くで見ようと階下へ向かった。

靴も履かないまま1階へ降り、裏庭への出口を探して少し迷った末、外へ出た.

彼女はまだ遠くにいた。俺は気配を消し、静かに近づいて薔薇の生け垣の陰に身を潜めた。そこなら彼女の姿も演奏もよく見えた。うっとりと聴き入っていたが、突然メロディが途切れた。彼女がぴたりと手を止めたのだ。

どうしたのだろうと見ていると、彼女は次のフレーズを忘れてしまったようだった。膝の上に置いた譜面らしき紙をめくり、しばらく確認していた。そして再び紙を見つめながら、最初から演奏をやり直した。本当に真剣そのものだった。

俺はその姿に見とれてしまっていた。そのメロディは優しく、まるで『お前がどれだけダメな奴で、どれだけ負け犬だとしても、少しは休んでいいんだよ』と言ってくれているようだった。だからこそ、こんなにも心に響いたのかもしれない。

本当なら出て行って拍手でもしたかったが、そんな勇気はなかった。人知れず盗み聞きしていたなんてバレたら、変質者だと思われるに決まっている。それだけは避けたかった。

しばらくして、俺は足音を立てないよう静かにその場を離れた。部屋に戻る途中、窓から下を覗くと、彼女はまだ紙を見つめながら笛を吹き続けていた。練習していたのだろうか。美しい演奏を聴かせてくれたことに、心の中でそっと感謝した。

心が満たされたせいか、急速に強い眠気が襲ってきた。部屋に戻ると、一瞬で深い眠りに落ちた。あんなに安らかな眠りは久しぶりだった。音楽の力って本当にすごい。もしテンションの上がる曲だったら、誰相手でも無敵になれる気がするレベルだ。本当だぞ。

その夜、俺は今日起きた全ての幸運に感謝し、明日も良い日になるよう祈りながら眠りについた。

『お願いだ、これが夢じゃありませんように……絶対に目が覚めませんように……』

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