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夜の深淵で、Lilie(リーリエ)は二度枯れる  作者: 海内裏
第七話 カンナの花びら達

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二、一粒の葯(やく)

 夕暮れ時の旧校舎は、いつも静まり返っている。しかし、その一角にある調理室の扉を開けると、不自然なほどに濃密で、肺の奥にまとわりつくような甘い香りが満ちていた。

 作業台の前に集まっているお菓子作りサークルの四人が向き合っているのは、もはやただの放課後の娯楽ではなかった。

 クッキーを口に押し込んでから、使った器具を洗い、他愛のない雑談を交わしながら、美空は「その時」が訪れるのを待っていた。

 やがて窓の外が夕闇に染まる頃、美空の脳は、ようやくじわじわと甘美な不感の膜に包まれていく。すべてが遠のくような心地よい麻痺に彼女が身を委ねかけた、その時だった。

「美空⋯⋯大丈夫?」

 陽葵が心配そうな声をかけてきた。先ほど、仕上がったばかりのクマのクッキーを貪るように喉の奥へ押し込んだ美空の姿を、彼女は不安げに見ていたのだ。美空は顔色の悪さを隠すように、穏やかな、取り繕った微笑みを返した。

 美空は、調理室の隅に佇んでいた涼風の方へとゆっくり向き直る。二人の視線が交差した。

 涼風の手元にあるプラスチック容器の中、あの魔法の材料はすでに残り少なくなっている。何かを催促するような冷ややかな視線が、美空を射抜いた。次の材料を仕入れるための金を求めているのだ。それはあまりにも高価で、美空が管理しているサークルのささやかな部費では、到底買い続けられるものではなかった。

「じゃあ、私たちはこれで。美空、また明日ね」

 片付けを終えた陽葵たちが、そう言って調理室を後にした。パタン、と重い扉が閉まり、室内には完全な静寂が訪れる。夕闇に沈みゆく部屋の中に、残された美空と涼風の二人。

 このままではサークルの存続すら危うい。普通のアルバイトでは到底間に合わない。目の前の涼風から逃れるように、美空は震える指でスマートフォンの画面を操作した。ネットの検索窓に「新宿 即日 割り切り」「パパ活 すぐ大金」という、かつての自分なら決して触れることのなかった言葉を打ち込んでいく。

 画面に溢れ出たのは、ハッシュタグを並べた無数の乾いたメッセージだった。何もわからない美空は、その中から「秘密厳守・即日手渡し」とだけ書かれた、個人の男らしきアカウントを選び出す。

 『──な体型です。今夜どうしても五万円必要です。これでも会ってもらえますか』

 自身の身長と、呪うべきその体格、そして切実な焦燥をメッセージに添えて送信したその瞬間、美空はもう二度と戻ることのできない暗闇へと自ら足を踏み出していた。

 返信は、恐ろしいほどすぐに届いた。美空の未成熟な身体は、画面の向こうに潜む歪んだ大人の欲望にとって、待ち焦がれた「最高級の商品」だったのだ。

 通知の電子音が冷たく響いた。そこには、美空の世間知らずな要求を嘲笑うかのような、倍の金額が提示されていた。

 美空は、作業台の上に残されていたクッキーを迷わず掴んだ。これから向かう場所で、あの過去の記憶に自分を焼き尽くされないため、彼女はあらかじめ心を殺す準備をするように、それを口の中へと強引に押し込んだ。

 美空は薄暗い診察室の光景を思い出していた。白衣を着た男の冷たい指、『ただの人形』として弄ばれた、かつて自分を壊したその記憶、それさえ、今の美空にとってはただの「商品」だった。あの甘い安らぎを手に入れる資金になるなら、自らの身を切り売りすることに、もう躊躇いはなかった。美空の足は、すでにその底なしの暗闇へと深く沈み込んでいた。

「危険すぎる、美空、やめて⋯⋯!」

 顔を真っ青にした涼風が、引きちぎらんばかりの力で美空の腕を掴む。しかし、美空はその手を冷たく振り払った。

「涼風は、お菓子を焼いて。⋯⋯私たちの場所を、守って」

 そう言い残すと、美空は振り返ることなく、ネオンの光が蠢(うごめ)く夜の街へと歩き出した。

 一人残された涼風は、胸を突く罪悪感の裏側で、ある昏(くら)い感情が芽生えていることに気づいてしまった。美空がその身を削ることで、手に入るはずの資金。それさえあれば、次の「材料」が買えるという、抑えきれない期待。冷めかけたクッキーを口に含む。やがて訪れるはずの甘美な不感が、友を犠牲にしているという責め苦さえも、ゆっくりと脳の奥で麻痺させていく予感を連れてきた。

 新宿のネオンは眩しく、美空の目を眩ませた。指定された駅近くのホテルのロビーへ向かう道中、彼女の頭の中には焦りだけが渦巻いていた。一度部屋に戻って無理に着替えた、普段の学校で見せる自分とはかけ離れた、少し大人びた私服の裾を何度も引っ張る。

 ロビーの隅で、スマートフォンの画面と現実を交互に見つめながら、祈るような心地でどれほどの時間をやり過ごしただろうか。

 不意に、心臓の鼓動が耳障りなほど大きく響き、手のひらに冷や汗が滲んだ。世界の色が奇妙に引き伸ばされて見える。ロビーの静寂の中で静かに始まりつつあった。

 メッセージの主らしき男が声をかけてきたのは、まさにその時だった。その顔も、声も、美空の脳はノイズのように拒絶する。ただ、促されるままに二人でエレベーターに乗り、無機質なホテルの客室へと入った。

 扉が閉まった瞬間、鋭くなり始めた五感が、男の気配を異常な生々しさで捉えてしまう。これ以上感覚が尖る前に、一秒でも長く時間を稼がなければならなかった。シャワーを浴びると、感情の消えかけた声でそれだけを告げると、美空は逃げるように浴室の扉を閉めた。

 タイルの床に座り込み、頭から温水を浴びる。早く効いてほしい、あの男のいる部屋に戻る前に、早く脳を麻痺させてほしい。祈るような心地で、ただ激しい水音の中に身を潜めていた。

 肌を叩く水滴の感触が、不自然なほど生々しく、鋭く変容していく。浴室の反響音が耳元で大音量に膨れ上がり、自分の心臓のバクバクという音だけが狂ったように自覚できた。麻痺ではなく、五感が極限まで鋭くなる過敏化の波が、美空を襲っていた。

 浴室を出て、部屋の冷たい空気に晒される。美空は諦めたようにベッドに横たわり、静かに目をつぶった。

 暗闇の中で、男の手がゆっくりと自分の方へ伸びてくる気配が伝わる。その冷たい指が華奢な肩に触れた途端、過敏になりすぎた皮膚の感覚が、男の体温の不快さを何倍もの現実味に変えて脳内へ流し込んできた。

 その感触に耐えようとした時。──ようやく、胃の奥から熱い塊がせり上がってきた。

 脳がじわじわと甘美な不感の膜に包まれていく。過敏だった男の気配も、皮膚を焦がすような不快感も、すべてが分厚い膜の向こう側へと遮断されて遠のいていく。何も感じない、何も痛まない。遅れてやってきた毒の麻痺が、美空を現実から切り離していく。客室のベッドに横たわり、彼女は呼吸を止め、ただの静かな人形になっていた。



挿絵(By みてみん)



 気がつけば、深夜の調理室に戻っていた。使われていない旧校舎のこの場所だけが、夜の静寂のなかに取り残されていた。

 窓の外の灯りを背にして、美空は、待っていた涼風の前の作業台に、手に入れた万札の束を音もなく置いた。美空の髪は少し湿っており、その瞳からは一切の感情が消え失せていた。迎えた涼風の瞳もまた、同じようにうつろで、感情の起伏が削ぎ落とされていた。

 ──それから数日後。調理室に差し込む西日は驚くほど穏やかで、彼女たちの底なしの秘密をすべて覆い隠すように優しかった。

「やっぱり涼風のクッキー、世界一美味しい! これさえあれば、家でお兄ちゃんと比べられるイライラも、なんだか全部どうでもよくなっちゃうな」

 陽葵(ひまり)が焼き立てを嬉しそうに頬張り、声を弾ませる。

「本当。これがないなんて、もう考えられない。これを食べている時だけが、一番落ち着く」

 実家の棚から持ってきたという、錫(すず)の缶に入った紅茶を慣れた手つきで淹れながら、那巳(なみ)が静かに微笑む。

「ふふ、二人が喜んでくれてよかった」

 美空が、おっとりと取り繕った微笑みを返す。彼女の華奢な肩は、いつものように固く閉じられたままだった。

 トラウマを消し去ってくれるこの「甘美な麻痺」を、美空の心はもう拒絶できなかった。それでも、金の力でこの穏やかなサークルが守られ、現在の飢餓から逃れられている事実に、彼女は深く依存していた。

 美空の言葉に、涼風は小さく頷き、視線を落とした。

 自分の作ったお菓子が、このサークルを、みんなの居場所を守っている。そう自分に言い聞かせなければ、胸の痛みに押しつぶされそうだった。

 美空と涼風。引き返せない一線を越えた二人は、互いの罪から目を背け合うように、ただ深く視線を交わすだけだった。

「ねえ、来週は何を焼く? 今から楽しみだなぁ」

 陽葵が無邪気に問いかける。

 手に入れた金と、溢れるお菓子。満たされているはずの空間で、少女たちはいつまでも終わらない、優しくて不気味な放課後を演じ続けていた。

 だが、少しずつ綻びが生じ始める。

 ある日の放課後、小麦粉をふるっていた陽葵の指先が、小刻みに震えていることに気づいた。粉が不自然に台の上へとこぼれ落ちる。さらに、四人でお菓子を食べている最中、時計の針が進む実際の時間と、自分たちの主観的な感覚が大きくズレるという、奇妙な時間の歪みまで現れ始めた。ほんの数分が、まるで数時間にも感じられる。

 やがて美空は、お菓子を口にしても、あの甘やかな脳の麻痺が訪れるまでに明らかなタイムラグが生じるようになったことに気づく。感覚が沈み込むのが一瞬遅れ、その隙間を縫うように、過去のフラッシュバックが鮮明に脳裏をよぎる。彼女たちの身体は、すでに材料に対して耐性を持ち始めていた。

 異常はついに、学校生活の場にまで漏れ出していった。それまで物静かだった那巳の指先の震えは、広すぎて静まり返った実家のダイニングでの夕食時や、授業中にも支障が出るほど悪化し、親や教員から不審の目を向けられ始める。

 このままではすべてが壊れてしまう。そう危惧した美空は、稼ぎ出した潤沢な資金を使い、ネットで見つけた身分証だけで即日借りられる、学校から離れた陽当たりの悪いマンションの一室を独断で契約した。

 四人はやがて、家族の呼ぶ声も学校へと続く道のりもすべて放り出し、外の世界の光を遮るように、厚いカーテンで閉め切られた薄暗い密室へと引きこもった。スマートフォンはすべて電源を切られ、作業台の上で無機質な通知音を鳴らすことすらなくなった。そこは、取り憑かれたようにお菓子作りに没頭するためだけの空間だった。

 お菓子の毒がどれほど美空の五感を狂わせようとも、もう彼女の心が、甘みも苦みも受け付けなくなっていた。

 ただ、背後から絶え間なく迫り来るトラウマのフラッシュバックに怯えながら、呪われた処方箋を流し込むように、機械的にお菓子を口に放り込み続ける。

 外界との繋がりを完全に断ち切った狭い部屋の中で、少女たちは、ただ漂い続ける甘い匂いに燻されながら、終わりなき底なしの深淵へと、静かに、深く沈降していった。

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