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夜の深淵で、Lilie(リーリエ)は二度枯れる  作者: 海内裏
第一話〜第五話

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第一話 透明な光

 実家とも、騒がしかった過去のすべてとも絶縁したリリエは、夜の街の片隅にいた。

 独自のルートで調達した違法な薬品を売り捌さばき、「東横の薬屋さん」として暗闇に同化する日々。歩くたびに、彼の右足はカチ、カチと歪(いびつ)な音を響かせる。かつて、誰かの圧倒的な熱量をすべて吸い尽くし、冷え切ったままこの傷を負った自分。その罪悪感という名の呪いだけが、今の彼を動かすエネルギーだった。

 ある夜、彼の前に息をのむほど白い肌と黒髪を持つ少女が現れる。

 メイクをほとんど必要としない、透き通るような肌。彼女はリリエの前に立つと、感情の消えた声で短く言った。

「⋯⋯私の震えを、止めてくれる薬をちょうだい」

 差し出された少女の指先は、凍りつくように冷たかった。リリエが自ら調達した薬を渡すと、彼女はそれを愛おしそうに握りしめた。それが、白妙雫(しろたえ しずく)との出会いだった。

 その後、薬のやり取りが繰り返される中で、リリエは雫という少女の輪郭を少しずつ理解していくことになる。

 雫は、表の世界では新進気鋭のファッションモデルとして活動していた。誌面では一切の汚れもない白い服を纏(まと)い、完璧な美しさを体現している。しかし、その輝かしい「白」の裏側で、彼女は周囲との間に埋められない溝を感じ、深い孤独を抱えていた。誰にも明かせない葛藤を抱え、夜の街に足を踏み入れなければ、彼女はかろうじての均衡すら保てなかった。

「その足、変な音がする」

「ああ、昔の傷だ」

 カチ、カチと響く不規則な足音を、雫は静かに聞き入るようになる。かつて熱量を奪われ、冷え切った心で生きてきたリリエと、凍えるような孤独を抱える雫。

 二人は言葉を交わすごとに、互いの境遇がどこか似通っていることを感じ取っていった。世界の理不尽に傷ついた雫にとって、リリエの歩く歪なリズムは、偽りのない現実として響いた。二人は、社会の枠組みから外れた場所で、静かに時間を共有していく。

「どこまで行くの?」

「夜が続く限り、先へ進むだけだ」

 しかし、周囲の状況は二人の逃避を静観してはくれない。雫をプロデュースする側が求める完璧な偶像、世間が向ける無機質な関心。赤色灯の光が、夜の闇を不気味に切り裂いていく。遠くから聞こえるサイレンの音が、二人を現実のルールへと引き戻そうと迫る。

 押し寄せる現実の波に抗いながら、リリエは右足を引きずり、雫と共に歩みを進める。二人は互いの存在を唯一の道標として、夜の深淵へと消えていく。

 その「噂」は、スマートフォンの画面を通じて、音もなく、けれど圧倒的な速度で増大していった。最初は、どこかの匿名アカウントが呟いた、取るに足らない憶測に過ぎなかった。

『あの新人モデルの白妙雫、裏でヤバい薬使ってるらしい』

『男として育てられたってマジ? 身体の構造が普通じゃないって⋯⋯』

 一蹴されるはずの歪な言葉たちが、デジタルな記号となって無数にリポストされ、まとめサイトへと吸い込まれていく。気づけばそれは、誰もが知る「公然の秘密」へと姿を変えていた。

「リリエ⋯⋯私、どこにも行けない」

 夜の自販機の影、雫はスマートフォンの明かりに照らされながら、凍えるように肩を震わせていた。画面に並ぶ無数の文字列は、彼女の透き通るような白さを、面白おかしく汚していく。

 表の世界で完璧な偶像を求めていた世間は今、彼女の秘められた身体の不条理や、その均衡を保つための薬の存在を、好奇の目で暴こうとしていた。

 リリエが手渡していた薬は、彼女の輪郭を維持するためのもの──不足したホルモンを補うためのステロイド剤だった。

 雫は幼少期、男の子として育てられていた。

 先天性副腎過形成症──生まれつきのその疾患は、彼女の身体に宿命のような不条理を刻みつけていた。遺伝子的には女性でありながら、出生時の外性器の形から、彼女は「息子」としての服を着せられ、男として生きることを強要されたのだ。けれど成長するにつれて、周囲の男の子たちとの間にどうしても埋まらない「違い」が、彼女の心を鋭く抉(えぐ)っていく。

 男の子たちとも、世間がもてはやす普通の女の子とも違う、どこにも居場所のない苦しみ。その違和感はやがて隠しきれなくなり、家庭内にも決定的な亀裂を生んでいった。

『あの子は女の子として育てるべきだったんだ!』

『今さら戸籍をどう変えるのよ! この身体の秘密を知られたら、私たちの世間体はどうなるの!』

 毎晩のようにリビングから響いていた、両親の狂気を含んだ怒号と激しい諍(いさか)い。自分の存在そのものが、家を、家族を壊していく。その恐怖と、押し付けられる性の不条理に耐えかねた夜、雫は自らの過去のすべてを捨てるように、帰る場所を捨てて夜の街へと足を踏み出した──。

 しかし世間にとってそれは、ただの「スキャンダラスな違法薬物」という記号に集約される。

「大丈夫だ。画面を見るな」

 リリエは彼女の冷え切った指先を包み込む。だが、彼自身の右足もまた、焦燥感でカチ、カチと歪な音を早く刻んでいた。拡散の炎は、確実に雫の現実を侵食していった。

 雫が専属モデルとして活動している『Y-KID』の編集部には事実確認を求める問い合わせが殺到し、彼女のスタジオ撮影は「急遽延期」という名目で事実上キャンセルされた。事務所の周辺には、スマートフォンのカメラを向けた野次馬やパパラッチが徘徊し始める。

「外に出ると、みんなが私の身体を透かして見ているみたいで、息ができない」

 部屋の隅で膝を抱える雫の肌は、メイクを必要としないほど白いまま、血の気を失って透明に近づいていく。彼女の行動範囲は日を追うごとに狭まり、やがて表のステージから完全に切り離され、光の当たらない狭い部屋へと閉じ込められていった。

 リリエがどれだけ薬を調達し、どれだけその背中で彼女を守ろうとしても、世間という巨大な無秩序の増大を止める術はなかった。

「私をどこかへ連れていって。この世界が、私を壊してしまう前に」

 すがりつくような雫の言葉が、リリエの胸を激しく焦がす。



挿絵(By みてみん)



 SNSのタイムラインを埋め尽くす拡散の勢いは止まらず、その刃はついに、雫を表舞台へ引き上げた張本人の元へと届く。

「雫、これ以上は雑誌の存続に関わるわ。身辺を綺麗にしなさい。あの男とも、怪しい薬とも手を切るのよ」

 『Y-KID』の編集長である千黄蓮(せんき れん)の言葉は、鋭く、そして現実的だった。

 彼女なりに雫の才能を惜しみ、守ろうとしての忠告だったのかもしれない。しかし、表の世界の生活へ戻れという要求は、今の雫にとって、自分の本質を否定されることと同義だった。

「私の何を知っているの⋯⋯? 綺麗な服を着せて、都合のいい人形にしておきたかっただけじゃない!」

 雫は激しく拒絶した。普段の物静かな彼女からは想像もつかないほどの声が、オフィスに虚しく響く。彼女にとって、蓮が差し出す「正しさ」は自分を縛る鎖であり、リリエが渡してくれる薬とあの暗闇だけが、歪な自分をそのまま生かしてくれる唯一の居場所だったのだ。

 蓮の元を飛び出した雫は、完全に世間から背を向けた。スマートフォンの電源を切り、社会とのつながりをすべて遮断する。外の世界との窓口を閉ざせば閉ざすほど、彼女の視界にはリリエだけが焼き付いていった。

「リリエ、お願い、今すぐ会いに来て」

 繋がらないスマートフォンを胸に抱きしめ、虚空に向かって声を絞り出す。街の喧騒から隠れるように潜む狭い部屋で、雫はますますリリエを激しく求めるようになる。彼の調達してくる薬を飲み、彼の背中にしがみついている間だけ、雫は世界の悪意から逃げることができた。

 リリエが部屋に入ると、雫はすぐにその冷たい指先で彼の服を掴む。カチ、カチと響くリリエの右足の歪な音すら、今の彼女にとっては、自分を現実の世界に繋ぎ止めてくれる唯一の安らぎのメロディとなっていた。

「もう私にはあなたしかいない。他には何もいらないの」

 二人の世界は、周囲を完全に排除し、加速度的に純度を増していく。だがそれは、光の届かない底へ向かって、二人だけで静かに墜ちていくことでもあった。

 スマートフォンに届く、数え切れないほどの通知。それは、リリエを必要とする夜の街の住人たちからの悲鳴のような依存の記録だった。

「行かないで、リリエ。私を置いて行かないで⋯⋯」

 リリエが部屋を出ようとしたとき、雫はその冷たい指先で彼の背中にしがみついた。世間から切り離され、彼だけが世界のすべてになっていた雫にとって、その背中が遠ざかることは自らの存在の消滅を意味していた。

「すぐに戻る。雫の分の薬も、ちゃんと持ってくるから」

 リリエは優しくその手を解いた。歩き出す彼の右足が、カチ、カチと歪な音を立てる。雫の孤独を背負いながらも、自分を求める街へと向かわざるを得なかった。

 置いて行かれる恐怖に、雫の瞳から光が消えていく。静まり返った部屋。残された雫の視線は、机の上に置かれた鈍く光るハサミに吸い寄せられた。

 頭の中で、無数の声が反響する。リリエの「すぐに戻る」という掠れた声、蓮の「身辺を綺麗にしなさい」という冷徹な警告、両親の罵り合い、SNSのタイムラインで自分の身体を暴き立てる世間の無機質なリポストたち。

 ──それらの声が響くたび、彼女の拒絶も恐怖もすべてが黒い絶望へと膨れ上がり、ハサミを握る手を動かした。

 次に雫が目を覚ましたとき、視界を覆ったのは、かつて自分が纏っていたどんな衣装よりも眩しすぎる、白い天井の光だった。鼻を突く消毒液の匂い。耳障りな医療機器の電子音。

 そこは、病院のベッドの上だった。一命を取り留めたものの、自身の身体に触れた雫は、言葉を失うほどの衝撃に襲われる。包帯に巻かれ、傷つき、もう二度とあの完璧な『白』を体現するファッションモデルには戻れない、決定的に損なわれてしまった自分の身体。表の偶像としての価値を完全に失った現実を前に、雫の歪んだ瞳から、ただ無機質な水分が溢れていく。彼女は、その涙で天井の白さを遮(さえぎ)ることしかできなかった。

 病院のセキュリティの壁に阻まれ、雫との連絡を完全に断たれたリリエは、灰色の雑踏の中にいた。

(また、この手から離れていく──)

 かつて妹の命を救えず、姉の熱を奪い、家族とも絶縁した。そして今、唯一守りたかった少女さえも奈落へ突き落としてしまった。すり抜けていく大切なものの重みと、果てのない喪失感が、彼の胸をナイフのように抉(えぐ)る。

 けれど、彼に立ち止まることは許されない。歩くたびにカチ、カチと響く右足の痛みを引きずりながら、リリエは今日も、薬を求める客たちの待つ暗がりへと足を運ぶ。世間の正しさという冷徹な光に背を向けたまま、現実という地獄に怯える者たちへ、一時の「安息」を差し伸べるために。

 触れ合うことすらできなくなった、冷たい指先と、熱い背中。交わした歪な体温の記憶が夜の深淵に消えていく。

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