第一章:僕はただ、じっとしていることしかできないのだろうか?
第一章:僕はただ、じっとしていることしかできないのだろうか?
「はぁ……まあ、ずいぶん時間を無駄にしちゃったな。それじゃあバイバイ、ドラゴンさん」
幼いドラゴンに自分の生い立ちを語りかけて二時間近くが経っていたが、その生き物は相変わらず熱心に耳を傾け、まばたきもせずに僕を見つめていた。僕がさらに恐怖――あるいは安らぎ――を感じていたのは、心の底でその時間を無駄にしたとは思っていなかったことだ。たとえ相手が動物であっても、誰かに話を聞いてもらえるというのは、とても心地よいものだった。
けれど、もうここに留まるわけにはいかなかった。夜を明かす場所を探すか、少なくとも生きていくための糧を手に入れなければならない。正直なところ、まだ途方に暮れていた。初期装備すら何ひとつ持っていない。はぁ……この世界を創ったやつは、きっとリアリズムの信者なんだろう。粗末な短剣どころか、木刀の一本さえ与えてくれないのだから。
自分ひとりの力でどうにかするしかなかった。
「おい、あのガキを見ろよ……着てる服が貴族様みたいだぞ」
背後から、がらがら声の低く荒い声が聞こえた。
振り返ると、二人の男が立っていた。僕の服について口にした男は背が高く、無精髭を生やしていた。もう一人の無口な男は、僕がこれまでの人生で見た中で最悪の髪型をしていたが、それを補って余りあるほどの凍りつくような冷たい目つきで、真底恐怖を抱かせた。
「それにあの歯を見ろ……まるで白い真珠みたいじゃないか」
真顔の男が付け加えた。
本気で僕の歯のことを言っているのだろうか?
「あ……どうも、二人とも。でも……言っている意味がよく分からないんだけど」
僕は後ずさりしながら言った。
男たちは顔を見合わせ、声を合わせてあざ笑った。十秒ほどあざ笑うような高笑いが続いた後、彼らは笑いやめた。どうやら僕の質問が、彼らにとってこの上なく面白かったらしい。
大柄な男が、相棒とともに僕に近づきながら再び口を開いた。
「はぁ……坊主、お前、マジでこの辺の奴じゃないな?」
断りもなく、彼は太く重い腕を僕の肩に回してきた。一体なんなんだ、この急な態度の変化は? そもそも、なぜ急に近づいてきたんだ? それとも、最初からずっと僕のことを見ていたのだろうか?
「え……まあ、そうだけど……なんでそんなことを聞くの? そもそも、君たちは誰なんだ?」
「見ろよ、顔の形も整ってるし、歯並びも綺麗だ」
男はつぶやきながら僕の顔を強引に掴み、まるで品定めでもするかのようにじろじろと見つめてきた。
「あのさ……この話はもう終わりにしていいかな」
僕はきっぱりとした声を出そうと努めながら言った。
振り払うように彼の腕を解き、姿勢を正して背を向け、この不快な状況から抜け出そうと踏み出した。一歩前へ踏み出した、その時――
気づかなかった。いや、どっちにしろ避けようがなかっただろう。男は僕が立ち去ろうとした態度が気に食わなかったらしい。太い木切れか、重い棍棒のようなもので、僕のうなじに容赦ない一撃を叩き込んできた。
破壊的な激痛が走った。僕の体はその衝撃に耐え切れず、前にのめり込むように倒れ込み、顔面を地面に打ちつけて鼻骨を砕いた。意識が途切れる直前、激しい衝撃音に驚いた「ドラゴンさん」が路地裏から逃げていくのが見えた。責める気にはならなかった。それが当然の反応だ。それが、僕が気を失う前に目にした最後の光景だった。
目を開け始めたものの、かなりの時間が経ったように感じられた。悪夢から目覚めたときのような、頭が重く濁った感覚があった。幸いにも、そこはごくわずかな光しか入らない、暗闇のような場所だった。
周囲を見渡すと、自分が極小の木箱のような場所に閉じ込められていることに気づいた。硬い板の上に横たわっている。体を起こそうとすると、両手が縄で固く縛られていることに気づいた。突然、木材が地面と擦れ合う激しい軋み音が聞こえてきた。
板の隙間に小さな穴を見つけ、自分がどこにいるのか確かめようと目をこらした。
外の風景が猛スピードで流れていた。木々が視界の前を急速に通り過ぎていく。
この状況で唯一論理的に考えられるのは、自分が移動しているということだった。この中世のような世界にいる以上、馬車の中にいると考えるのが一番自然だ。きっと、あの男たちが僕をここに押し込んだのだ。
立ち上がろうとしたが、頭が木製の天井に激しくぶつかり、痛みが走った。立ち上がるのは不可能だと悟り my 私は再び腰を下ろした。その時、うなじに刺すような痛みが再び襲ってきた。縛られた手をどうにか激痛の走る場所へと伸ばした。手を戻して指先を見ると、生々しい血で汚れていた。
恐怖でぞっとした。そっと触れ直してみると、傷口は深刻で、体が冷えるまで気づかなかった深い亀裂が入っていた。その瞬間、あのクソ野郎どもに殴られたことを思い出した。すべて辻褄が合った。
傷口がさらに開かないよう触るのをやめ、僕は床を見つめたまま座り込んだ。状況を分析すれば、答えは明確で冷酷だった。あのクソ野郎どもに拉致されたのだ。
「こんなの……こんなの、この世界に期待してたことじゃないのに……」
僕はつぶやいた。
それが本心だった。新しいチャンスという魔法に胸を躍らせ、やってきたばかりだというのに、二人のバカにすべてを台無しにされた。これから僕はどうなるんだ? 殺されるのか? 奴隷として売られるのか? それとも内臓を抜き取られて売られるのか? この世界にも、そんな闇の市場が存在するのだろうか?
暗い未来の妄想に囚われていると、馬車の奥、僕の右手側から欠伸の音が聞こえた。それまで、自分一人だと思い込んでいた。内部はほぼ暗闇で、自分の手足すら判別するのがやっとだったのだ。
音のした方へ視線を向けた。必死に目を凝らすと、二人の人影が浮かび上がった。僕は硬直し、指一本動かせなくなった。
「あの……き、君たちは誰……?」
恐怖と気おくれが混ざり合った細い声で尋ねた。
ふたりのどちらも答えなかった。一人は完全に裸で、床に鎖で繋がれていた。もう一人はボロボロのズボンを穿いていたが、頭を垂れ、眠っているか意識を失っているようだった。裸の男は僕の声を聞くと、永遠にも思える数秒間僕を見つめ、それから明らかな諦めと拒絶の色を浮かべて視線を落とした。
ふたりとも凄惨な状態だった。全身に殴打や鞭の痕、火傷の跡が刻まれていた。その傷跡を見ただけで、足すくむ思いがした。それが自分を待ち受ける運命なのだと考えると、恐怖が脳と体を完全に支配した。手足がガタガタと震え出した。
僕はただ、じっとしていることしかできないのだろうか?
時間が過ぎていくにつれ、馬車の揺れが路面の石ころひとつひとつを僕の体に伝えてきた。突然、外から声が聞こえて沈黙が破られた。
「あぁっ! あとどれくらいで着くんだよ!?」
板壁の向こうで誰かが叫んだ。しゃがれた、不快な声だった。
好奇心が恐怖に打ち勝った。慎重に起き上がり、板の隙間を探した。目を近づけると、御者台に座って手綱を握る二人の男が見えた。路地裏で僕を襲った奴らとは別人で、粗暴な風貌をした異常に体格のいい男たちだった。特に左側の男が凄まじかった。
彼らの姿を見た瞬間、あのクソ野郎どものせいで夢見ていた冒険を台無しにされた記憶が蘇り、恐怖が痛烈な怒りへと変わった。
「おい、クソ野郎ども! ここから出せ、この野郎!」
僕はいらだちに任せて、右手で木壁を叩きながら叫んだ。
聞こえていないのか、無視されているようだった。それが僕の理性をさらに狂わせた。
「おい、耳がつぶれてんのか!? おい、クソ野郎、ここから出せってんだよ!」
僕は拳で何度も何度も木壁を殴りつけた。
突然、馬車が止まった。二人とも振り返り、右側の男が大柄な方に言った。
「チッ……後ろに行ってあのバカを黙らせてこいよ。道中ずっとあの悲鳴を聞かされるのはごめんだ」
僕のことだ。僕に何をするつもりだ?
大柄な男は心底うっとうしそうな顔で御者台から降り、馬車の後方へと向かってきた。僕は恐ろしいことが起きるのを予感し、身を翻した。
観音開きの後部ドアが勢いよく開け放たれた。男は蔑むような目で僕を見下ろすと、狭い車内に入り込み、恐ろしい力で僕の腕を掴んで外へと投げ飛ばした。
僕ってそんなに軽いのか? 地面に叩きつけられる前に、ふとそんなことが頭をよぎった。
横倒しに落ちた。幸いにも縛られた腕が衝撃を少し和らげてくれたが、痛みから逃れられるわけではなかった。全身が打ち身だらけになり、街道の砂利で擦りむけた両手から血が滲み出た。
立ち上がろうとしたが、馬車から降りてきた男が僕のみぞおちに容赦ない蹴りを叩き込んだ。息が完全に止まった。息の詰まった呻き声を上げて身悶えたが、男は手を緩めなかった。二発目の蹴りがすぐに襲いかかり、三発目、四発目と続いた。体はもう限界で、僕は血を吐き始めた。
僕の血が男の靴を少し汚したからか、それが男をさらに苛立たせたようだった。一瞬だけ暴行が止まったが、次の衝撃は致命的だった。僕の顔面に直接キックが叩き込まれたのだ。鼻が折れる鈍い音が響いた。
限界だった。僕は絶望のままに泣き叫んだ。
「ご……ごめんなさい……頼むから、やめて!」
泣くとひどくドモってしまうクセがあるのだが、この時も例外ではなかった。痛む腕で必死に顔をかばいながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
男は手を止めるどころか、僕の手を掴み上げて強引に引き起こし、僕の目を覗き込んだ。
「二度と口を開くな」
冷酷に言い放つと、もう片方の手で僕の爪の指をねじり上げ、剥ぎ取ろうとしてきた。折れた鼻の激痛と、息もできないような拷問の痛みが重なり、僕は狂いそうになった。
「はい、はい、約束します! だからやめて、頼むから、た、助けて!」
僕の悲鳴を聞くと、男は手を放して僕を馬車の中へと放り投げ、ドアをバタンと閉めた。
僕は傷ついた手を抱え込み、被害を確かめた。叫ぶのはやめたが、呼吸は荒いままでした。ゆっくり息を吸って落ち着こうとし、過呼吸は免れたものの、痛みは耐えがたいものだった。鼻を恐る恐る触ってみると、ズタズタに折れ、完全に曲がって血が止まらなかった。
足を引き寄せ、膝を抱えながら、痛みと恐怖で涙がこぼれ落ちるのを必死で耐えようとしたが、涙は次から次へと溢れ出た。
「なんで僕がこんな目に……なんで、なんで、なんでだよ……」
僕は床を拳で叩きながらつぶやいた。だが、手が痛すぎて叩くのをやめた。
ただ暗闇の中でじっと静まり返り、折れた鼻からぽたぽたと木床へ血が落ちていくのを眺めていた。
もしこれが夢なら、今すぐ目を覚ましたかった。けれど、すぐにその考えを打ち消した。この痛みはあまりにもリアルで、あまりにも恐ろしい。両親はいま何をしているんだろうと考え始めた。きっと警察に捜索願を出して、僕を探してくれている……そう信じたかった。
この世界に来るのが簡単だなんて思ったのは、大間違いだった。調子に乗っていた僕に、現実はその残酷さを突きつけてきたのだ。今の僕はボロボロで、壊れかけ、暗闇の隅で恐怖に震えているだけだった。
「嫌だ……こんなところで死にたくない。ここから出たい……この先どうなったっていいから、頼むから……助けて!」
僕は泣き崩れながら叫んだ。
嘘じゃなかった。本当に恐ろしかった。震えが止まらず、息をするのも苦しかった。異世界に召喚されたいなんてあれほど望んでいたのに、いざ出口がなくなると逃げ出したいなんて、勝手で情けない奴だと自分でも分かっていた。でも……僕に一体何ができるっていうんだ? 何もできないじゃないか。
果てしなく思える時間が過ぎた頃、馬車が急停止した。
外から響く悲痛な叫び声に、僕は顔を上げた。
「走れ! 走れ! 殺されるぞ!!」
誰かがパニックで狂ったような声で叫んでいた。
馬車は再び不規則に暴走し始めた。猛スピードで進む背後から、人間とは思えない叫び声が響き続けていた。
「な……なにが起きてるんだ?」
車体が激しく揺れた。木の隙間に目を押し当てると、さっきの男が見えた。右腕がなくなっており、顔には純粋な恐怖を張り付かせて叫んでいた。
「うわあああ! うわあ! うわあああ!」
一体全体どうなっているんだ? もう一人の男の姿は見当たらなかった。馬車が大きく傾いてバランスを崩した瞬間、僕は見るのをやめた。次の瞬間、崖から落ちた馬車は木々に激突して粉々に砕け散った。頭を強く打ち、僕は再び意識を失った。
どれくらい経っただろうか、目を覚ますと、僕は地面に倒れていた。
体中に激痛が走った。右手の方を見ると、自分の右腕が悲惨なまでに押し潰されているのが見え、息が止まりそうになった。呻き声を上げながら、どうにか体を起こした。両脚には木箱の破片が突き刺さっていた。
周囲を見渡すと、背後に高い崖が見えた。周りには砕け散った馬車の残骸と、木切れに貫かれて息絶えた男の死体が転がっていた。
「僕たち……あの高さから落ちたのか? ハハ……生き残れたなんて、運がいいのかな……」
言い終わらないうちに、馬車の残骸の中から異形な化け物が姿を現した。その口には、食いちぎられた男の右腕が咥えられていた。
それが何なのか分からなかった。白い皮膚に赤い斑点模様があり、針のように鋭い歯がずらりと並んだ巨大な口を開けていた。目らしきものは見当たらず、自分のものではない血で全身が濡れていた。僕に気づくと、咥えていた腕を吐き捨て、人間の悲鳴に酷似した咆哮をあげながら、体内の骨を組み替えるかのように体をくねらせた。
後ずさりしようとしたが、足が全く動かなかった。
「な……なんだよあれ……僕を食べようとしてるのか? 嫌だ……」
僕は恐怖に震えながら言った。いつかは死ぬ運命なんだと受け入れていたつもりだったけれど、こんな惨い形で、まともな人生も送れずに死ぬなんて嫌だった。
化け物は僕の絶望など気にも留めず、口から血の混ざった泡を垂らしながら、ゆっくりと近づいてきた。
そして、その獣が僕に向かって飛びかかってきた――
「なんて不快な生き物かしら」
声が聞こえた。
化け物が僕に襲いかかってくる瞬間、うっすらと目を開けた。突然、化け物の背後から眩い光が放たれた。激しい炎の球が化け物を直撃し、一瞬にして骨まで焼き尽くした。僕の上に降ってきたのは, 黒こげになった屍の残骸だけだった。
「ひいいいいっ! うわあああああっ!」
ショックで悲鳴を上げた。
焦げた死骸と内臓が僕の上に落ちてきたのだ。すると、先ほどの声が再び聞こえた。
「あら……ちょっとやりすぎちゃったかしら。ごめんなさいね」
その人物は、僕の上に乗っていた焦げた残骸を取り除きながら謝ってきた。視界が開けると、そこには帽子をかぶり、魔法の杖を手にした一人の少女が立っていた。その隣には、顔を隠すフルヘルムをかぶった全身鎧の騎士が控えていた。
僕の視線は完全にその少女に奪われた。綺麗だった。膝まで届く長い黒髪をなびかせていた。身にまとっている服はこの上なくエレガントで、なぜか頬を少し赤らめていた。深いコーヒー色の瞳が、僕の心を完璧に捉えた。
「ありがとう……君、名前は……」
名前を尋ねようとしたが、蓄積した恐怖と破壊された右腕の激痛が限界を超え、僕の意識を奪い去った。最後に聞こえたのは自分が草むらに倒れ込む音と、心配そうな表情を浮かべて駆け寄ってくる少女の姿だった。
なんて、綺麗な人なんだ……




