十五、光の中の揺らぎ
カーテンの隙間から差し込む眩しい光の中で、さくらは小さく鼻歌を口ずさみながら朝食の準備をしていた。
ここ数年の間、夫の澄から求められることは減っていた。互いに年齢を重ね、冷め切ったわけではないが、どこか事務的な同居人のようになっていた。しかし、ここ最近になって、彼から身体を求められるようになっている。
(⋯⋯やっぱり、最近はじめたピラティスの効果かしら)
さくらは自分の引き締まり始めたお腹を服の上からそっと撫で、満足げに微笑んだ。
玄関で、鞄を抱えた娘の華桜と、いつも通りスーツを着た澄を見送る。「行ってらっしゃい」というさくらの声は、今日もこの家庭にふさわしい調合された綺麗な響きを伴っていた。二人の背中が角を曲がって見えなくなるのを確認してから、さくらもまた職場である都内のアパレルショップへと向かうために駅へと歩き出した。
満員電車の揺れに身を任せながら、さくらはスマートフォンの画面をスクロールしていた。普段なら見流してしまうはずのSNSのタイムライン。妙に色彩の鮮やかな健康食品の広告が紛れ込んでいた。
『女性らしい理想の身体のラインに』
『内側から満たされる、うつくしい肌へ』
いつもなら「よくある誇大広告」と切り捨て、気にも留めなかったはずの言葉だった。しかし今日に限って、その文字が不思議と強く目を引いた。
ピラティスの成果で、せっかく澄との関係が戻りつつある。もしこの広告の言う通り、もっと完璧な身体を手に入れることができるなら。
さくらは電車の窓ガラスに映る、自分の少し疲れた顔を見つめた。化粧の裏側にある、年齢に抗いきれないわずかな翳。
画面の中のハーブのデザインを見つめるさくらの指先が、無意識のうちにその広告のリンクをタップしていた。
サプリメントゼリーや漢方茶を飲み始めてから、さくらの身体には変化が現れていた。
鏡の前に立つたび、胸の奥がじわじわと張るような確かな緊迫感がある。身体全体の線がどこかふっくらと、それでいて瑞々しく肉感を帯びていくのが分かった。
何より驚いたのは肌だった。ほんの少し血の気が引いたように青白く変化し、その奥にガラスのような異様な透明感が生まれている。小さな炎症やくすみが抑え込まれているかのようだった。
効果が出始めるにつれ、さくらの内側から底知れない自信が湧き上がってきた。
職場のアパレルショップでも以前より明らかに口数が多くなり、声のトーンが一段上がった。溢れるエネルギーを凝縮したようなハイテンションで、一日中動き回っても全く疲労を感じない。周囲のスタッフからは「最近すごく生き生きしている」と褒められたが、血管の中を熱い何かが猛スピードで駆け巡っているようだった。
澄を意識し常に興奮状態にあるせいか、さくらの脳は夜になっても激しく冴え渡った。
ベッドに入り隣で規則正しい寝息を立てる澄の気配を感じながら、暗闇の中でパチリと目を開ける。どれだけ目を閉じても眠気が訪れない夜が、一度や二度では利かなくなっていた。
同時にさくらの内側には、かつてないほど激しい感情が生まれつつあった。
澄が疲れてそのまま眠ってしまい、自分を求めてくれない夜。さくらは布団の中で、爪が手のひらに食い込むほど拳を強く握りしめた。胸の奥からせり上がってくる、どす黒いほどの激しい怒り。それを品行方正な妻の仮面の下で、必死に、そして辛うじて抑え込む。
暗闇の中、さくらの浅い呼吸だけが静まり返った寝室に静かに、歪に響いていた。
夜リビングの蛍光灯が消えた後、さくらはスマートフォンの画面が放つ青白い光の中にいた。
開設したSNSの裏アカウントには、顔を隠し下着同然の際どいウェアを身につけたさくらの写真が並んでいた。漢方やサプリで変わっていく自分の肉体を、誰かに見せつけずにはいられなかったのだ。
「スタイル良すぎます」
「もっと見たい」
スマートフォンの通知が鳴るたび、さくらの脳内に強烈な快感が走った。見知らぬ男たちからの無数の反響と、理性を揺さぶるようなDM。澄に無視される夜の乾きを埋めるように、さくらの投稿は日に日に過激さを増し、エスカレートしていった。
ある夜、澄が先に眠りにつき、華桜も部屋から出てこない時間。さくらは吸い寄せられるように脱衣所へと向かった。
洗濯籠の中に、華桜が今日着ていたジャケットとスカートが丸められていた。さくらは自分の服をすべて脱ぎ捨て、まだ娘の匂いが残るその服に、無理やり自分の身体を押し込んだ。サプリの効果でふっくらとした胸元が、ブラウスの生地をはち切れんばかりに押し広げる。
スマートフォンのカメラをセットし、録画ボタンを押した。 レンズの向こうの男たちを挑発するように、さくらは鏡の前で身をくねらせる。そして、ジャケットのボタンを一つずつ外し、ブラウスの襟元を大きくはだけさせ、ギリギリまで肌を露出させていく。
撮り終えた動画に、衣服の隙間から覗く肌が見えない程度のモザイクをかける。その手つきは、ピラティスやサプリを始めた頃の、あの「品行方正な母親」のものとは完全にかけ離れていた。
投稿ボタンをタップする。画面が「送信完了」を告げた瞬間、さくらは脱衣所の冷たい床の上で、激しい高揚感と、脳を灼くような強い不眠の熱に浮かされていた。




