一、暗緑色の繭(まゆ)
微かな塩素の匂いと、干しきれていない綿の匂いが混ざり合う。東京の空気はいつも、何かを燃やした後の灰のようにざらついていた。
葛近統が、これまでは使わなかった、分厚い辞典が机の横に用意されたばかりの春。父が連れてきた新しい母は、いつも調合された化粧の匂いをさせていた。一歩引いた場所から統を「おさむくん」と呼ぶその声には、親愛の代わりに、出来の悪い硝子細工を扱うような怯えが混じっている。一つ年上の姉は、統が居間に上がると、自分の教科書をそっと胸に抱え込んで部屋へ戻った。拒絶ではない。それは、異物が紛れ込んだ食卓における、もっとも洗練された「無視」の形だった。
言葉が違い、歩く速度が違った。教室の隅で、東京の子供たちの饒舌な言葉のやり取りを眺めているうちに、統の輪郭は薄い霧のようになっていった。
気づけば、まだ袖の長い一年生の制服の襟が首に擦れる季節になっても、統の行き着く先は保健室の、左から二番目のベッドだった。
「葛近くん、少し外してくるからね。冷えピタはそこに置いておくよ」
養護教諭の、湿り気を帯びた足音が遠ざかる。アルミの引き戸が閉まり、完全な空白が訪れた。統は、死んだように静まり返った部屋で、ゆっくりと上体を起こした。白い遮光カーテンを指先で手繰り寄せ、己の身を完全に隠す。光が遮られ、世界が一段、暗い緑色に沈んだ。
統の右手には、すでにそれがあった。教諭が席を外す間際、薬品棚の鍵が引き出しの隅に放置される癖を、統は見極めていた。茶色い遮光瓶。ラベルには、実務的な文体で成分名が記されている。かつて誰かの咳を鎮めるために処方され、そのまま忘れ去られた古い液状の薬。それが中枢神経を痺れさせ、一時的な多幸感と引き換えに、心身を深く縛り付ける「依存」の毒であることを、統はすでに知っていた。
一度、その甘い泥に足を踏み入れてからは、もう引き返せなかった。薬が切れると、東京の街のすべての音が、脳を直接削るような鋭利な暴力となって統を襲う。新しい家族の、あの品行方正な無関心に耐えるためには、この瓶の底にある濁った平穏が、どうしても必要だった。瓶の蓋をひねると、薬品特有の、鼻を突く人工的な甘さが狭いカーテンの中に充満した。
それは、家庭の幸福な匂いとも、教室の快活な匂いとも無縁の、ただ感覚を麻痺させるためだけの拒絶の匂いだった。統は息を止めた。これを飲み干せば、あの薄ガラスの向こう側の家族も、自分を通り過ぎていく東京の街も、すべてがどうでもいい泥の中に溶けていく。
「⋯⋯あ」
声にならない掠れた音が、喉から零れた。統は顎を上げ、暗緑色の空間の中で、その慣れ親しんだ依存の毒を一気に喉の奥へと流し込んだ。とろりとした不自然な甘さが食道を駆け下り、やがてじわじわと、脳の芯が融解していくような微熱が広がる。手足の先から現実感が失われ、世界が急速に白濁していった。カーテンの繊維の一本一本が、異常な解像度で網膜に焼き付き、そして輪郭を失っていく。すべてが遠くなる。激しい耳鳴りの向こう側で、保健室の引き戸が、ガラガラと乾いた音を立てて開いた。
「葛近くん、進路のことなんだけど」
三年の秋、養護教諭が差し出した三者面談のプリントを、統はただ見つめていた。出席日数は、保健室のノートによって辛うじて担保されていた。評価のつかない白紙に近い成績表と、他人と目を合わせられない視線。まばゆい昼間のキャンパスに戻るという選択肢は、最初から存在しなかった。結局、統が進んだのは、夕方から授業が始まる夜間の学校だった。新しい母は「夜間でも、学校は学校だから」と、やはり調合された綺麗な声で言い、父は黙って学費を払った。
一つ年上の姉は、都内の有名私立にふさわしい端麗な装いを隙なく着こなし、眩しい朝の光の中へ出かけていく。統は、彼女たちが家を出払った頃にようやく布団を出る。家族との時間のズレは、統にとってむしろ都合が良かった。だが、環境が変わっても、統の芯にある渇きは変わらなかった。夜間の学校には、自分と同じように影を背負った者たちが集まっていたが、その独特な距離感さえも統には息苦しかった。
学校へ行く前、駅前の雑居ビルにあるネットカフェへ滑り込むのが、統のいつもの日課だった。一畳に満たない暗い個室の引き戸を閉めれば、そこは東京の喧騒から切り離された自分だけの繭になる。ドリンクバーの炭酸水で、手元にある薬を数錠、喉の奥へ流し込む。リクライニングシートに深く身体を沈め、パソコンの無音の画面を眺めながら、薬がもたらす泥のような平穏に数時間だけ身を委ねる。時間が来れば、頭の芯に残る微熱を抱えたままネカフェを出て、何事もない顔をして校舎へと向かい、自分の席につく。それが統の、辛うじて保たれている日常だった。
月に数回、どうしても学校へ行く足が完全に止まってしまう日がある。定期的に訪れるその日にだけ、統は地元の駅を通り過ぎ、新宿へと向かうのだった。目指すのは、派手なネオンさえも届かない、湿ったビルとビルの隙間の裏路地。頭上の看板から漏れる、死にかけた蛍光灯のブーンという低い羽音だけが、コンクリートの壁に反射している。薄暗がりの奥から、その音が近づいてきた。
カチ、カチ、カチ──。
不自然に引きずられる右足が、アスファルトの乾いた砂を噛む歪な音。統の背中が、冷たい壁に張り付く。フードを深く被り、肉の落ちた顔をした「東横の薬屋さん」と呼ばれる売人が、影の中から這い出るようにして姿を現した。




