第五章:楽園の檻、マニュアル通りのリアル
クアラルンプールの郊外にある、高い壁に囲まれた無機質なビル。そこが、二人の逃亡劇の終着駅だった。
パスポートを没収され、自由を完全に奪われた二人は、現地の国際詐欺グループの拠点で捕らわれの身として搾取される奴隷となった。外には自動小銃を持った男たちが立ち、逃げ出すことは絶対に不可能な檻の空間。
しかし、その過酷な監禁生活の中で、リアと叶汰の心は、奇妙なほど静かに凪いでいた。ここには、自分たちを縛り付ける日本の優しい正論を吐く大人は一人もいない。
「可哀想な外国人」と特別扱いしてくるボランティアも、「頑張っている優しい良い子」とラベルを貼ってくるケースワーカーもいない。
さらに、日本にいた頃はリアを苛んでいた言葉の壁からも、彼女はこの地で完全に解放されていた。マレーシアの華人という自らのルーツに回帰したリアにとって、飛び交う中国語の響きや、組織が用意した無機質なマニュアルの言語は、中途半端な日本語への過剰適応を一切必要としなかった。
文字を読むのが苦手な叶汰でも、マニュアル化された単純な操作なら迷うことなく実行できた。言葉の呪縛から解き放たれたリアも、感情を偽って笑顔を作る必要もなかった。
二人は、現地の密売ルートから手に入れた強力な植物性薬物を手にした。部屋の窓一面を覆う眩しい太陽を完全に遮断したオフィス。冷房の風が唸りを上げる部屋の片隅で、その薬物を同時に深く吸い込んだ。
脳の奥を爆発させるような、生々しく熱い衝撃。その瞬間、大人の作った詐欺のマニュアルさえも脳内から消去され、目の前にはただ、圧倒的な暗闇と、お互いの存在だけが残る。外の世界から見れば、ここは自由のない、ただ犯罪組織に搾取されるだけの地獄の檻かもしれない。
しかし、日本の大人たちが押し付けたヤングケアラーや可哀想なハーフという不条理なラベルをすべて剥ぎ取られ、誰の所有物でもないこの最深部の環境に身を置いている今、二人は確信していた。
決められたマニュアル通りに淡々と指を動かし、植物性薬物の煙に巻かれながら、静かに、けれど熱く呼吸を合わせるこの瞬間こそが、自分たちの選んだ、本当の自分の人生を歩んでいるという確かな実感だった。
遠い日本の夜の街。二度と少年少女たちと関わりのないリリエは、今日も右足の痛みを引きずりながら、冷徹に夜の闇を歩き続けている。
二人が暗闇の最深部で掴み取った本物のリアルだけが、眩しすぎる太陽の裏側で、確かに息を吹き返していた。




