第二章:暴かれた輪郭、奪われた過去
その「噂」は、スマートフォンの画面という冷徹なシステムを通じて、音もなく、けれど圧倒的な速度で増大していった。
最初は、どこかの匿名アカウントが呟いた、取るに足らない憶測に過ぎなかった。
『あの新人モデルの白妙雫、裏でヤバい薬使ってるらしい』
『男として育てられたってマジ? 身体の構造が普通じゃないとかいう噂……』
最初は一蹴されるはずの歪な言葉たちが、デジタルな記号となって無数にリポストされ、まとめサイトへと吸い込まれていく。気づけばそれは、誰もが知る「公然の秘密」へと姿を変えていた。
「リリエ……私、どこにも行けない」
夜の自販機の影、雫はスマートフォンの明かりに照らされながら、凍えるように肩を震わせていた。画面に並ぶ無数の文字列は、彼女の透き通るような白さを、面白おかしく汚していく。表の世界で完璧な偶像を求めていた世間は今、彼女の秘められた身体の不条理や、その均衡を保つための薬の存在を、好奇の目で暴こうとしていた。
リリエが自ら調達して手渡していた薬は、彼女の輪郭を維持するためのもの──不足したホルモンを補うためのステロイド剤だった。雫は幼少期、男の子として育てられていた。
先天性副腎過形成症──生まれつきのその疾患は、彼女の身体に宿命のような不条理を刻みつけていた。遺伝子的には女性でありながら、出生時の外性器の形から、彼女は「息子」としての服を着せられ、男として生きることを強要されたのだ。けれど成長するにつれて、周囲の男の子たちとの間にどうしても埋まらない「違い」が、彼女の心を鋭く抉っていく。男の子たちとも、世間がもてはやす普通の女の子とも違う、どこにも居場所のない苦しみ。その違和感はやがて隠しきれなくなり、家庭内にも決定的な亀裂を生んでいった。
『あの子は女の子として育てるべきだったんだ!』
『今さら戸籍をどう変えるのよ! この身体の秘密を知られたら、私たちの世間体はどうなるの!』
毎晩のようにリビングから響いていた、両親の狂気を含んだ怒号と激しい諍い。自分の存在そのものが、家を、家族を壊していく。その恐怖と、押し付けられる性の不条理に耐えかねたある夜、雫は自らの過去のすべてを捨てるように、帰る場所を捨てて夜の街へと足を踏み出したのだ。
しかし世間にとってそれは、ただの「スキャンダラスな違法薬物」という記号に集約される。
「大丈夫だ。画面を見るな」
リリエは彼女の冷え切った指先を包み込む。だが、彼自身の右足もまた、焦燥感でカチ、カチと歪な音を早く刻んでいた。拡散の炎は、確実に雫の現実を侵食していった。
『Y-KID』の編集部には事実確認を求める問い合わせが殺到し、予定されていたスタジオ撮影は「急遽延期」という名目で事実上キャンセルされた。事務所の周辺には、スマートフォンのカメラを向けた野次馬やパパラッチが徘徊し始める。
「外に出ると、みんなが私の身体を透かして見ているみたいで、息ができないの」
部屋の隅で膝を抱える雫の肌は、メイクを必要としないほど白いまま、血の気を失って透明に近づいていく。彼女の行動範囲は日を追うごとに狭まり、やがて表のステージから完全に切り離され、光の当たらない狭い部屋へと閉じ込められていった。かつて誰かの圧倒的な熱量を奪って生き延びたリリエは、今、自らのシステムが完全に機能不全に陥っていくのを感じていた。彼がどれだけ薬を調達し、どれだけその背中で彼女を守ろうとしても、世間という巨大な無秩序の増大を止める術はなかった。
「リリエ、私をどこかへ連れていって。この世界の正しさが、私を壊してしまう前に」
すがりつくような雫の言葉が、リリエの胸を激しく焦がす。逃げ場を失っていく二人の境界線。遠くで、彼らの居場所を突き止めたかのような足音が、じわじわと近づいてくる。




