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夜の深淵で、Lilie(リーリエ)は二度枯れる  作者: 海内裏
第一話〜第五話

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第四話 無垢な闇に染まる

 海良唯夏(カイラ ユイカ)にとって世界は、テレビの音量を最大にして、眩しいライトを至近距離で浴び続けられているような場所だった。

 部屋の蛍光灯が放つジーという微かな雑音。誰かのきつい香水の匂い。すれ違う他人の笑い声。すべてが脳に直接突き刺さる。

「唯夏は手のかからない、良い子ね」

 母親のその善意の言葉に応えるためだけに、彼女は毎日、限界まで擦り切れるアンテナを張り巡らせていた。つらいときほど「大丈夫です」と口角を上げる。その「優等生の仮面」が剥がれそうになったある息苦しい夜、唯夏は逃げ場を探すようにスマホを開いた。画面に踊る「#お薬もぐもぐ」の文字。

 ──薬局で買える薬なら、誰にも迷惑をかけない。

 生真面目な頭でそう結論づけた彼女は、引き出しの奥に、小さな市販薬の瓶を隠すようになった。その薬を飲んでいる間だけは、世界の狂った大音量が消えて静かになる。その微かな心の自衛こそが、彼女の見せかけの平穏が壊れる始まりだった。

 一方、秋那鈴(アキナ スズ)は、周囲の環境に過敏に反応してしまう性格だった。唯夏のように「優等生の仮面」で隠す器用さは、鈴にはない。感情がそのまま表に出てしまうため、周囲からは「大げさだ」「扱いづらい」と腫れ物のように扱われてきた。

 そんな鈴の不安定な世界を破壊したのは、見知らぬ男による執拗なストーカー行為だった。恐怖が頂点に達したある雨の夜、狭いエレベーターの密室の中。刃物を突きつけられ、自由を奪われた空間で、金銭と、そして一人の人間としての尊厳を無残に奪われた。

 命からがら逃げ出し、泣きながら縋(すが)ったはずの両親は、世間体や身内の保身を気にして事件を曖昧に葬ろうとした。そればかりか「あなたにも隙があったんじゃないの」という、刃物よりも冷淡な言葉を鈴に突きつけた。壊れかけていた鈴の心は、終わらない悪夢の渦へと突き落とされた。

 最も安心できるはずだった家を飛び出し、磁石に引き寄せられるように、夜の街の混沌へと流れ着いた。お金を持っていなかった鈴にとって、新宿の夜は過酷そのものだった。

 スマホの画面に並ぶ『泊まらせてくれる男』の甘い募集を見つめては、あの密室の恐怖が蘇り、画面を伏せる。外からの視線が完全に遮断される個室のネットカフェや、ファストフード店に入る数百円の持ち合わせすら持っていなかった。男の影に怯える彼女が選んだのは、二十四時間稼働している大型ホテルのロビーの片隅や、深夜の長距離高速バスの待合室のベンチだった。

 スマホの画面で熱心に作業をしているフリをし、周囲の不審そうな目を必死に欺きながら、ただ息を潜めて時間が過ぎるのを待った。それでも、一度目を閉じると誰かに襲われるフラッシュバックが襲いかかり、眠ること自体を諦める夜もあった。恐怖をやり過ごすために、歌舞伎町の明るいネオンの下をただ一晩中歩き続けて夜を明かす。そんな極限の徘徊が、彼女の日常だった。

 頼れる身内も身分証もなく、行く当てのない彼女が生き延びために見つけたのは、夜の街の隙間に転がっている泥臭い仕事だった。夕方から深夜にかけては、繁華街のナイトワーク店舗を回る「おしぼり・リネン回収業者」のトラックの助手席に乗った。駐車対策の留守番と、大量の汚れ物を台車で運ぶだけの肉体労働。

 飲食店などが閉店した深夜三時からは、別の「深夜の店舗専門・清盛業者」として、誰もいなくなった無人のフロアで黙々とモップをかけ、トイレを磨き上げた。「身分証がない」という弱みにつけ込まれ、はした金で酷使される日々。それでもその二つの仕事を必死で掛け持ちし、ようやく自分の力だけで日銭を稼げるようになった。

 そうして生活がどうにか軌道に乗った頃、鈴がようやく身を寄せたのは、新宿の歌舞伎町から少し外れた路地裏に佇む、古びた雑居ビルの一室だった。一階には怪しげなスナックが入り、上階は簡易宿所として貸し出されているその場所が、彼女のささやかな拠点となった。

 しかし、身体を酷使して得たささやかな自立と引き換えに、彼女の心は限界を迎えていた。一瞬の物音でも心臓がバクバクと跳ね上がり、常に誰かに襲われる恐怖で、部屋にたどり着いても結局一睡もできなくなっていた。

 最初は、恐怖を紛らわすための些細なきっかけに過ぎなかった。薬局で手に入る強めの睡眠改善薬や、大量の鎮痛剤。だが、何錠飲んでもすぐに耐性がつき、市販薬を買いつづけるお金すら尽きかけていく。夜の街の人間関係は、そんな鈴を、より深い闇へと誘っていく。

 夜の街で顔馴染みになった女から「もっと楽になれるものがある」と手渡された怪しげなカプセル。バックヤードで交わされる割のいい「仕事」の噂。ネオンの影で泥のように眠る同世代の少女たち。狂った秩序が当たり前に転がるのを見続けるうちに、鈴の倫理観は麻痺し、汚れた街の景色に、いつしか自分が完全に馴染んでいることに気づく。

 恐怖に怯えるだけだったその視線はすさみ、もう躊躇(ためら)いはなくなっていた。そんな彼女が、夜の街の最深部でついに手にしたもの──。

 それは、怯える弱虫の自分を消し去り、どんな脅威も怖くなくなる無敵の錯覚を与えてくれる、現実を麻痺させるための手段だった。



挿絵(By みてみん)



 そうして鈴が夜の深淵へと足を踏み入れていた頃、昼の世界で歪に張り詰めていた唯夏の日常にも、決壊の時が迫っていた。最初は引き出しの奥に隠していたはずの市販薬だったが、唯夏の依存は加速し、もはやその過熱を自分自身でも止められなくなっていた。周囲が差し伸べる期待の手にも、スマホの通知にも息ができなくなり、すべてを投げ出して夜の暗闇へと飛び出した夜。引き出しをひっくり返し、部屋にあるだけの現金を急いで掴み取ってポケットにねじ込んだ。

 市販薬の瓶を握りしめ、夜の繁華街をフラフラと彷徨う唯夏の姿が、鈴の目に留まる。刺さるような視線を感じて唯夏が振り向くと、そこには鈴がいた。唯夏の視線は、鈴の手元にある、中身が空になった小さなポリ袋へと吸い寄せられる。それが何を意味するのか、今の唯夏には痛いほど分かった。

 もっと強い現実逃避を求め、鈴が持つ「何か」を欲する唯夏。しかし鈴は、それだけは拒絶するように唯夏から遠ざけた。

「あんたは、こっち側に来ちゃダメだ」

 それでも、すがりつくような唯夏を突き放しきれず、鈴が連れて向かったのは、新宿のネオンすら届かない、冷え切った夜の空気だけが満ちる裏路地の奥深くだった。

 カチ、カチ、カチ──。

 静寂を破り、右足から歪な音を響かせて暗闇から歩いてくるのは、「東横の薬屋さん」と呼ばれる男だった。男は感情を一切見せず、ただ求められるままに、淡々と、いくつかの錠剤が乱雑に詰まった小さなポリ袋を提供する。

「これ、全部飲んだら、聞こえなくなりますか。世界中の音が、全部消えてくれますか」

 男の目すら見ず、虚空に向かって、唯夏は掠れた声でそう溢(こぼ)した。その問いかけは、もはや救いという名の痺(しび)れを求めるものではなく、静寂という名の死を希求する切実な祈りのようだった。

 夜の街の汚さに馴染んでいたはずの鈴だったが、その唯夏の切実な問いかけに胸を突かれ、言葉を失った唯夏が抱える絶望の深さは、自分が男への恐怖や憎悪で狂いそうになっていたものとは、全く違う質の暗闇だったからだ。何を言えばいいのか分からず、ただ隣でその横顔を戸惑いながら見つめることしか、今の鈴にはできなかった。

 男はそんな二人の温度差に眉一つ動かさない。ただ、無機質に袋を差し出すだけだった。それを静かに受け取る、血の気の引いた細い手。そのままスマホの電源を完全に落とそうとした。だが、唯夏の心の奥底にある「優等生の呪縛」が、最後の最後で母親への罪悪感として疼いたのだろう。微かに震える指先が画面を叩き、「探さないで」と一通だけのメッセージを送信した。

 液晶の光すら拒絶した暗闇の中、男が去っていく。その気配が完全に消えたあと、鈴は隣で佇む唯夏の横顔をじっと見つめた。自分と同じように世界に絶望しながらも、自らを壊すような祈りを捧げるボロボロの唯夏。その姿に対する憐れみなのか、それとも彼女をこの汚れた深淵へ引き込んでしまったことへの罪悪感なのか、自分でも判別のつかない昏(くら)い感情が胸の奥で渦巻いていた。

「⋯⋯もういいよ。行こう」

 鈴は唯夏の冷え切った手をそっと握りしめ、自分が這いつくばって手に入れたあの古びた雑居ビルの一室へと、彼女を導くように連れて帰った。

 唯夏は手に入れたポリ袋から、持っていた空の市販薬の瓶のなかに落としていった。カラカラと乾いた音を立てて満ちていく鈍い琥珀色の遮光瓶を見つめたまま、彼女は掠れた声で、初めて自分の名を口にした。

「⋯⋯コハク、って呼んで。この瓶の色のなかに、閉じこもっていたいの。皆が呼ぶあの名前で呼ばれると、自分がただの、中身のない人形になっちゃう気がする」

 それを聞いた鈴は、小さく、けれど確かに頷いた。

「じゃあ、私はリン。あいつらが勝手に付けた名前なんて、もうこの世界にはいらないから」

 お互いの名前を呼び合うこと。それだけが、二人をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の縋り糸だった。昼の世界の住人が放つ善意や言葉は、今の彼女たちにとっては心を摩耗させる眩しすぎる光でしかなかった。二人はカーテンを閉め切った薄暗い部屋のなかで、静寂がもたらす一時の安らぎにただ身を委ねていた。

 しかし、偽りの平穏は長くは続かなかった。唯夏が電源を切る直前に送ったメッセージの電波を身内が追跡したのだろう。雑居ビルの一室に、突如として複数の足音が響いた。

「唯夏! いるんでしょう、唯夏!」

 ドアを激しく叩く音。それは、娘を連れ戻しようとする唯夏の母親の声と、彼女が同行させた男たちの重苦しい声だった。その名が呼ばれるたびに、かつての息苦しい世界が自分たちを再び捕らえようと迫ってくる恐怖が押し寄せた。震える細い腕を、鈴が強く抱きかかえる。

「こっち」

 大人が鍵をこじ開けるよりも一瞬早く、二人は部屋の奥の窓を押し開け、外へと滑り出した。錆びついた鉄製の非常階段を、軋む音さえ置き去りにするように、冷たい雨のなかを必死に駆け下りる。

 追っ手を振り切るため、新宿の冷たいアスファルトをただ夢中で蹴った。もつれる足を必死に動かし、夜明け前のバスターミナルへ滑り込む。目についた地方行きの始発便に、文字通り飛び乗った。動き出した車内、リクライニングを深く倒してようやく息を吐く。身分証の確認もしない現金払いのツアーバスだったのは幸運だった。偽名が印刷された頼りない紙の切符を握りしめ、冷え切ったお互いの手を握り合うまで、震えは止まらなかった。

 流れ着いたのは、見知らぬ地方の繁華街。深夜の静寂のなか、隠れるようにひっそりと明かりを灯す無許可営業のガールズバーの片隅で、二人は働き始めた。

 店長は二人の偽名や事情を察しながらも、通報しない代わりに都合のいい労働力として二人を消費する。世間のルールや倫理から見れば、それはあまりにも危うく、泥沼のような関係だった。しかし、誰の干渉も受けずに済むそこだけが、彼女たちにとっては初めての「本物の隠れ家」だった。大人たちが自分たちを縛るための名前は、新宿の街に置いてきた。これからは「琥珀」と「鈴(りん)」。ただ二人だけで生きるための、唯一の居場所だった。

 はじめは、何もできずに立ち尽くす琥珀の横で、鈴が見様見真似の接客を試みた。けれど、男たちの品定めの視線や酒の入った怒声のすべてが恐怖の引き金となり、客の機嫌を取るための愛想笑いは引きつり、その顔はいつも恐怖に強張っていた。

 しかし夜を重ねるごとに、二人の立ち位置は静かに、変わっていく。一週間、一ヶ月と、氷を溶かすように流れる時間が、彼女たちの役割を入れ替えていった。

 かつて限界まで優等生を演じ続けていた琥珀は、どうすれば大人が喜び、どんな言葉を欲しがっているかを痛いほど理解していた。客が求める「都合のいい少女」の仮面を完璧に着けこなし、おもちゃのように言葉を操り始める。

 完璧な偽物を演じる夜は、静かに魂を削っていく。深夜、古びたアパートの扉を閉めた途端、客の前で張り詰めていた糸がぷつりと切れる。床にへたり込んだまま、二人はどちらからともなく身体を寄せ合う。言葉はなかった。ただ、擦り切れた心を埋めるように、お互いの存在を確かめ合うように、強く抱き合っていた。

 新宿から抱えてきたあの遮光瓶は、とっくに空になって久しい。今、二人の手元にあるのは、鈴がSNSの裏アカウントで見つけた密売人から手に入れた新しいポリ袋だった。その袋を開け、中にある苦い錠剤を互いの舌にのせる。新宿の薬とは少し違う、妙にケミカルで強烈な化学薬品の苦味を、炭酸水の喉を刺すような刺激で無理やり誤魔化し、押し込むように流し込む。脳を灼くような一瞬の痺れが、他人のタバコの匂いに塗れた心をごまかしてくれた。

 冷え切った互いの肌の温度を確かめるように、二人は泥舟のような部屋で背中を預け合った。一人になれば、その瞬間に夜の暗闇へと吸い込まれて消えてしまいそうだった。互いの身体にまとう他人の煙草の匂いを吸い上げ、怯える心の震えを、その小さな身体で受け止める。ネオンの光に背を向けたまま、ただ互いの手を強く握りしめていた。

 アパートの薄暗い片隅、炭酸の抜けたペットボトルの横で、新しい透明なポリ袋がクシャリと静かに横たわっていた。その地方のルートで手に入れた薬すら、中の錠剤は、もう数えるほどしか残っていない。窓の外では、冷たい朝焼けが、二人の拒絶した昼の世界をゆっくりと白ませ始めていた。

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