五、向けられた背中
新宿のあの部屋で過ごしていた頃、陽葵の傍らにはいつも、独特の青臭い香りがする可愛いお菓子があった。それを口に含むたび、歪んだ現実のすべてを優しい霧の向こうへと押し流してくれた。感覚を麻痺させることだけが、陽葵のすべてだった。
だが、崩壊は突然訪れる。部長の美空が連絡を絶ち、涼風も、あの密室から忽然と姿を消したのだ。お菓子の供給が途絶えたその瞬間から、陽葵の本当の地獄が始まった。
両親と兄が暮らす家へと連れ戻されたとき、その依存が致命的な破綻を招く。実家へ戻って数日。陽葵の身体は激しい衝動に襲われた。自室のベッドの上で、大粒の汗を流しながら「あれをちょうだい、あのお菓子をちょうだい」と、虚ろな目で壁に向かって狂ったように叫び続けた。自分の爪で皮膚を血が出るまで掻きむしり、尋常ではない様子で部屋中を這い回る娘の姿。そのあからさまな異変を目の当たりにした両親は、激しい嫌悪と恐怖を隠さなかった。
親の手によって、陽葵は外部との連絡を完全に断たれ、自室での監禁状態の生活を強いられる。食事は部屋に届けられ、風呂やトイレに立つ際も、実の母親に一挙手一投足を監視された。激しくのたうち回り、あのお菓子を求めて叫ぶたび、父親にベッドに縛り付けられた。彼女の身体には、抵抗の跡である無数のあざや生傷が増えていく。
最初は世間体を取り繕うために娘を隠していた両親だったが、一向に収まらない狂気と叫び声に、恐怖と羞恥は冷酷な諦めへと変わっていった。陽葵をまっとうな人間に戻すための対話や介護を諦めた家族は、彼女を家を汚す「厄介な異物」として完全に隔離する道を選ぶ。
陽葵の部屋には簡易トイレが置かれ、食事の回数や風呂に入る頻度も減らされていく。それは治療ではなく、存在そのものを隠蔽するためのものだった。
薄暗い部屋に放置される時間が長くなるにつれ、陽葵の過敏になった耳は、壁の向こうの微かな気配を捉えていた。廊下から聞こえる足音は目に見えて減り、鍵の閉まった密室は、家族の意識から切り離されていく。両親の呼び声が自分ではなく、まっとうに生きる兄の部屋へと向けられる頻度が増えていく。彼らにとって、自分はもう死んだも同然なのだと冷酷な現実が胸に突き刺さる。
週末の昼下がり、家の中は静けさに包まれていた。鍵の閉ざされたドアの前に人の気配が途絶えたその隙を突き、陽葵は自室の窓の鍵を震える指で外した。部屋で履いていた薄いスリッパのまま窓枠を乗り越え、外壁の雨樋にすがるようにして地面へと滑り降りる。
一歩、外の世界へ足を踏み出した瞬間、遮るもののない昼下がりの強烈な日光が、陽葵の網膜を容赦なく焼き焦がした。全身から嫌な汗が吹き出し、頭の芯が割れるように激しく痛む。街を行き交う人々の話し声や車の走行音が、まるで脳の奥を直接針で刺されるかのように響き渡った。陽葵は自分の震える両腕を固く抱きしめ、激しい飢えと眩暈に耐えながら、記憶の糸だけを頼りに足を引きずり続ける。
そうして、ようやく着いたのは、那巳の実家だった。そこは高い塀に囲まれた、見るからに裕福な外観の豪邸だった。だが、インターホンを押して現れた那巳の母親は、陽葵から娘の名前を口にされただけで露骨な嫌悪感を露わにした。
「あの子はもう、うちの人間じゃないわ」
母親は冷たく言い放つと、陽葵を突き放すように、あるアパートの場所を紙切れに書き殴って手渡した。
教えられた住所へ向かう陽葵の足取りは、すでに限界をとうに超えていた。這うようにして辿り着いたそこには、外壁が剥がれ落ち、およそ人が住んでいるとは思えないほど荒廃したボロボロの木造安アパートがあったあった。今にも床へ崩れ落ちそうな身体をかろうじて支えながら、陽葵は軋む階段を上った。部屋のドアを叩くと、中から那巳が現れた。陽葵の姿を見ても眉一つ動かさず、言葉少なに室内へと促した。
部屋に入ると、生活臭とは異なる独特の異臭が立ち込めていた。床には、ゴミが大量に散乱している。
薄暗い部屋の床に座り込み、那巳はバッグから小さなポリ袋を取り出した。その袋の中でカサカサと乾いた音を立てたのは、ラムネによく似た、不自然なほど鮮やかなピンク色の錠剤。表面には、海外の高級車のロゴが不気味に刻印されていた。
那巳は床に転がっていた炭酸ジュースのボトルを手に取り、袋からつまみ出した錠剤をその中へと落とし込んだ。液体に沈んだ錠剤が、シュワシュワと音を立てて激しく泡を吹き始める。透明だったジュースは、瞬く間に鮮烈なピンク色へと染まっていった。
「綺麗⋯⋯」
感情の消えていた陽葵が小さく呟いた。
差し出されたボトルの口を唇に当て、渇ききった喉を鳴らしながら、そのピンク色の液体を一気に流し込む。炭酸の甘みの奥から、舌を焦がすような強烈な苦味が突き抜け、喉の奥がカッと熱くなった。
陽葵は空になったボトルの口を見つめながら、焦燥感ばかりを募らせていた。数分が経ち、さらに数分が経つ。ただ喉の奥に残る嫌な熱さだけを意識し、時計のない薄暗い空間で、どれほどの時間が流れたのかも分からなくなっていく。目の前では那巳が、虚ろな目を宙に向けてゆらりと身体を揺らしていた。
「ねえ、いま、何時⋯⋯?」
まるで暗闇の底で何時間も放置されているような静寂の中、陽葵は耐えかねて声を絞り出した。
「まだ十分くらいしか経ってないよ」
那巳は、手元のスマートフォンを寝かせたまま、歌うような掠れた声で答えた。さっきまで死人のようだった彼女の顔には、蕩けるような笑みが張り付いている。那巳の瞳が、震える陽葵のすべてを包み込むように、ねっとりとした優しさで向けられた。
その熱い視線に射すくめられた陽葵の脳内は、一瞬で沸騰した。だが次の瞬間、突然喉の奥が痛み、胃の底から熱い泥のような塊がせり上がる、強烈な吐き気が彼女を襲った。
水分を流し込んだはずなのに、口の中はカラカラに乾ききり、張り付いてうまく声が出ない。自分の呼吸音や心臓の音が耳元で異常に大きく響き始め、額や首筋からじっとりとした脂汗が噴き出す。視界の端が砂嵐のように細かく痙攣し始め、目の前の景色や物体の輪郭がぐにゃりと歪んで焦点が結べなくなった。
世界がバラバラに崩壊していくような恐怖に陽葵が息を呑んだ、その時だった。歪んだ景色の向こうから、那巳の、驚くほど熱を帯びた白い手が迷いなく伸びてくる。その指先が、汗に濡れた陽葵の頬に触れ、輪郭をなぞるようにして、ゆっくりと首筋へ、そして肩へと這い降りてきた。じっとりと汗ばんだ手のひらが、陽葵の熱い肌にピタリと吸い付く。
指先がわずかに触れるたび、皮膚の裏側をかすかな戦慄が走り、抗いようのない熱が脳を支配した。だんだんと脈拍が跳ね上がり、肋骨を内側から叩かれるような激しい鼓動が全身を支配していく。それまでずっと陽葵を苛んでいた脳の飢えと絶望のすべてが、嘘のように消え去っていく。脳内へ直接ガソリンを注がれたような、狂った感覚が押し寄せ、焦点の合わない両目が、存在しない光や空間の揺らぎを激しく追いかけ始めた。
目の前の那巳が愛おしくてたまらない。彼女のために自分の命を今すぐ捧げてもいいという、歪んだ執着が芽生えていた。夢心地のまま、縋り付くように互いの髪をかき上げ、汗ばんだ頬や首筋、背中へと、確かめるように震える指先を滑らせていく。
手入れの行き届いた那巳の、薄く繊細に浮き上がった鎖骨の硬い起伏。その気高いまでの尖りに、陽葵のどこか緊張の解けた、少しだらしなくも吸い付くように柔らかな胸のふくらみが押し付けられ、形を歪めながら深く沈み込んでいった。
過敏になった感覚は、服の繊維が擦れるわずかな摩擦さえもどかしく感じさせた。ただ、一秒でも早く、一ミリでも深く、その生々しい存在の証を直接肌に刻み込みたいという未知の渇望だけが二人を突き動かしていた。衣服を引きはがす手つきには、初めて触れる肉体への戸惑いよりも、頭の芯を白く染めるような衝動の強さが勝っている。
完全に重なり合うと、互いの肋骨が軋むほどの力で強く、深く抱きしめ合った。じっとりと湿った素肌が隙間なく重なり、熱い境界線が溶けて混ざり合っていく。
陽葵の、あどけなく肉のたわむ腰回りの柔らかさが、那巳の凛と引き締まった滑らかな腹筋や腰のくびれに容赦なく押し潰され、互いの隙間を埋めるようにしてぴったりと貼り付いていく。その滑らかさと柔らかさの決定的な違いが、密着する皮膚の凄まじい摩擦を通じて、互いの脳へ直接鮮烈に流し込まれた。
どこが正解かも分からぬ二人の指先は、本能のままに相手の肌へと割り込み、肉を押し沈め、その質感の違いを貪り合っていく。
「ひまり」
那巳の手が、陽葵の顎を強く掴んで有無を言わさずに上を向かせた。理性を失った那巳の瞳が至近距離で陽葵を凝視し、逃がさないようにその豊かな身体を自らのしなやかな重みで押し包んでいく。
「な、み……っ、あ……」
喉の奥から漏れ出た陽葵の甘い喘ぎが、那巳の耳元を熱く濡らす。密着した胸元からは、どちらのものかも分からぬほど激しい鼓動が、肉を伝って響き渡り、二人の熱は加速していった。
物が散乱する床の上で、カタカタと震える身体を隙間なく密着させる。二人は互いの境界を失った一頭の獣のように、アパートの片隅で激しくもつれ合っていった。
「なみ、どこ、あつい⋯⋯、もっと、はく⋯⋯」
「大丈夫⋯⋯、全部、とけるから⋯⋯」
一つのペットボトルの水を口移しで分け合うようにして、狂ったように飲み干した。唇から溢れた一筋の雫が、熱を帯びた喉元を伝い、重なり合った二人の境界へと流れ落ちて消えていく。
静まり返った部屋の中で、二人の間にあった目に見えない壁は、音を立てることもなく崩れ去った。那巳は陽葵の肩を引き寄せ、その確かな存在を確かめるように強く抱きしめる。窓の外では夜がしんしんと深まり、都会の喧騒すら遠く感じられる。誰に教わったわけでもない絆の形が、この濃密な沈黙の中でゆっくりと形作られていった。
それからの時間は、歪んだ愛を囁き合う断片的な記憶の残像でしかなかった。耳元で繰り返される熱い吐息。鼓膜を叩く肋骨が軋む音。皮膚の内側を駆け巡る冷たい熱。アパートの床に心地よく沈んでいく二人。愛を囁きかけてくる無数の唇。時間が指の隙間からこぼれ落ちる。
興奮の残り香が薄れ果てた明け方、訪れたのは、心臓が激しく波打ったまま一睡もできないという拷問のような覚醒だった。白々と明けていくアパートの天井を見つめながら、陽葵は脳の芯が干からびていくような焦燥感に怯え、震える那巳の身体にしがみつき続けた。
やがて限界を迎えた意識が、強制的に遮断されたのは昼過ぎのことだった。気絶に近い睡眠から陽葵が目を覚ましたとき、世界は灰色に変色していた。頭が割れるような拍動が響き、一晩中奥歯を噛み締め続けたせいで顎が激しく痛む。窓の外からは、夕方の街の雑音が聞こえていた。
西日が微かに差し込む安アパートの床に、ピンク色の液体がこびりついた空のペットボトル、そして小さなビニール袋が転がっている。隣には、那巳が寝返りを打って背中を向けていた。前夜、あれほど愛おしく見えた彼女の身体は、今はただの、脂汗の臭いを漂わせた生身の少女でしかなかった。
「⋯⋯なみ」
陽葵が掠れた声で呼んでも、那巳はぴくりとも動かない。陽葵の心に、底なしの泥のような鬱と、冷徹な現実が押し寄せてくる。
(私は、何をしてしまったんだろう)
実家を飛び出し、もう戻る場所なんてどこにもない。それなのに、目の前の那巳が自分を永久に救ってくれるわけでもない。昨夜の「愛している」「どこにも行かない」という甘い誓いは、一晩限りの幻覚に過ぎなかったのだ。
その時、床に転がっていた那巳のスマートフォンが、ブブブ、と無機質なバイブレーションの音を立てて震えた。画面に表示されたのは、「東横の薬屋さん」。
陽葵は、自分の身体の奥底から、どす黒い飢えを静かに感じていた。もう普通の生活には二度と戻れない。陽葵は震える手で、眠る那巳の背中にそっと、すがるように手を伸ばすことしかできなかった。




