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夜の深淵で、Lilie(リーリエ)は二度枯れる  作者: 海内裏
第一話〜第五話

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第五話 黒煙のなかの呼吸

 多国籍の労働者が集まる、古びた団地。コンクリートの壁は排気ガスで黒ずみ、夜になると様々な言語の話し声や、油の強い料理の匂いが湿った空気の中に混ざり合う。その一室の狭い暗がりに、陳美玲(タン メイリン)はいた。彼女は常に周囲の視線や、他人が無意識に放つ差別に敏感に反応し、肌を強張らせて生きていた。

 父親はいなかった。日本人だったその男は、美玲の母親が妊娠したと知った瞬間に、文字通り煙のように消えたのだという。家の中では中華系ミャンマー人である母親の激しい言葉が飛び交い、一歩外に出た学校では冷たい日本語が要求される。そんな歪な環境は、彼女の感情の言語化を困難にさせた。うまく言葉を出せない彼女を、周囲の大人たちは「発達の遅れがある子供」として処理した。

「日本語、頑張ろうね」

 担任の教師が浮かべる、歪みのない善意。それが彼女の耳には、別の意味に翻訳されて突き刺さる。お前はいつまで経ってもこの国の一員にはなれない可哀想な外国人だ――そう告げる、静かな差別にしか聞こえなかった。美玲の足は、自然と学校から遠のいていった。

 母親は夜中まで働き詰めだった。頼れる身寄りもなく、言葉の壁に阻まれた家庭内は荒れ果て、日本の複雑な公的支援の網の目からも完全に漏れ落ちていた。時折、事情を知った大人が優しく呼びかける「美玲」という名は、彼女にとって社会の枠組みに無理やり嵌め込まれるための記号でしかなかった。彼女は、自分に名付けたイングリッシュネームの「リア」という響きだけに、辛うじて固有の居場所を見出していた。

(私は日本人じゃないの? 私はどこにいればいいの?)

 胸の奥底にくすぶる、根深いアイデンティティの喪失。自分の居場所をどこかに繋ぎ止めておくため、彼女は団地の同じようなルーツを持つグループにへばりついた。どんなに悪い誘いであっても、「嫌われたくない」という一心から、彼女はその細い身体をただ周囲の熱に委ねてしまうのだった。

 同じ団地の、別の棟の陰には、高叶汰(タカ キョウタ)がいた。彼は物事の要領を得ることや、複雑な手続きを理解するのに人一倍時間がかかる不器用な少年だった。自分の能力や限界を正しく把握できない彼の脳に、容赦なくのしかかっていたのは、精神疾患を患う母親と、寝たきりで介護が必要な祖母のケアを一人で担うという過酷な現実だった。

 完全に社会から孤立している彼に、役所の人間や近所の大人たちは、通りすがりざまに無責任な言葉を投げかける。

「偉いね」

「本当に頑張っている、優しい良い子だね」

 その言葉が、叶汰の口元を硬く塞ぐ。弱音を吐いたら家族が壊れる、自分がやるしかない。大人たちが微笑みながら貼っていく『優しい良い子』という透明な檻のなかで、彼はただ、息をひそめて微笑み返すしかなかった。

 彼の家のテーブルの上には、治療用に処方された精神安定剤や、強い鎮痛剤のシートが、まるでゴミのように溢れ返っていた。

 それから、いくつもの夜が巡った。二人はそれぞれの地獄を抱えたまま、闇の底へ逃げ込み、蹲(うずくま)り続けてきた。ただ呼吸を繋ぐためだけに繰り返される、果てのない空白の連続。

 大人が差し伸べる偽物の手や、逃げ場を奪う優しさに息ができなくなった二人は、引き寄せられるように夜の敷地へと足を踏み出す。向かったのは、夜の団地の片隅にある、冷え切った給水塔の下だった。見上げるほど高い鉄の塊だけが、社会の光を遮って深い影を作っている。

 昼の世界から逃れてきた二人が、その暗がりのなかで、初めてすれ違う。

 リアの肌は、隣に立った叶汰から発せられる、言葉にすらならない強烈な疲弊の匂いを敏感に察知していた。世間に適応しようと限界まで張り詰めていた彼女が、彼のまとっている孤独の波長を捉え、自分のそれと完全に同調していくのを感じた。

 一方の叶汰も、ラベルを貼って評価してくる他者の視線とは全く違う、リアの怯えた瞳を見つめていた。その瞳には、憐れみも、期待も、品定めするような評価も一切なかった。ただ自分と同じように、世界に押し潰され、息が止まりそうになっている剥き出しの恐怖だけがあった。

(あ、この人も、同じだ)

 言葉を交わすよりも速く、二人は直感していた。互いに最初からこの社会の数に入れられていない「異物」なのだと。

 誰の手も届かない、夜の給水塔の下という社会の死角。冷たいアスファルトの上で、二人の歪な影は磁石のように引き合い、静かに、しかし深く重なり合っていった。

 叶汰の二十四時間続く終わりなき介護の合間に襲ってくる慢性的な睡眠不足と、休まることのない脳の疲労は、すでに限界を迎えていた。強烈な眠気と頭痛を飛ばすため、震える手でポケットを探り、母親の処方薬である精神安定剤を取り出した。 最初はただ、動き続けるための栄養ドリンク代わりのつもりだった。だが、一度その麻痺を覚えた脳は、限界を超えるためにさらなる量を要求し始めていた。今やその錠剤は、彼が崩壊しないための絶対的な免罪符だった。

 その隣で、リアはグループの一人から手渡された包みを開いた。乾燥した独特な青臭い葉の塊──。

「これ、私たちの国の神聖な草だよ。日本の息苦しさを忘れられる特効薬」

 そう言われたとき、同じルーツの仲間として認められたい、この国での息苦しさから逃れたいという一心で、リアはあっけなく一線を越えていた。法や倫理を気にする余裕など、とっくに摩耗して消えていた。

 大人は「正しい手続きをすれば、未来は変えられる」と耳当たりの良い正論を語る。しかし、言葉が不自由なリアや、明日の生活さえ見えない叶汰にとって、窓口の奥で並べられる複雑な手続きは、自分たちを弾き出すための不条理な防壁でしかなかった。明るい未来のことなどどうでもいい。今この瞬間の、頭を引き裂くような疲労と恐怖を消すことの方が、彼らにとっては圧倒的に切実だった。

 冷たい鉄錆(てつさび)の匂いの中で、二人は初めてお互いの地獄の温度が、同じであることを知る。リアが拙い日本語で、ぽつりと呟いた。

「みんな、優しい声。でも、私の声、聞かない」

 叶汰は手元の錠剤を噛み砕き、苦味に眉を顰めながら、かすれた声で返した。

「僕も、頑張れって言われるたび、首を絞められてるみたいだ」

 リアが震える指先で差し出した、燻(くすぶ)る煙を叶汰が肺いっぱいに吸い込み、叶汰が手のひらで分け合った錠剤をリアが躊躇なく口に含む。脳をゆっくりと麻痺させていく暗がりのなかで、二人は初めて、誰の所有物でもない自分たちだけの呼吸を取り戻していった。言葉にならない苦痛を黙らせ、ただ静かに寄り添い合う。それは、世間の歪んだ優しさから隠れるための、二人だけの深く美しい逃避の始まりだった。



挿絵(By みてみん)



 それから間もなく、叶汰の祖母が死に、母親が入院した。過酷な介護から一時的に解放されたタイミングで、二人はその場所へ逃げ込んだ。団地の、取り壊し予定になっている空き部屋。

 窓の外には眩しい太陽が照りつけているが、部屋の中は、窓一面に新聞紙を貼り付けた底暗い闇だった。ルーツの違いも、社会的な身分も、ここでは何の意味も持たない。リアが持ち込んだ粗悪な煙が漂う中で、二人はただ指を絡ませ、お互いの皮膚の冷たさだけを確かめ合うように横たわっていた。

 カチ、カチ、カチ──。

 深夜、家族の薬を使い果たし、世界のノイズが再び脳内へ逆流しそうになった二人は、新宿の最深部にある、ネオンも届かない冷え切った路地裏へと向かっていった。「東横の薬屋さん」と呼ばれる男。金を渡すと、彼は淡々と包みを差し出す。その「カチ、カチ」という不規則な右足の音だけが響く。

 暗闇で買い足した白い粒で、世界のノイズを消し去る日々。しかし、それも長くは続かない。耳鳴りを止めるための金が、底を突く。

「カナタ、お金ない。⋯⋯あの声、また聞こえる」

 リアが膝を抱え、震えながら呟く。

「⋯⋯分かってる。これ以上は、家が本当に壊れる。もう、どこにも頼れない」

 二人はスマートフォンの画面の向こうで見つけた「闇バイト」へと手を染めていく。匿名性の高いSNSで指示される「ただ言われた通りに動くだけで高収入」という闇の仕事。お互いを失いたくない二人のスマートフォンには、ただ無機質な指示だけが明快に並んでいた。

「⋯⋯これなら、僕にもできる」

 叶汰は、指示役から送られてきた簡潔な箇条書きのテキストを見つめ、掠れた声で言った。

「僕がやる。リアは、周りの見張りをして。⋯⋯誰かに『頑張れ』って言われるより、このマニュアル通りに動く方が、よっぽど息ができる」

「わかった、見張る。カナタと、一緒にいたいから」

 排除されることを何より恐れるリアは、それが危険な犯罪の末端であると知りながらも、叶汰と繋がっているためにその手を強く握り返した。お互いを想うその執着は、すでに引き返せない呪いとなっていた。次々と危険な犯罪の末端を担わされた二人は、やがて国内の警察の捜査網に引っかかり、逃げ場を失う。

 海外への高飛びを指示されたのはその時だった。偽造したパスポートを手に、追われるようにして夜行便に押し込まれた二人が辿り着いたのは、遠く離れた異国の地だった。

 国境を隔てるモエイ川。その濁った水流のすぐ脇に位置する、ミャンマー東部の街、ミャワディ。

 高い壁と有刺鉄線に囲まれた無機質なビル。偽造パスポートを没収され、自由を完全に奪われた二人は、現地の国際詐欺グループの拠点で捕らわれの身として搾取される奴隷となった。外には自動小銃を持った男たちが立ち、逃げ出すことは絶対に不可能な空間。

 しかし、その過酷な監禁生活の中で、リアと叶汰の心は、奇妙なほど静かに凪いでいた。ここには、自分たちを優しさで縛り付ける大人は一人もいない。「可哀想な外国人」と特別扱いしてくる顔も、「頑張っている優しい良い子」とラベルを貼る声もない。

 日本にいた頃、リアを苛んでいた言葉の壁。しかし、飛び交う中国語の響きの中に身を置いた今、彼女は言語の呪縛から解き放たれ、もう感情を偽って笑顔を作る必要はなかった。文字を読むのが苦手な叶汰にとっても、目の前にあるのはマニュアル化された単純な作業なら迷うことなく実行できた。

 二人は、現地のルートから手に入れた、脳の奥を爆発させるような黒くねっとりとした生々しい衝撃の塊を火に炙った。窓一面を覆い、、眩しい太陽を完全に遮断したビルの一室。冷房の風が唸りを上げる部屋の片隅で、その立ち上る熱い特有の香りを、同時に深く吸い込んだ。

 その瞬間、大人の作った詐欺のマニュアルさえも頭から消え、目の前にはただ、圧倒的な暗闇と、お互いの存在だけが残る。

 外の世界から見れば、ここは自由のない、ただ犯罪組織に搾取されるだけの地獄の檻かもしれない。しかし、日本の大人たちが押し付けた不条理なラベルをすべて剥ぎ取られ、誰の所有物でもないこの最深部の環境に身を置いている今、二人は確信していた。

 煙に巻かれながら、静かに、けれど熱く呼吸を合わせるこの瞬間こそが、自分たちの選んだ、本当の自分の人生を歩んでいるという確かな実感だった。

 その暗闇の底で互いを引き寄せ合った二人は、眩しすぎる太陽の裏側で、確かに息を吹き返していた。

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