第二話 赤い咬み傷
それは、ある雨の日の凄惨な記憶から始まった。
あの日、深い紺色の四角い襟を背に垂らし、胸元のVラインに細いスカーフを結ぶ小森朱音は、母親の代わりに渋々訪れた老人ホームの一室にいた。横たわる祖母のベッドを見つめながら、彼女は上品にプリーツスカートを抑え、その傍らに腰を下ろしていた。
すべてを切り裂いたのは、逃げ場のない狭い部屋で起きた事件だった。そこに踏み込んってきた、一人の男のスタッフだった。
男の脳を蝕んでいたのは、自らを人ならざる獣と思い込む「狼狂」の歪んだ妄想だった。密室の静寂が満ちた瞬間、男の瞳から一切の理性が消え失せ、飢えた獣のそれへと変貌する。言葉にならぬ低い唸り声。自らの指先が鋭い爪に変わり、牙が伸びていく錯覚に狂った男は、剥き出しの捕食者として朱音に襲いかかった。
獣のような息遣い。組み伏せられ、抵抗の声をかき消す雨音。そして、首元に深く突き立てられた、肉を引き裂くような男の歯型──。
その部屋は一瞬にして、無垢な少女を貪り食う狼の檻へと変わり、朱音のすべてを奪い去った。
だが、地獄は事件のあとにも続いていた。
警察の調べが進むにつれ、浮き彫りになったのは法律という名の冷酷な壁だった。犯人の男は重度の精神疾患により、事件当時は物事の善悪を判断する能力がない「心神喪失」の状態であったと──つまり、罪には問えないという非情な現実だった。
「法律で決まっていることだから」
「病気だったのだから」
大人たちはそんな理屈を並べ、朱音の流した血も、奪われた尊厳も、行き場のないまま宙に浮いた。さらに追い打ちをかけたのは、施設の社会的信用を守るために必死に隠蔽を諮るホームの経営陣と、それに同調した母親の姿だった。「大ごとにしないでくれ」と施設側に頭を下げられた母親は、娘の傷よりも世間体と、提示された示談金の額に怯えた目を向けていた。
「あなたももう子供じゃないんだから、大人の対応をしなさい」
その言葉が、朱音の心を完全に殺した。守ってくれるはずの家族も、社会のシステムも、朱音の尊厳よりも大人の都合を選んだ。正しさを盾にした欺瞞に、朱音の心は完全に切り裂かれた。
彼女の生きる場所は、そこから音を立てて変わっていく。首元に消えない「咬み傷」という名の呪い、そしてその醜い痕跡を隠すための大きな赤いフードを被って。居場所を失った少女の抜け殻は、そのまま深く昏い夜の街へと弾き出された。
最初は、ただ夜の街を彷徨うだけだった。しかし、心の傷が疼くたびに、あの日の雨音と絶望が脳裏に蘇り、朱音は正気でいられなくなった。現実の苦痛を麻痺させるため、彼女はいつしか行き着いた新宿の喧騒の中に、自らの身を投げ出した。
そこで出会った「東横の薬屋さん」と呼ばれる男との接触が、彼女をさらなる深淵へと誘う。男から提供される、意識を混濁させる手段に溺れることで、彼女は一時的に恐怖から逃れようとした。それは救いではなく、緩やかな破滅の始まりだった。
依存の代償は重く、手持ちの手段が尽きると、彼女は街に留まり続けるための過酷な選択を強いられるようになる。戻る場所のない彼女は、夜になればホテルの無機質な一室へと赴き、見ず知らずの男たちにその肢体を差し出し、その場しのぎの安息を買うための過酷な生活へと沈んでいった。
新宿の薄暗いカプセルホテルが、今の朱音の根城だった。
赤いフードを深く被り、夜の闇に紛れる。それはまるで、自ら進んでオオカミたちの待つ街の奥へと迷い込んでいくかのようだった。自らの肉体を消費し、その身を削るたびに、彼女の身体には青あざや新しい傷が不規則に増えていく。あの老人ホームの咬み傷をさらに醜い暴力で塗りつぶすように、朱音の肉体は日々損なわれていった。
その街の底へと引き寄せられるように、もう一つの壊された命が、光の届かない場所から逃れようとしていた。
白妙雫は、大学病院の真っ白な病室にいた。
大人たちは「治療に専念しなさい」「あなたのために言っているのよ」と、哀れみに満ちた言葉で彼女を縛り付ける。だが、その白一色の空間は、雫にとっては自らの死と弱さをただ管理されているだけの檻に過ぎなかった。
これ以上、大人の自己満足な常識に消費されたくない。
雫は点滴の針を引き抜き、血の滲む腕を抑えたまま、無我夢中で逃げ出した。何の当てもなく、ただすがるような思いで逃げ込んだ新宿のネオンの底。
光と影がうごめく雑踏の中で、赤いフードを被った朱音の姿が、妙に鮮明に映った。雫は、すれ違いざま、朱音から漂う自分と同じ「壊された人間の匂い」を敏感に察知する。朱音もまた、震えながら夜の街に立ち尽くす雫の、あまりにも危うい白さに目を奪われていた。
フードの奥から見つめてくる朱音の瞳は、雫より少しだけ幼い、あどけなさを残していた。けれど、雫を見上げるその眼差しには、冷徹な色がある。
「⋯⋯行くところ、ないの?」
朱音がぶっきらぼうに差し伸べた手。大人の欺瞞に満ちた優しさとは違う、剥き出しの体温。雫はその小さな手のひらに手を重ね、強く握り返した。それが、お互いを損ない合う、歪な共生関係の始まりだった。
雫にとって、朱音が身を寄せるカプセルホテルの片隅は、新たな檻であり、唯一の安息地でもあった。朱音は、傷だらけの雫を自分だけの「可愛いお人形」として部屋の奥に囲い、世間の目から隠して飼育し始める。
雫がこの世界で呼吸を続けるために、朱音は夜の街へ這い出た。「東横の薬屋さん」から仕入れるのは、白いホルモン剤。そして、現実の痛みを消し去るための無銘の鎮痛錠。薄暗いカプセルの奥、朱音は自分の舌の上に逃避のための錠剤を転がし、雫の口元に含ませる──。
次第に雫の肌の荒れは引き、残された痕さえも残酷なほど鮮やかに美しく咲く。しかし、その輝きと引き換えにするかのように、雫を守ろうと無理を重ねる朱音の心身は、少しずつ削り取られていった。
「⋯⋯ずっと、一緒にいようね」
「うん、約束するよ」
出口の見えない閉ざされた空間で、二人はお互いの存在だけを杖にして、明日へと命を繋いでいた。
だが、雫が美しくなればなるほど、二人は静かな違和感と共に乖離していく。潤いを取り戻していく雫の白い肌は、皮肉にも、彼女が自分なしでも生きていけるほどに、変わりつつあることを朱音に突きつけていた。
ある嵐の夜、朱音は客の常軌を逸した暴力により、もはや歩くことすらままならないほどの傷を負ってホテルに帰ってきた。
「あかね⋯⋯! 嘘でしょう、あかね!」
ベッドに崩れ落ちた朱音を見て、雫は取り乱し、その白く長い手で朱音の身体を抱きしめた。朱音は朦朧とする意識のなかで、自分に触れる雫の手を見つめていた。
その手はあまりにも白く、──自分とは決定的に違う「美しさ」そのものだった。
「⋯⋯触らないで」
朱音の口から、無意識に拒絶の言葉が漏れた。
「その綺麗な手で、私に触らないで⋯⋯!」
それは、自分が命を賭して手のひらの中に飼育したはずの人形が、自分を置いて変貌してしまったことへの、猛烈な嫉妬と絶望だった。
「⋯⋯私が、あかねの代わりに行く」
朱音を失う恐怖に駆られた雫は、自ら夜の街へ立とうとした。今度は自分が絶望を引き受け、朱音を守る側に回ろうとしたのだ。
「⋯⋯雫に、そんなことできるわけないじゃん」
朱音は冷たく笑った。
「雫は私の『お人形』で、あたしの『光』だった。あたしの下で、惨めに震えているから愛せたの。⋯⋯結局、雫もあたしを置いていくんだ」
その言葉は、雫の心を切り裂いた。雫は、自分が朱音の歪んだ自己満足のための道具に過ぎなかったことを突きつけられ、朱音は、雫の純粋な想いすらも信じられなくなっていた。
互いを照らすはずだった光は互いを焼き尽くす業火となり、二人の共依存の関係は崩壊した。
雫の美しさに絶望し、「触らないで」と叫んだ朱音は、そのまま身体を引きずるように出ていってしまった。
客から受けた容赦のない暴力により、肋骨は軋み、足首は異様な形に腫れ上がっている。一歩進むたびに、目の前が眩むほどの激痛が身体を走った。しかし、それ以上に朱音の心を狂わせていたのは、自らの手で美しく「飼育」してしまった雫への、耐え難い恐怖だった。
自分が泥をすすり、肉体を切り売りして繋ぎ止めていたはずの「惨めな弱者」は、もうどこにもいない。自分を置いて、どこか遠い、美しい世界へ行ってしまう。その現実から逃げるためには、もう、あの無銘の錠剤で意識を濁らせるしかない。行く当てなど、最初から他に無かった。
財布に残った僅かな紙幣と、雫のすべてを支配していた手のひらの残骸を握りしめ、朱音は歌舞伎町の冷たい雨の中に這い出していく。
朱音はかつて自分をこの地獄へ誘った「東横の薬屋さん」、その濁った瞳を探して、壊れた身体を必死に引きずっていく。少女の小さな背中は、ネオンの光に侵食されながら、二度と戻れない破滅の奥へと吸い込まれていった。
カプセルホテルに取り残された雫の身体には、すぐに現実の残酷さが襲いかかる。
自傷によって、雫はかつて自分を縛り、同時に唯一の価値でもあったモデルの仕事を失った。そして、何よりも自分を求めてくれた朱音すらも、失くしてしまった。
生きていくために不可欠だった白い錠剤の供給が途絶え、身体を維持するホルモンが底を突き、かつての潤いは急速に失われていく。肌は乾燥してひび割れ、耐え難い倦怠感と激痛が、鉛のようにその四肢を蝕んでいった。
だが、肉体がどれほど悲鳴を上げようとも、雫の心には、もう一滴の痛みすら湧かなかった。拒絶された手を見つめながら、静かに、機能を停止していく。薬が切れれば命に関わる。それを知りながらも、雫はもう二度と、病院へ戻ろうとはしなかった。
カプセルホテルの狭い檻を出て、重い足取りで歩き出す。眩しすぎる新宿のネオンを見上げても、その光はもう彼女の瞳に届かない。朱音に「綺麗なお人形でいて」と乞われ、その通りになることでしか現実から逃げられなかった少女の抜け殻は、ただ朱音の温もりだけを求めて、音もなく夜の深淵へと溶けるように消えていった。
カプセルホテルの部屋には、もう誰の姿もなかった。
カチ、カチ、カチ──。
誰もいない部屋に、幻聴のような歪な足音が響く。世界から弾き出された二人の少女が、闇の最深部で重ね合わせた冷たい体温の記憶。それはお互いを救う光にはなれず、ただ互いの存在を損なうだけだった。引き裂かれた赤いフードだけが、ベッドの上に、消えかけの残火のように取り残されていた。




