第三話 ステージのあと
平日の午後二時。みんなが学校で、教室の硬い椅子に座っている時間。私──東雲可奈は自分の部屋のパソコンの前で、オンライン授業の画面をなんとなく睨みつけていた。どうせ誰も私のことなんて見てない。画面をパタンと閉じて、いつものようにスマホの世界へ逃げ込む。それが、私の退屈な毎日。
でも、今の私にとって、学校なんて本当にどうでもいい。私のすべてだったアイドルグループの解散ライブ。そのチケットの落選通知のせいで、私の世界は真っ暗になっちゃっていたから。
画面の冷たい光が、薄暗い部屋を照らす。私はすがるような気持ちで、何時間もSNSを見続けていた。「当選した!」っていう嬉しそうな声と、「全落ちした⋯⋯」っていう涙の言葉。めちゃくちゃに混ざり合うタイムラインの中で、その書き込みを見つけたのは、本当に奇跡だった。
『解散ライブ、二人枠の連番が当選したのですが、友人が行けなくなりました。一席お譲りします。純粋なファンの方に届きますように』
プロフィールのアイコンは、私と同じ推しの写真。過去の投稿を見ても、心からグループを愛している本物のファン仲間だって分かる。「ここしかない」。私は震える指先で、祈るみたいにダイレクトメッセージを送った。
すぐに返信が届いた。丁寧な文章にホッとしたのも束の間、最後に書いてあった数字を見た瞬間、私の指先が凍りつく。
そこに書かれていたのは、チケットの定価よりもずっと高い、いわゆるプレミアム価格。
「純粋なファンに、届きますように、って言ったくせに⋯⋯」
呟いた声は、静かな部屋の壁に跳ね返って消えた。友達が来なくなって、自分が損をしたくなかったのかな。相手の事情を考えてみても、胸のモヤモヤは全然消えない。普段から自由に使えるお金なんてない私が、手元にある貯金を全部かき集めて、やっと用意した定価分のお金。それしか持っていない私にとって、その金額はあまりにも残酷で、絶対に超えられない壁だった。
これさえ手に入れば、あとはどうなったっていい。私は、画面に表示されたデジタルチケットの購入画面を見つめながら、小さく息を吐いた。支払いの期限は明日の午前中まで。選べる道なんて、最初からなかった。
スマホの画面を開いて、検索欄にいくつか怪しい単語を打ち込んでは消した。溢れかえる言葉の中から、「即日」「高収入」「秘密厳守」っていう言葉を、手探りで拾い集めていく。初めて触れる夜の街の裏側に心臓がバクバクしたけれど、焦りのほうが恐怖よりもずっと大きかった。見知らぬアカウントへ、震える指で初めてメッセージを送る。いくつかの事務的なやり取りのあと、指定されたのは、駅裏の薄暗い路地にあるビジネスホテルの一室だった。
部屋の空気は、安い芳香剤と誰かの生活臭が混ざり合って、すごく淀んでいた。ベッドの端に腰を掛けて、私は小さく身を縮める。部屋に入ってすぐ、男の人が折り目のない数枚のお札を手渡してきた。指先に残る現金の生々しい感触。これが、これからすることの代償⋯。でも、それ以上に私の頭を占めていたのは、これでやっとあの光の中に行けるっていう、心の底からの安心感だった。
その人は、私の緊張をほぐそうとするみたいに、優しい口調で言葉をかけてきた。それからバッグに手を伸ばして、緑茶のペットボトルを差し出してくる。言われるまま、渇いた喉を潤すためにそれを口にした。緊張しているせいか、ちょっと不自然な苦味がベロの奥に残ったけれど、そのままゴクゴクと飲み干した。男の人は親しげに言葉を重ねてきて、その間に狭い部屋の冷蔵庫が低く唸り始めた。
空のペットボトルを握る私の手のひらだけが、結露で濡れているのをぼんやり見ていると、突然、頭の中で何かが弾けた。経験したことのない鋭い感覚が、私の全身を駆け巡る。強烈な電気が神経を焼き尽くすみたいに、私の意識が無理やり引っ張り出される。
視界が異常なほどはっきりして、天井の細かい染みが目に焼き付いた。耳元では、男の人の荒い息遣いと、ホテルの古い換気扇の音が、耳が壊れそうなほどの大きさで響く。皮膚に触れるシーツのこすれる感じさえ、刺すような痛みに変わっていく。身体の感覚が、おかしなことになっている。嫌だ、って声を上げようとしても、喉の筋肉が完全に緩みきって、ただかすかな息が漏れるだけ。指先一つ動かせない。
経験したことのない変な気持ちよさと、それに対するものすごい恐怖。その二つが頭の中でぐちゃくちゃに混ざり合って、自分の形が溶けていくみたいだった。
男の人は、私の気持ちなんて完全に無視している。私が怯えているのか、苦しんでいるのかすら、興味がないみたい。ただそこに転がっている、動けない私の身体を、心のない肉の塊みたいに扱って、容赦なく貪り続けている。私の目から溢れた一筋の涙が、冷え切った頬を伝って、枕のシミの中に静かに吸い込まれていった。
夜が明けて、男の人が去ったベッドの上で、私は手に入れた現金をぎゅっと握りしめていた。皺の寄ったシーツの上、指先に残るお札の感触が、昨日の夜の出来事が現実だったんだって、唯一教えてくれていた。
解散ライブは大成功だった。ステージの上の推しはどこまでも眩しく輝いて、割れんばかりの歓声の中で、私は人生で一番熱い空間にいた。隣の席の知らないファンと手を取り合って、一緒に涙を流したあの場所。あんなことをしたことへの後悔なんて、これっぽっちもない。あの瞬間、私は確かに救われた。──私は、間違ってなんかいない。
でも、ライブが終わって、グループが完全に消えちゃった後、私の身体はおかしくなり始めた。
どれだけ時間が経っても、骨の芯まで凍りつくような感覚が、いきなり私の体を襲う。皮膚の裏側を何かが這い回っているみたいな不快感と、ものすごい寒気。私は毛布にくるまってガタガタ震えるしかなかった。
推しっていう唯一の光を失った、圧倒的な寂しさ。そして、自分の体に刻まれた、得体のしれない恐怖。その二つのせいで、心はどんどん狂っていく。胸の奥から湧き上がる名前のない渇きだけは、私の意思なんて無視して、もっと深い夜の闇へと身体を引きずり込んでいく。
その行き場のない渇きに急き立てられるようにして、辿り着いたのは、新宿の裏路地にいる「東横の薬屋さん」だった。
お金が必要なのに、もうあんな場所へ行く勇気なんてどこにもない。一度きりで終わるはずだった、あの嫌な夜の記憶が頭をよぎって、私の足を止めようとする。心がすくんで一歩も行動できないまま、部屋の隅で膝を抱えていた。
そんなとき、暗い部屋で光るスマートフォンの画面が、ある一つの逃げ道を映し出す。それは、たくさんの「スマホの向こう側の目」が集まる、有料配信の世界だった。顔を出さずに、年齢や素性も隠して、画面の向こうの視線に向けて、自分の身体をさらす。
最初は、お金を手に入れるための、ただの手段だった。けれど、手に入れた小さなポリ袋を横目にカメラの前に立つ時間は、だんだんと変な熱を帯びていく。頭がぼんやりする中で、感覚だけが研ぎ澄まされていく。
画面を埋め尽くす匿名の観客たちの、過激な期待がダイレクトに脳へと突き刺さる。その瞬間、私の胸を狂おしいほどのドキドキが満たした。
──ああ、みんな私を見ている。私が、みんなの光なんだ。
それは、かつて客席から見上げていた、あのステージの景色そのもの。私は、現実かどうかも分からない視線の中心で、本物のアイドルになっている。カメラの向こうでエスカレートしていく要求を突きつけてくる客たちは、みんな「私の熱狂的なファン」。危険なリクエストだって、私にとっては「アイドルとしての最高のファンサービス」。だから、もっと喜んでほしくて、笑顔で何にでも応えちゃう。
課金額はどんどん増え、私は二十四時間、常にカメラを回し続けるようになった。ご飯を食べている時も、外出している時も、夜の街を彷徨う時でさえも、スマホのレンズは私のすべてを世界へと映し出し続けた。
カチ、カチ、カチ──。
カメラを回したまま、私は新宿の路地裏で「東横の薬屋さん」の前に現れた。スマホを自分に向けながら、私は最高の笑顔をつくる。
画面の向こうのコメント欄が、ものすごいスピードで流れていく。みんなが私のいる場所を当てようとして、大盛り上がりしてくれている。背景のビルや路地の形で、私がどこにいるか分かっちゃうみたい。「Kanaちゃん、そこにいるの?」「今から行くよ」って、たくさんのファンが私に会いにこようとしてくれているのが、嬉しくてたまらない。
薬屋さんと呼ばれた男の人はお金を受け取ると、何も言わず、ただ淡々といつも通りに小さな包みを渡すだけ。その冷たいやり取りさえ、私にとっては、ステージの裏側にある秘密のやり取りみたい。
「またね!」とカメラに向かってピースサインを作って、私は再び眩い夜の街へと駆け出していく。画面の向こうのファンたちが、すぐ近くまで会いに来てくれている足音が聞こえる気がして、胸がワクワクしている。
スマートフォンのカメラを回したまま、私は大好きな歌を歌い続ける。そんな私の前に、数人の影が暗闇から立ちはだかった。
「やっと会えたね」
「いつも画面で見てるよ。ほら、もっとこっちにおいで」
その人たちが、私の腕を力任せに掴んで、逃げ場を塞ぐ。身体は恐怖でガタガタ震えているのに、私の頭の中は「ファンにもみくちゃにされる大人気アイドル」の姿でいっぱいだった。だから、顔には笑顔を浮かべたまま、その状況を楽しもうとする。
私を力ずくで連れ去ろうとした、その時だった。暗闇を裂いて、鮮やかな赤色灯の光が溢れて、警察官が一斉に突入してきた。その場で次々と取り押さえられていく。何が起きているのか分からない。立ち尽くす私の手首にも、ひんやりとした冷たい金属が突きつけられた。
手から滑り落ちたスマートフォンが、アスファルトの上に激しく叩きつけられる。私の愛したライブステージは、耳を刺すようなうるさいノイズと一緒に消えた。
一夜が明け、私が目を覚ましたのは、液晶の光も、ファンの歓声も、何もない場所。ひんやりとした板張りの上だった。頭の中には激しいフラッシュバックが襲いかかっていて、視界がぼやけ、耳の奥では今も、無数の声が鳴り響いている。
「まだ、配信しなきゃ⋯⋯みんなが私を、待っているんだから⋯⋯」
震える腕を必死にかきむしり、笑顔を向けようとする私に、女性の声が響く。
「調べ室に行くよ。自分の名前、ちゃんと言えるね」
その後、私は拘束されたまま別の場所へ移送された。鏡さえもない、徹底的に何もない部屋。自由を奪われ、毎日、強制的に体の中のものが抜かれていく。身体の熱が冷え切り、頭の霧が薄れるにつれて、私の目の前には、ただただ退屈で灰色の景色だけが残されていった。
私は、きらびやかなステージに立つアイドルなんかじゃなかった。ただネットの海で面白半分に消費されて、心も体もボロボロに壊された、ただの女の子。そんな現実だけが、冷たくそこに転がっていた。
私が夢見た、あの一瞬の眩しすぎる光。それだけが、冷え切った現実の底へと、静かに消えていく。




