第二章:「正しさ」の放棄と、深まる呪い
ある定期試験の夜、唯夏の脳は疲労とストレスで破裂しそうになっていた。眠りたいのに、昼間の教室の雑音が耳から離れず、心臓のバクバクが止まらない。そんなとき、スマホのネットの海で「お薬もぐもぐ」「病み垢」というハッシュタグを見つける。そこには、市販の風邪薬や鎮痛剤をたくさん飲むと嫌な現実を忘れられる、という同世代の書き込みが溢れていた。「薬局で買える薬なら犯罪じゃないし、誰にも迷惑をかけない」と完璧主義な彼女は考え、親に見つからないよう引き出しに隠した市販薬の瓶に手を伸ばしてしまった。
大人はいつだって「将来のために今は我慢しなさい」と未来の正論を語る。しかし、今この瞬間の脳の過熱や恐怖に押しつぶされそうな二人にとって、未来のことなどどうでもよかった。彼女たちにとって薬物は非行などではない。優しさに満ちた息苦しい世界や、誰も守ってくれない現実から自分を守るための、たった一つの防空壕だった。
二人は路地裏の片隅で出会い、お互いを「ユイ」「リン」と呼び合った。その瞬間に、社会が用意したすべての肩書を捨て去った。
ユイの市販薬依存は急速に加速し、やがてドラッグストアの薬では脳の過熱を止められなくなった。リンは、自分が使っている粗悪な合成麻薬をユイに渡すことだけは拒んだ。「あんたは、こっち側に来ちゃダメだ」という、リンなりの唯一の境界線だった。代わりにリンが連れて向かったのは、新宿のネオンも届かない、冷え切った夜の空気だけが満ちる裏路地だった。
カチ、カチ、カチ――.
右足から歪な音を響かせて歩いてくる密売人、リリエ。ユイが抱える限界の脳を静めるため、二人は薬を求めてリリエを訪ねたのだ。リリエは誰も責めない。少年少女たちの危うい状態を見ても、お説教をたれることなど一切ない。彼はただ、求められるままに淡々と医療用の強力な鎮静剤を提供するだけだった。
「これだな」
いつも通りに薬の包みを差し出すリリエ。スマホの電源を落とし、液晶の光を拒絶した暗闇の中で、リリエの刻む不規則な不協和音だけが、ユイとリンにとっては世界の息苦しい正論をかき消してくれる唯一の現実のメロディだった。対価を支払うと、リリエは何も言わず、ただ淡々とその手を解き、暗闇の奥へと消えていった。
「私をユイって呼んで、リン。あの名前で呼ばれると、自分が人形になっちゃう気がするから」「うん、ユイ。私もリンだよ。あいつらが呼ぶ本名なんて、もう世界のどこにもない」
お互いの名前を呼び合うこと。それ自体が、二人をこの世界に繋ぎ止めるための、最も深くて強固な呪いの始まりだった。




