三、無菌の箱庭
華桜は、幼い頃から周囲の「空気」というものがどうしても理解できない子供だった。
他人がなぜ笑っているのか、なぜ怒っているのか、その場の微細な温度変化を察知するセンサーが、彼女の脳には生まれつき備わっていなかった。言葉を文字通りに受け止め、決まったルールから外れることを極端に嫌う。
「先生」の呼ぶ声がどこか新鮮で、じっと座っていることに少しだけ緊張していた新学期、周囲のとの間に決定的な溝があることに気づいたが、それを埋める術を華桜は知らなかった。そんな彼女の世界が、さらに激しく揺らいだのは、その年の秋だった。
父親が勤務中に倒れた。あとから知ったその病名は、「糖尿病性高浸透圧性昏睡」という、当時は呪文のようにしか聞こえないものだった。極限まで跳ね上がった血糖値のせいで、救急車の中の測定器はエラーを出し、数値すら測れなかったのだという。けれど、搬送先の近隣クリニックの医師は、ただの脱水症状のように扱い、点滴の輸液を行っただけで、一時的に意識を取り戻した父に「もう大丈夫だから、家族の車で帰るように」と事務的に告げたのだった。
「大丈夫」
医師のその言葉を、幼かった華桜は文字通りに信じていた。お父さんは治ったんだ、と無邪気に安心していた。
高血糖の恐ろしさを、その医師がどれほど見くびっていたか。帰宅の途中、車の助手席で、父親は再び深い昏睡に陥った。華桜の目の前で、眠るように静かに目を閉じ、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
あまりにも明白な医療過失だった。医師と医療機関はすぐに過失を認め、泥沼の裁判を避けるように、提示された高額な賠償金で早期の和解が成立したのだと、大きくなった華桜は知ることになる。大人たちの間で、父親の命の値段が冷徹に計算され、書類が交わされていたあの頃。
ある日、母親が泣きながら華桜に見せたのは、一冊の銀行通帳だった。そこには、華桜が習った数え方では到底追いつかないような、莫大な数字の列が冷たく並んでいた。父親の命が、通帳に並んだ記号へと姿を変えた。
それからの華桜は、狂ったように机に向かった。教室で友達ができなくても、空気が読めずに孤立しても、テストで満点を取れば母親は顔に微かな笑みを浮かべ、華桜を強く褒めてくれた。勉強という明確なルールの世界だけが、華桜にとって唯一の安全基地だった。
母親が、東京の本社への転勤が決まっていた今の父親と再婚したのは、華桜が少しだけ大人の階段に足をかけようとする、春休みの頃だった。莫大な和解金と、新しい父親の確かな経済力。それらが組み合わさり、東京での新しい生活は、絵に描いたような「幸福な家庭」の体裁を整えていった。
華桜は都内の有名私立へと進学し、その端正なジャケットに身を包むことで、己の欠陥を覆い隠すように生きてきた。あの日、駅前の雑居ビルから這い出てきた、あの奇妙な弟──統を見つけるまでは。
朝から、視界の端が薄く明滅していた。華桜は、自分の身体の変調を察知する。けれど、居間にいる両親にはそれを決して悟らせたくない。完璧に調合されたこの家の「幸福な均衡」を、自分の不確定要素で乱したくなかった。彼女はいつものように端正なジャケットを羽織り、朝の光の中へと出かけていった。
けれど、午後になると、頭の奥を冷たい針で刺されるような目眩が本格化してきた。授業の文字がノートの上で滑り出す。これ以上は限界と判断し、華桜は早退を決めた。昼下がりの住宅街を抜け、家に戻ると、中は物音一つしなかった。
父親も母親もまだ仕事の最中で家全体が静まり返っている。二階へ上がる途中、華桜はふと足を止めた。廊下の突き当たりにある、統の部屋。華桜はそっとドアを開け、その暗がりのなかに視線を走らせた。夜の学校が始まるには、まだ数時間早い。けれど、すでに統の姿はそこにはなかった。
華桜の足が、吸い寄せられるようにその部屋の敷居を跨いでいた。ツンとする、わずかに青臭い匂いが鼻腔をくすぐった。それは母親の化粧の匂いとも、洗いたての柔軟剤の匂いとも違う、明白な若い男の肉体の匂いだった。
華桜は部屋を見回した。特に変わった様子はない。というよりも、あまりに物が少なすぎた。本棚には学校のテキストが数冊あるだけで、机の上も白木の色がそのまま露出している。年頃の男子らしいものは、何一つ見当たらない。スポーツの道具もなければ、アイドルのポスターもない。弟が何に興味を持ち、何に突き動かされて生きているのか、この部屋からは一切の記号が削ぎ落とされていた。
(──じゃあ、あの日、あの場所で何を⋯)
数日前、駅前の薄汚れた雑居ビルの前で出くわした、あの統の姿が脳裏をよぎる。顔を真っ白にして、何かを必死に隠そうとしていた弟。華桜のなかで、一つの仮説が形を成していく。
あの子は、この息苦しいほどに整えられた家の中では、自分の欲望をすべて抑え込んでいるのではないか。あの雑居ビルで思春期の男子らしい、歪で、生々しい何かを発散しているのではないか。
あの幼い春の景色に置き去りにされたままだと思い込んでいた弟も、いつの間にか、自分には理解できない「男」という生き物へと変わりつつあるということなのだろうか。
その時、一階の玄関から、カチャリと鍵の回る乾いた音が響いた。物音がして、誰かが入ってくる。母親が帰ってきたのだ。
「華桜? いるの?」
下から母親の声が上がる。華桜は統の部屋を飛び出し、足音を忍ばせて廊下を渡った。
「あ、お母さん」
階段の踊り場で、華桜は努めて平静な声を装って母親を見下ろした。
「どうしたの、こんな時間に。学校は?」
「ううん、ちょっと目眩がして。許可をもらって、早退したの」
「まあ、大丈夫? お薬は飲んだ?」
母親の、心配そうでありながらも、どこか記号的な優しい声。華桜は「大丈夫、少し寝れば治るから」と短く答えると、自分の部屋へと滑り込んだ。
ドアを閉め、ベッドに横たわると、一気に疲労が押し寄せてきた。目を閉じても、あの統の部屋に残っていた、少し青臭い男の匂いと、あの子が隠し持っているはずの「秘密」の残像が、暗闇の中でいつまでも明滅していた。




