第三章:北への逃避、名前の消滅
二人が身を寄せたのは、新宿の歌舞伎町から少し外れた路地裏に佇む、築四十年の古びた雑居ビルだった。一階には夜間しか営業しない怪しげなスナックが入り、上階の狭い一室は定住者のいない簡易宿所として貸し出されている。窓のアルミサッシは歪み、外のネオンの光が煤けたレースカーテンを青白く染めていた。
薄暗い部屋の中で、スマートフォンの画面が何度も無機質に明滅する。親や友達からの「心配しているよ」「どこにいるの? 話を聞かせて」という、優しさに満ちた通知。唯夏と鈴はそれを冷めきった目で見つめた後、携帯の電源を切った。スマホの電源が落ちる瞬間の黒い画面。大人の笑顔やネットの通知、それらはすべて彼女たちを攻撃する眩しすぎる光でしかなかった。ユイとリンは薄暗い部屋で、リリエから手に入れた薬の効果がもたらす多幸感や麻痺に身を委ねていた。
しかし、そんな防空壕も、世間の正しい管理によって唐突に引き裂かれそうになる。ユイの過剰摂取が限界を迎え、部屋の床で激しい虚脱状態に陥ったのだ。さらに最悪なことに、ネットの足跡から二人の潜伏先を辿った大人の影が、すぐそこまで迫っていた。
「唯夏! どこにいるの、唯夏!」「鈴、あなたのために言っているのよ」
遮光カーテンの向こう、廊下から本名で娘を呼び、縛り付けようとする親たちの声が聞こえる。本名で呼ばれるたびに、世間の歪んだ秩序が、檻となって自分たちを捕らえようと迫ってくる。
(大人の言う正しさになんか負けるな。私たちは、私たちの夜を守る)
リンは意識の朦朧とするユイの細い腕を抱きかかえ、大人がドアをこじ開ける寸前、部屋の奥の窓から外へと飛び出した。錆びついた鉄製の非常階段を、カツン、カツンと夜の冷気の中で駆け下りる。周囲の優しさを完全に拒絶し、警察や親の包囲網を間一髪で潜り抜けて深夜の街を疾走した二人は、そのまま地方へと向かう夜行バスへと滑り込んだ。
辿り着いたのは、遠く離れた東北の地――仙台だった。
激しい禁断症状に苦しむユイの身体から、リンはつきっきりで薬の毒素を抜いた。海良唯夏と秋那鈴という、大人たちが縛り付けるための本名は、その地に完全に捨て去った。ただの「ユイ」と「リン」として生きるために。二人は、国分町の片隅にある、うらぶれたボッタクリのガールズバーで働き始めた。世間のルールから見れば、それは非合法で、倫理から外れた汚い稼ぎ方かもしれない。しかし、男たちの浅はかな欲望を騙し、金を巻き上げるその薄暗い空間こそが、彼女たちにとっては初めて手に入れた誰にも脅かされない防空壕だった。




