二、密室の審問
男は、統の顔を見ることも、手元の札の束を数えることもしない。ただ、男の指先から、市販のパッケージを剥ぎ取られた、銀色のアルミシートが統の手のひらへと滑り落ちる。男は再びカチ、カチ、カチと右足の音を響かせながら、またネオンの届かない暗がりの向こうへと溶けていった。手に入れた新しい毒をポケットに押し込み、統は裏路地を抜け出す。
次の日、またいつも通り学校の前にネカフェの個室に籠もっている時も、静かに授業を聞いている時も、統の耳の奥には、あの男の、カチ、カチ、カチという歪な足音が冷たくこびりついて離れなかった。机の下で、新宿で仕入れたアルミシートに指先で触れる。学校という場所と、ネカフェの暗闇、そして新宿の裏路地。その三つを往復することだけが、今の統のすべてだった。
その日、駅前の雑居ビルから這い出た統の身体は、いつもより深く薬の泥に沈んでいた。エレベーターの液晶画面が、網膜の裏でぐにゃりと歪む。学校へ向かうために自動ドアを抜けた瞬間、都会の容赦ない西日が、統の視界を真っ白に染め上げた。
「──おさむ?」
不意に、上から降ってきた声に、統の心臓が跳ね上がった。光の眩しさに目を細めると、そこに立っていたのは、端正な紺のジャケットを羽織った姉だった。都内の有名私立のバッジが、彼女の襟元で冷たく光っている。帰り道なのだろう。いつも品行方正な彼女が、平日の夕方、よりによってこんな薄汚れたネットカフェの入る雑居ビルの前にいる統を、値踏みするような目で見下ろしていた。
「あんた、そんなところで何してたの。顔、真っ白だけど」
姉の言葉が、耳の奥で二重にブレて聞こえる。統の指先は、ポケットの中のアルミシートを無意識に強く握りしめていた。ここで追求されるわけにはいかない。
「⋯⋯なんでもない。急いでるから、学校行く」
掠れた声を絞り出し、統は姉の肩をすり抜けるようにして歩き出した。背中に突き刺さる彼女の冷徹な視線を感じながら、もつれる足を必死に動かし、夜間の校門へと急いだ。その日の授業の内容は、頭の芯を滑り落ちて、何一つ記憶に残らなかった。
夜。日付が変わる頃、家の中はしんと静まり返っていた。父と新しい母の寝室のドアが完全に閉まり、規則正しい静寂が廊下に満ちた頃、統の部屋のドアが音もなく数センチだけ開いた。隙間から覗く姉の目が、暗闇の中で統を捉える。
「おさむ、ちょっと来て」
拒絶を許さない低い声だった。統は生唾を飲み込み、自分の部屋を出て、廊下の突き当たりにある姉の部屋のドアをくぐった。姉の部屋は、新しい母の化粧品の匂いと、洗いたての衣服の匂いが混ざり合っていた。
「昼間のことだけど」
勉強机の椅子に腰掛けた姉が、ベッドの端に腰掛けた統を正面から見据える。
「あんた、あのビルで何してたの。学校へ行く前でしょ、お母さんにはまだ言ってないけど」
「⋯⋯友達と、動画、見てただけ」
統は床の一点を見つめたまま、事前に用意していた薄っぺらい嘘を吐き出した。声が震えないよう、奥歯を噛み締める。
「動画? ひとりで出てきたじゃない」
「途中で、別れたから」
「顔、変だったよ。汗もすごかったし」
「ただの、風邪。最近、体調悪くて、あっちでも休んでるから」
必死に言葉を繋ぎ止める統の額を、じっとりとした汗が伝う。姉は腕を組んだまま、統の言い訳を黙って聞いていた。その沈黙は、かつて食卓で統を通り過ぎていったあの「洗練された無視」よりも鋭く、統の皮膚を削っていくようだった。
「⋯⋯ふーん」
やがて、姉は短く息を吐いた。けれど、その瞳の奥にある疑念の光は消えていない。完全に納得のいかない、歪な表情のまま、彼女は顎でドアを指した。
「もういいよ。戻って」
逃げるように部屋を出て、自分の布団に潜り込んだ後も、統の心臓は早鐘を打ち続けていた。ポケットの中のアルミシートが、シーツ越しに冷たく統の脇腹に触れていた。それから数日の間、統の日常は不安に支配された。
家族が皆それぞれの学校や仕事へ出払い、しんと静まり返った昼下がりに、統はようやく布団から這い出る。誰もいない居間には、新しい母の化粧品の匂いだけが微かに残っている。いつもならその完全な孤独に安堵するはずなのに、今は生きた心地がしなかった。
家を出て、学校へ行く前のネカフェに向かう道すがらも、雑踏の中にあの紺色のジャケットの影を探してしまう。姉が自分を見るあの納得のいかない冷たい目が、網膜の裏に焼き付いて離れず、胃が雑巾のように絞られた。
手元の薬が減っても新宿の裏路地へ行く勇気は出なかった。あの「カチ、カチ、カチ」という売人の足音よりも、姉のあの納得のいかない冷たい顔の方が、今の統にとっては恐ろしかった。
一週間が過ぎ、十日が過ぎても、家庭の中に変化は起きなかった。遅くに起きる統の生活は相変わらず誰にも邪魔されず、父も新しい母も、統の不在を責めるような書き置き一つ残さなかった。夜、家族が寝静まった後にリビングへ水を飲みに行っても、姉の部屋のドアは固く閉ざされたままで、再び統を呼び出すような気配は一切なかった。親に告げ口をした様子もない。彼女はただ、また元通り、統という異物を自分の世界から綺麗に排除しただけのように見えた。
嵐は去ったのだと、統は思った。学校へ向かう前の、一畳の暗闇。炭酸水で流し込む、慣れ親しんだ苦み。すべては元の静かな泥の中へ戻っていく。そう自分に言い聞かせながらも、薄暗い部屋で一人、机の下のアルミシートに触れる統の指先は、理由の分からない微かな震えを、まだ止められずにいた。




