三、焼き上がりを待つ、冷えた指先
美空が仕事をできなくなり、次の材料を仕入れる金が途絶えたことで、あの隠れ家は完全に息の根を止められようとしていた。
薄暗いマンションの狭いキッチンで、涼風はボウルに残った粉を丁寧に引きずり集めた。最後の焼き菓子がオーブンの中で膨らみ始めている。だが、棚の奥を覗いても、あの独特の青臭い香りを放つ「お菓子の材料」はもう1袋も残っていなかった。完全に底を突いている。
涼風はエプロンを脱ぎ、手元に僅かに残っていた焼き菓子をいくつか掴んでポケットに押し込み、お気に入りのローファーを履いて飛び出した。向かう先は決まっている。あの狂おしい甘さを出すバターのある、あの店。
新宿の雑居ビルがひしめく裏路地には、看板のない木製の扉がある。薄暗い店内に入ると、棚には焼き菓子や、小瓶に入った香料が静かに並んでいた。一見すれば素朴な菓子店だが、漂う空気には特有の匂いと、口にした者を囚えて離さない「特別な効能」が仕込まれている。
「この店で私の作るお菓子を売ってください」
涼風はポケットから取り出した自身の菓子をカウンターに置いた。店主の女、可純はそれを手に取り、じっと見つめる。圧倒的な見た目の可愛らしさ。可純の目が細められた。そこに確かな商機を見出した可純は、即座に提案した。自分の自宅に間借りして作らないか、と。こうして涼風は、静かに闇のビジネスへと足を踏み入れた。
可純の自宅のリビング。ガラステーブルの上で、可純に買い与えられた真新しいスマートフォンが短く震えた。画面には、可純から送られてきた発送コードが表示されている。
涼風は完成した商品の入った段ボールの蓋を閉じ、粘着テープを小気味よく貼り付けた。時計の針は深夜を回っている。それらを手にして、近所の無人発送ボックスへと向かう。静まり返った路上で、スマホの画面をボックスのセンサーにかざす。カチャリと音を立ててロッカーの扉が口を開けた。箱を奥へと押し込み、扉を強く閉める。重い金属音が響き、ロックがかかった。
かつては一部の限られた人間にしか売れなかったその危険な商品は、涼風の手によって化けた。彼女が作り出す「見た目の可愛らしさ」が、SNSを通じて一部の限られた若い女性のコミュニティで広がりを見せたのだ。商品を並べたネットの画面の向こう側で、注文の通知はひっそりと、しかし途切れることなく鳴り響いていた。
可純が店頭で、ネットの受注作業と訪れる客を捌いている頃、涼風は可純の部屋に籠もり、ただひたすらにオーブンの熱風と向き合っていた。
深夜、店から戻ってきた可純は、機嫌のいい足取りで床を鳴らし、涼風の細い肩を背後から優しく抱きしめた。可純が好む濃厚な香水の匂いが、一瞬で部屋の空気を塗り替える。
可純は抱きしめていた腕に少しだけ力を込め、涼風の耳元に顔を寄せた。
「もう私、店の仕事だけで手一杯。これからは売上金の計算もあなたに預ける。⋯⋯言っておくけど、一円でも数字が合わなかったら、私たちがどうなるか分かってるわよね?」
可純は肩から斜め掛けにしていた革製のバッグを開け、輪ゴムで無造作に束ねられた一万円札の塊を取り出した。
「今日の店頭分と、ネット決済から引き出してきた売上金。ここに置いておくわね」
ドサリと机に重い音が響く。涼風の作った「可愛いお菓子」を求めて、画面の向こうから若い女たちが盲目的に現金を注ぎ込んでくる。
もうこのビジネスは、涼風の腕がなければ回らない。可純は目の前の少女を囲い込むため、あえて重い責任と、大金をその手に握らせようとしていた。
涼風が拒むことなく、黙って小さく頷く。可純は満足そうに深く微笑み、自由を奪うように彼女の頬を指先でそっとなぞった。
季節が移り変わる頃には、ネットの画面越しに流れ込んでくる現金の額は、涼風の感覚を麻痺させるのに十分なほど膨れ上がっていた。
深夜、店を閉めた可純は、大きな紙袋を抱えて家に戻ってきた。中から現れたのは、普段の涼風なら絶対に選ばないようなドレスだった。ガラスやアクリルのビジューが星のようにきらめく、薄ピンク色のシルクのミニドレス。歌舞伎町の裏路地にある、キャバクラのキャストたちが通う専門店で買ってきたものだ。
「これ、あなたに似合うと思って」
可純は、涼風の背中のジッパーを優しく引き上げる。
「やっぱり、本当に可愛い⋯⋯。誰の手にも触れさせない。ずっとこの部屋で、私のためだけに綺麗でいてね」
可純の独占欲は、静かに涼風を閉じ込めようとしていた。しかし、そんな強固な檻を揺るがしたのは、涼風の些細な「わがまま」だった。
ある夜、ココアを差し出してきた可純に、涼風はソファの上から上目遣いでねだる。可純が淹れてくれるココアの甘みさえ、今の涼風の舌には、どこか物足りなく、退屈なものに感じられ始めていた。
「ねえ、可純。このドレスを着て、もっと華やかな場所に行きたい。クラブとか、夜の街の綺麗なバーとか」
しかし、可純は涼風の細い肩を強く掴み、頑なに首を振る。
「ダメよ、涼風。外は危険すぎるわ。あなたを誰にも見せたくない。あなたはここで、私だけの⋯⋯。私には、あなたしかいないのよ」
歪んだ愛情と焦燥が、可純の言葉に滲んでいた。
「じゃあ、お店のSNSに私の写真を載せて。それならいいでしょ?」
涼風のまっすぐな視線に耐えかねた可純は、渋々それを承諾した。目元から上の顔の半分を隠して投稿するなら、個人は特定されないだろうという判断だった。
埃の舞う煤けた空気と、セピア色に沈む薄暗い古びた店内。その場違いな空間の片隅で、不釣り合いなほど眩しい上質なパステルピンクのパニエが、彼女が動くたびに小さく衣擦れの音を立てている。白く滑らかな鎖骨の下、ふんわりと広がるドレスの質感とは対照的に、まだあどけなさを残した細い指先。レースに縁取られたその指先は、まるで壊れ物を扱うかのように、自身の手で作った淡いピンクのアイシングクッキーをそっとつまみ上げた。
形の良い小さな唇がわずかに開き、愛らしいお菓子が艶やかな唇の隙間へと引き寄せられる。ほんの少しだけ覗いた前歯が、その愛らしい造形に触れようとしたまさにその瞬間、時間はぴたりと止まったかのようだった。
その退廃的な美しさと、素性のわからない謎めいたビジュアルは、SNS上で反響を呼んだ。『この可愛いドレスの女の子は誰?』
スマートフォンの画面の向こう側から、「いいね」とコメントが押し寄せる。
もっと見せたい。もっと認められたい。
膨らむ承認欲求に突き動かされ、涼風はさらに過激に、様々なアングルからお菓子とドレス姿を投稿するようになっていった。可純もまた、涼風が上機嫌でお菓子を作り続けてくれるならと、それを黙認してしまっていた。
──ある日の午後、タイムラインに流れてくる画像は、画面をボルドーの鮮血で染め上げるような衝撃を放っていた。
煤けた店内の暗がりのなかで、そのドレスだけが生き物のように脈打っている。身体の線に完璧に吸い付くタイトなロングシルクは、深く腰掛けた姿勢のせいで、太ももの付け根近くまで裂けたスリットから、剥き出しの白い肌をすぐ目の前にまで押し出していた。
そこから、ゆっくりと床へとしなだれ落ちる涼風。座り込み、低く這いつくばるようにして見上げる。胸元の贅沢なドレープ生地が重みで前へと大きく垂れ下がり、開いた襟ぐりの奥、その起伏を包む柔らかな肌が、薄暗がりのなかで惜しげもなく露わになる。
ゆっくりと身を起こした、彼女の動きに合わせてドレスの裾が床を滑る。深く裂けたスリットの奥、床を踏みしめる細い足首から、滑らかなふくらはぎの曲線が影の中に伸びている。その上へなぞると、ウエストのビジューが店内の鈍い光を浴びて冷たくきらめく。そのさらに上、涼風の指先には、香ばしい焦げ茶色の焼き菓子が詰められた、手のひらサイズの小さなガラス瓶が握られていた。
涼風は小瓶の中のガレットをひとつ、細い指先でそっとつまみ上げる。
サク、と耳元で響くような繊細な音を立ててお菓子が割れ、微細な破片が彼女の鎖骨の窪みへとこぼれ落ちる。目元を隠したまま、形の良い唇の隙間から覗く前歯が、焼き菓子の断面を艶やかに噛み砕いていく。
その瞬間、小瓶の滑らかなガラス曲面が、店内のわずかな光を歪んだ鏡のように跳ね返した。
──カシャ、と乾いたシャッター音が薄暗い店内に響く。
「ねえ、可純。もっと近くで撮って」
写真に捉えた画面から、突如として生の現実へと引き戻される。砕けるお菓子の香ばしさと、目の前に迫る肌の生々しい柔らかさ。耳元に届いたその声に、カメラを構える可純の喉からかすかな吐息が漏れる。
しかし、その小さなガラス瓶の表面には、ほんの数ミリの大きさで窓の外の景色が反転して写り込んでいた。新宿の裏路地特有の、古びた専門店の変形した非常階段。そして、隣のビルに掲げられた特徴的な形の看板。
少女が自尊心を満たすために世界へ放った一枚の美しい写真が、可純が何年もかけて慎重に隠蔽してきた隠れ家を炙り出してしまった。店の周囲には、明らかに買い物目的ではない、鋭い視線の男たちが立ち止まるようになっていた。
──そして、その日は突然やってくる。
夕方、可純の部屋でいつものようにオーブンの熱風と売上金の束に向き合っていた涼風の手元で、スマートフォンが震えた。画面には「可純」の文字。耳に当て、飛び込んできたのは可純のいつもの声ではなく、裏返った悲鳴だった。
『動くな! 警察だ!』
『おい、そこをどけ!』
怒号。取り押さえる激しい音。店に警察が踏み込んだのだと涼風の脳が理解するよりも早く、身体が動いていた。机の上の万札の束を鞄へ詰め込み、玄関を飛び出した。
涼風はスマートフォンを頼りに街を彷徨う。無人チェックインの民泊を見つけ、誰とも顔を合わせずに部屋へ滑り込んだ。やがて可純の名義だったスマートフォンの電波は完全に途絶えたが、壁に貼られた暗証番号を打ち込み、部屋のWi-Fiに繋ぐことで、かろうじて外の世界との細い糸が繋がった。外との繋がりは、スマートフォンの画面の中にあるデリバリーアプリだけ。配達員が立ち去った気配をドア越しに確認してから、置き配された弁当を部屋に引き入れる。孤独な潜伏生活が始まった。
潜伏を始めて数日が経った夜、何の前触れもなく身体が激しい悪寒に襲われる。お菓子の「材料」が身体から切れたのだと、本能が理解した。手に入らない現実に、身が焦げるような焦燥感が突き上げてくる。ベッドの中でガタガタと震え続けた。爪が肉に食い込むまで拳を握りしめ、一人、渇きに耐え続ける。
どれほどの時間が流れただろうか。何度も夜と朝が入れ替わり、あれほど涼風の心身を支配していた激しい渇きや不安感が、やがて潮が引くように薄れていった。
生きるために民泊を出た涼風は、持ち出した金と数ヶ月分の前払いを引き換えに、家具付きのマンスリーアパートの鍵を手に入れた。外界の光を遮るような無機質なワンルームの部屋で、ひっそりと暮らし始めた。焦燥が消え去った後に残ったのは、ただ圧倒的な虚無感だけだった。生きるための最低限の営みとして、涼風は街の小さな洋菓子店でアルバイトを始めた。
ガラス張りの明るい店内に、焼き立てのクッキーの甘い香りが満ちている。
「涼風さん、こっちのトレイ、冷蔵庫に入れといて」
「はい」
店主の無愛想な声に、涼風は短く答えて手を動かした。誰の目にも触れず、社会の歯車として静かに生きる。それは、あの新宿の裏路地から逃げ出した時に、あれほど望んだ安全でまっとうな日々だった。
夜、営業を終えて、甘い匂いが染みついた制服を脱ぐ。可純の濃厚な香水の匂いも、あの脳を焦がす独特の青臭い材料の香りも、もうどこにも残っていなかった。あの「材料」が入っていなければ、涼風の指先は二度と熱を持たない。あんなに大好きだったはずのお菓子作りへの情熱は、あの劇薬と引き換えに、彼女の心から永遠に失われてしまった。ただ、機械的に作業をこなすだけの日々。
深夜、薄暗いワンルームの部屋で、涼風は備え付けの小さなクローゼットの扉を開けた。収納スペースには、ビジューとグリッターが夜露のように輝くドレスが、溢れるようにひしめき合っている。それは、あの部屋から持ち出した売上金で、潜伏中にネットから買い漁ったものだった。あの華やかな世界との繋がりを、それらだけが証明していた。
涼風は静かにドレスへと袖を通した。背中のジッパーを引き上げる。かつて可純が引き上げてくれた、あの記憶が指先をかすめる。何不自由ない平和の真ん中で、涼風は感情の消えた瞳で、鏡の中の自分を見つめ続ける。そこには、あの頃よりも少し大人びた少女の姿が映っていた。




