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夜の深淵で、Lilie(リーリエ)は二度枯れる  作者: 海内裏
第七話 カンナの花びら達

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四、空の塊

 美空の身体は、幼い頃に壊れたまま止まっていた。生まれつき発育のすべてが遅れてしまう、逃れられない持病。それは彼女から「大人の女性になる」という未来を奪うと同時に、子どもを産むこともできない体質を確定させた。

 しかし、彼女を本当の意味で終わらせたのは、その病の治療のために通っていた診察室の記憶だった。白衣を着た、あの男。彼から「ケア」という名目で受けた執拗な行為は、幼い美空の心に、決して消えない枷を嵌めた。

 制服に袖を通す頃には、彼女は病院へ行くことも完全にやめてしまった。

 置き去りにされたような空白の歳月を重ね、心身ともに歪みを抱えたままの美空は、金のためにSNSを通じて夜の街での仕事を始める。武器にしたのは、皮肉にも、その持病によって小学生のまま止まってしまった、歪なほどに未熟な身体だった。

 その過酷な日々に耐えるため、彼女の傍らにはいつも、独特の青臭い香りがする焼き菓子があった。それを口に含むと、仕込まれた「特別な効能」がもたらす深い酩酊感が、診察室の記憶も、男たちの生々しい息遣いも、すべてを現実の向こう側へと押し流してくれた。お菓子の効能に深く依存し、感覚を麻痺させることで、美空は辛うじてホテルの一室へと足を運ぶことができた。

 夜の歌舞伎町。未熟な肉体を記号として大金を払う男たちの欲望に、彼女は自らを切り売りした。しかし、求められれば求められるほど、かつての診察室の記憶がフラッシュバックとなって襲いかかった。男の息遣い、天井の蛍光灯、肌を這う体温。日夜怯え、パニックを起こすようになった彼女が、新宿の地下コミュニティで出会ったのが、白空(はく)という男だった。

 男の風貌は異様だった。衣服から覗く首筋や両腕、そして顔面の半分は、隙間なく彫り込まれた黒いタトゥーで塗り潰されている。眉や唇、耳たぶの拡張ピアスにはいくつもの金属製の装身具が飾られ、額の皮膚の下には、シリコンインプラントによる不気味な幾何学模様の隆起が形成されていた。

 治療のための病院に通えなくなっていた美空にとって、身体に残された『成長への時間』は刻一刻と削り取られていた。焦燥だけが血を巡るなか、自らの手で闇ルートに触れることへの恐怖や、得体の知れない世界へ堕ちていくことへの抵抗が、彼女の足をすくませていた。

 そこに現れた異様な風貌の白空が、自分の身体を一切「男の目」で見ていないことだけは直感的に分かった。法から食み出したその姿なら、この社会の底で薬を手に入れるルートを知っているのではないか。歪な憶測の末、怯えながらも彼に近づいたのは、生き延びるための賭けだった。

 そうして美空は、白空を経由してホルモン剤を買い求めるようになった。彼は自らの特異な身体を維持するため、新宿の街が隠す昏い裏路地へ密かに通っていた。そこで手に入れた素性の知れない海外製の薬を、彼女へと手渡していた。

(これさえ飲めば、『子どもの身体』から脱却できる。本物の大人の女になれる)

 そう願った美空だったが、その代償はすぐに現れた。薬を飲み始めて数日したあたりから、強烈な吐き気と激しい目眩が彼女を襲った。天井がぐるぐると回り、洗面台にしがみつく日々が始まった。それでも、苦痛に耐え続けるうちにいつしか、変化が訪れた。息を吸って胸が膨らむたび、生地の裏側がその真っ赤な熱にカサリと触れ、針で刺されたような鋭い痛みが走る。鏡を見ると、平らだった胸がほんの少しだけ盛り上がっている。肌に触れるとしっとりとした質感が手に伝わった。

 ホテルの薄暗い照明の下、男たちはその変化を「本物の成長期」の初々しさだと、歪んだ興奮を露わにした。幼い肉体を好む男たちにとって、その微かな丸みは格好の刺激となり、美空の指名や売上は一時的に跳ね上がった。

(これでやっと、大人の女になれる、この薬が私を救ってくれるんだ)

 毎朝、鏡の前で胸のサイズを測る時間が、日々の楽しみになった。その微かな喜びを幾度となく繰り返すうちに、小学生と変わらなかった彼女の胸元には、明らかな盛り上がりが生まれていた。

 しかし、それはふんわりとした柔らかい大人の胸ではなく、皮膚の下に異物が埋め込まれたかのように硬く張りつめ、乳頭だけが異様に黒ずんでツンと尖った、不自然な形をしていた。さらに、薬による副作用は彼女の身体全体をパンパンに浮腫(むく)ませ、かつての華奢で未熟だった輪郭の線は完全に崩れ去っていく。逃げ場のない水分を溜め込んで限界まで膨張したその肉体は、男たちの欲望を満たす境界すら曖昧な、締まりのない代用品へと成り果てていた。

 客の反応は激変した。ベッドの上で、男の一人が美空の胸に触れた瞬間、あからさまに不快そうな顔をして手を離した。彼らが大金を払っていたのは、美空のその身体が宿す、完璧に未熟で無垢な幼い肉体を、都合よく消費するため。薬によってもたらされた、顔や手足の浮腫みと、硬く盛り上がった人工的で歪な変貌は、男たちにとってはただの『不良品』であり、価値の損壊でしかなかった。

 SNSのダイレクトメッセージには、冷酷な拒絶の言葉が並ぶようになった。求められる回数は目に見えて減り、提示される金額も容赦なく買い叩かれていった。

 やがて美空は、歌舞伎町での商品価値を完全に失う。



挿絵(By みてみん)



 突然、下着に暗い血が滲んだ。ついに自分にも生理が来たと美空は喜んだが、その出血は二週間経っても、一か月が過ぎても止まらなかった。下腹部には常に鉛を詰め込まれたような重い鈍痛が居座り続けた。

 思い描いていた、ブラウスを綺麗に押し上げるような大人の胸とは違い、急激な膨張に皮膚が耐えきれず、アンダーバストから脇の下にかけて赤紫色のミミズ腫れのような肉割れが何本も走った。皮膚の内側がバリバリと裂けていくような、奇妙な痒みと痛みが一日中消えなかった。薬によるホルモンバランスの崩壊で情緒は不安定になり、些細なことで涙が止まらなくなった。

 資金源が途絶えたことで、ホルモン剤の購入は強制的にストップした。本当の地獄はそこからだった。今度は激しい離脱症状が始まった。身体が燃えるように熱くなって大量の汗が吹き出したかと思えば、次の瞬間には氷のように冷え切ってガタガタと震えが止まらなくなる。激しい怒り、死にたくなるほどの抑うつ、前触れのないパニック発作。夜は一睡もできなくなり、部屋の隅でただ震えるしかなかった。

 外の世界を遮断していた薄暗い隠れ家も、静かに瓦解(がかい)しつつあった。もうどこにも戻る場所がないことを悟った美空は、体を引きずるようにして白空に身を寄せた。彼は何も尋ねず、ただ境界のない闇を広げるように、彼女の震えを静かに迎え入れた。

 白空は新宿の雑踏の底に、社会から隔絶されたような、静かな拠点を構えていた。外の世界を拒絶した部屋には、生活の痕跡を示すような家具は何一つなかった。そこには二人の不揃いな呼吸音だけが響く。彼もまた、その特異な身体を夜の街にひさぎながら暮らしていた。互いに「普通」という規格から食み出し、肉体を擦り減らしてきた。そこには言葉のない痛みの共有があった。

 だが、地獄にはまだ底があった。ホルモン剤の離脱症状による激しい悪寒と灼熱が交互に押し寄せる中、美空の脳をさらに追い詰めたのは、あの焼き菓子の「特別な効能」が切れたことだった。

 感覚を麻痺させてくれていた甘い盾が消え去り、目を閉じれば、あの診察室の蛍光灯や男の体温が、かつてないほど鮮明なフラッシュバックとなって脳裏に焼き付く。激しい不安と、あの独特の青臭い香りを求める渇きが身を焦がし、美空は狂ったように自らの爪を皮膚に立てて泣き叫んだ。

 白空は美空から少し離れた床に静かに腰を下ろし、ただじっと彼女を見つめていた。ただの静かな物のように、嵐が過ぎ去るのを待つように。彼女がどれだけ叫んでも、どれだけ暴れても、同じ空間で黙って受け止め続けていた。部屋の隅で毛布にくるまり、熱病に浮かされたように汗を流し、幻覚から逃れるように壁を掻きむしる、美空の叫び声と、白空の放つ無音だけが、狭い部屋の中で幾日も、幾夜もぶつかり合い、互いの輪郭を削り取っていった。

 そうして静寂に狂気が完全に呑み込まれ、窓の外の光が白く変わる頃、白空の放つ気配にすがるようにして、美空の震えがゆっくりと収まっていく。喉は枯れ果て、叫ぶ体力すら尽きかけていた。美空を縛り付けていた激しい恐怖は、ぷつりと糸が切れるようにして彼女の意識から脱落した。

 それから息を潜めるようにして過ごした、美空の身体は最後の決壊を迎えた。

 これまでに経験したことのないほどに重い、鈍い痛みが彼女を襲った。無理に厚く育てられ、行き場を失った子宮の内壁が引き剥がされる。大量の暗赤色の血の塊が流れ出し続け、それがようやく収まったとき、変化のための浮腫みは完全に抜け落ちていた。あれほどしっとりしていた肌は潤いを失って乾燥し、薬で無理やり膨らませていた胸は萎(しぼ)み、下へだらりと垂れ下がっていた。縮んだことで皮膚が寄り、あの赤紫色の跡だけが深く浮き上がっている。

 鏡を見つめる美空の目から、音もなく一筋の雫が頬を伝い落ちた。大人への脱皮に失敗し、未成熟で無垢な身体にも戻ることはできずに、心も体も完全に底をついていた。

「見せて⋯⋯あなたの体を」

 かすれそうな震える声。白空は静かに、まとっていた衣服を脱ぎ落とした。

 美空の視界に入る、不自然に緩んだ輪郭の余白がだらしなく折り重なる光景。その不格好な撓(たわ)みにまなざしを這わせる。投げ出されたかのように無防備に下膨れした影は、鈍い重みを残したまま、垂れ込めていた。その後ろには、中身を失い、不自然に萎んだ肉の皺(しわ)が、暗がりをじっとりと満たすよう下腹部にへばりついていた。そこにある歪な抜け殻には、美空がずっと怯え続けてきた威圧感も、生々しい熱も、残されていなかった。

 その瞬間、頭の中で自分の姿が、彼のその部位とぴたりと重なった。老婆のように垂れ下がり、そこに残った傷跡。そして、自らの意志で中身を削ぎ落とされ、平坦となった下腹部。形状も、質感も、目的を失ったその佇まいも、驚くほど似通っていた。他者を喜ばせるための体、適合しなければならなかった性別のプレッシャーが、静かな肉の皺の中に吸い込まれ、霧散していく。

 美空は吸い寄せられるように一歩を踏み出し、その無機質な肉体へと腕を回した。密着したその肉体は微動だにしなかった。いかなる動揺も、形を変える気配すらない。萎んでしまった彼女の胸が、平坦な胸板に押し潰されていく。中身を失った者同士が、互いの凹凸を埋めるように混ざり合っていく。

「私、このままでいい」

 彼女は冷たい肌に額を押し付け、自らを縛り付けていたすべての記号が、その胸の中で完全に溶けて消えていくのを、ただじっと感じ続けていた。

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